小学生編
第2章
「ぼげぇぇぇぇぇぇ!」
「少し黙れブスっ!」
ワイドを狙った俺の渾身のサーブを勇太のアホが難無くリターンする。
「おんどりゃー」
でドロップショット。勇太が猛然と突っ込ん拾い上げる。反応はぇぇぇ!
「クソ女っ!」
「死にさらせっ!」
拾っただけの半端なチャンスボールを叩きつけ15-0
うしっ!今日も絶好調!
「おい真奈。いきなりドロップはねーよ。ベースラインから打ち合えよ。練習にならねーじゃん?」
「ん?今日も私のリストは絶好調だぞ?」
「ちょっとちょっと二人とも真面目にやってよ!」
俺たち二人を担当してる松本コーチ二十八歳独身が、慌てて駆け寄ってくる。
「真奈のやつが・・・」
「うーっ、いつもどおりって言ったからつい・・・すいません」
「今日はお客様が一杯なんだからさ。テニス協会の人も来てるんだから、あんまりフザケてると全日本出れなくなっちゃうぞ」
「はーい」
仕方がないので、ベースライン上でラリーを始める。フラットばかりでも芸がないのでスライスやサイドスピンを織り交ぜてラリーを続ける。
「いいわ。そのまま続けて」
安心したのか松本コーチはお偉いさんのもとに戻り、何やら熱弁を振るっていた。
腰を壊すまでは屈指のプレイヤーだった松本コーチの顔は広いようだ。顔は小柄な丸顔だけどな。
今日の練習には大勢の見学者が訪れている。
理由は簡単な話で、先週行われた全国小学生テニス選手権大会で俺と勇太がそれぞれ優勝したからだ。特に勇太は5年生で日本一だ。
同じテニスクラブ所属で男女が両方制覇が快挙だったらしく、俺達の所属するOTCの指導法に秘密があるのでは?とテニス協会や全国ジュニアテニス関係者が集まったのだ。
来週には全日本ジュニアのU12が始まる。本来ならこんな茶番のラリーやってる場合じゃないのだが。
「真奈ーちょっとバックハンドの感触確かめたいから、多めに振ってー」
「あいよー」
勇太の注文通りにバックに打ち返す。実はさっきから俺は殆ど動いていない。スピンを混ぜたり結構えげつない球を打っても、フォアにきっちり打ち返してくる。
関係者の評価は俺のほうが高い。様々な球種を打ち分ける黄金の右が絶賛され不世出の天才呼ばわりされ、世界を嘱望されてもいる。だが俺の考えはちょっと違う。
言いたくはないが、阿久津勇太は紛れもない天才だ。俺のようななんちゃって天才とはレベルが違う。俺は山川だった頃の知識をフルに使った、いわば下駄を履いた状態なのに対し、勇太は素で俺のレベルに追い付いているのだ。尋常ではない才能だ。
しかし勇太の才能が今開花したのは間違いなく俺のおかげでもある。ある意味俺たちは幸運だった。小さい頃から異能の二人で鎬を削り続けることが出来たのだから。
つまりOTCの指導方針には何の秘密もない。強いて言うなら松本コーチの自主性を重んじる指導方針が俺達に合ったって事だろう。
「はーい。二人共上がってー」
やれやれ、やっと終わりだ。ヨッ!と
両手撃ちのドライブがオープンコートを綺麗に抜いたとこで終了。
使ったボールを片づけ、ダッシュでコーチのもとに走る。俺と勇太は何をするにも競争なのだ。
「練習はいつも一緒に?」
突然カメラが向けられた。ん?TV埼玉も来てたのか。チラっとコーチを見ると人差指と親指で丸を作っていた。インタビューは了承済みらしい。
「はい。二人でコーチに教わっています」
ニコニコと答える俺をよそに、後ろに勇太は隠れるように立っている。俺相手には威勢がいいのに情けない奴だ。
「二人は仲良しですか?」
おいおい。回答に困ること聞くなよな。『とっても仲良しです』とか言っちゃったら真吾とかクラスメート見せらんないだろ!
「ねえ、勇太どうなの?」
「俺に聞くなよ真奈が答えろよ」
「あんたも少しは考えろ」
「はい。今ので二人がとっても仲良しなのが判りました」
しまった。ヒソヒソと小突き合ってる姿が誤解された。埼玉700万人の県民に誤解される!流したらその社は終わりだからって言ってやりたい。
「最後に全日本ジュニアに向けての意気込みを、あ意気込みってわかる?」
「優勝目指して頑張ります!皆さん応援して下さい。よろしくお願いします」
「お願いします」
ボソボソ呟く勇太の声は絶対マイクに入ってないと思った。
「真奈がしっかりしててママも鼻が高いわー」
「そおかな?」
「そうだよーTVカメラ向けられても堂々と話せてる。ママだったらきっと舞い上がっちゃうわ」
OTCからの車中、結奈ママはご機嫌だった。今日は遅くなったので和真と待ち合わせして外食だ。だから尚更なのだろう。
俺は以前のように結奈ママに劣情を催すことも無くなっていた。小さいながらも自前のおっぱいあるしな。揉みたくなったら自分の揉めばいいし。
つっても揉むと痛いんだな。特に先っちょなんか激痛モンだぞ?これは男やってたら絶対に判らない事だったね。
話が逸れたが、甲斐甲斐しく俺のテニス活動のサポートをしてくれる結奈ママには、いくら感謝しても足りないってことだ。
「パパと連絡はついたの?」
「うん。駅から移動中だって」
「そっか」
「パパに会ったら一杯一杯褒めて貰おうね」
テンション高いぞ?結奈ママ。大丈夫か?別に俺は和真に褒めてもらえるようなことしてないと思うんよ。
「よう。こっちだ」
伏木家御用達のステーキハウスに到着すると、先に着いていた和真が軽く手を上げる。
改めて思うが、伏木家の生活水準は中流でも上の方に位置する。
俺が小学生から硬式テニスにハマってられるのもそのお陰だし、山川やってた頃じゃ、こんなステーキハウス入ることは夢のまた夢だった。
そこは素直に感謝しないとな。和真!結奈ママ!老後は任してくれ。
オーダーからしばらくして俺の肉は届けられた。付け合せを根菜のみにした小さめのフィレステーキ。この時間にポテトとかコーンの炭水化物は避けたい。油分も好ましくないからフィレ肉。俺は食生活にもかなり気を使っているのだ。
「今日、TVカメラが来てね。真奈にインタビューしてたのよ」
俺がフィレ肉と格闘してる頃、結奈ママは話始める。
誇らしげに結奈が喜んでる姿を見ると、これも親孝行の一環なのかな?とも思う。
あーワイン飲んでたのか。結奈ママご機嫌だな。まあとりあえず肉がうめぇ。
「すごいな真奈。マイク向けられて緊張しなかったかい?」
哀れ、帰りの運転手が確定した和真が訊ねる。
「あまりしないかな」
緊張ねー?契約取れずにパワハラ上司に報告する恐怖に比べれば、マイクを向けられるぐらいなんてことは無いんだわ。
「ほんっと物怖じしない性格って言うの?一体誰に似たんだか」
「ははは。少なくとも俺じゃないな。俺は未だにプレゼンで緊張する」
「私でもないわよぉ」
ごめん。ブラック営業とかイカガワシイ訪問販売で鍛えたんです。
テレアポとかもそうだが、あの手の仕事は神経が図太くないと務まらない。線の細い奴でも回数をこなすうち自然と心にフィルターが出来あがる。おそらく自分の心を壊さない為の自衛手段なんだろう。生き残った奴らは皆フィルターを持っている。
だから電話口で『この社会のゴミが死ね!』とか言われても即、別の顧客に電話が出来るし、罵声とともにドアを勢い良く締められても笑顔で隣家に行けるのだ。
喩えるなら、猛獣と狭い部屋に閉じ込められた心境と、猛獣との間に強化ガラスが嵌め込まれた部屋に居る心境の違いってところか?
うーんあまり上手い喩えじゃないな。まあ良いか。
「全日本終わったらU12はもう出るの止めるね。G3のU-14とかで来期以降の調整しようと思ってるんだけど。どおかな?」
「良いんじゃないか?パパはテニスのこと詳しくないから、真奈とコーチで決めると良いよ」
「ポイントは下がらない?」
「下がるけどあんま関係ないかな。来期もTOP狙うから体格差がある選手と今のうちからやっておきたい。あと私、来年春に海外に行く事になると思う」
「なんだそれ?結奈?知ってるのか?」
「ええ、JTAの海外遠征強化選手に選ばれる事が既に決まってるとかで」
「将来のオリンピック候補生か…すげーな」
「2ヶ月ぐらいらしいよ。どうせ将来やりあうんだから、外国人と今のうちからやっとくのも悪く無いと思ってる。負けるかもだけど」
「真奈なら大丈夫よ!だって天才だもん。それに人一倍努力をしてる」
赤ら顔で結奈ママが断言した。天才だったらホント良かったんけどね。実際には村人を騙してる中途半端な偽勇者ってとこなんですよ。
「ちょっとママ化粧室に行って来るわ」
「酔ってるんだから足元に気をつけてな」
ヒラヒラと手を振って結奈ママはトイレに消えた。その姿を見送った和真が俺に視線を戻した。
「最近二人で話さなくなったな」
「そうだねぇ。ちょっと前まで毎晩話してたのにね。何?さみしいの?」
「少しな」
「うわぁロリコン拗らせちゃってるよ。お巡りさーんこっちです!」
「ロリじゃねえし!って話させろよ!」
「何よ?」
「今のお前の状況って予定通りなの?前スーパー小学生にはなりたくないって言ってたけど、なっちゃったじゃん?」
「なりたくなかったのは賞味期限切れが早いアイドルとかタレントね。一応私は中身伴ってるし。でもまあ、うん。ちょっと失敗したかな。テニス関係者の期待が高すぎて、将来の夢は弁護士ですって言えなくなった」
「結奈が聞いたらガッカリするよな」
和真がニヤニヤする。なんかムカつく。和真のくせに生意気だ!
「そっ!だから和真これからも私の相談乗ってよね?この小さな胸には抱えきれないほどの乙女の秘密が隠されて・・・あ、やべぇ。ママ戻ってきた」
「二人とも楽しそうね。何話してたの?」
「ん、パパに口説かれてた」
「おまっ!なんてこと言うの?ついに頭やられちゃった?」
「あなた。年頃の娘にヘンな事言わないで頂戴っ!」
「いや、言ってないから」
和真の助けろ目線を無視して、俺は鼻唄を歌いながらグレープフルーツジュースをちゅーちゅー啜った。
日曜日 PM
「ねー和真ぁどっちがいいと思う?」
「なあ?これ何の拷問なの?どんな羞恥プレーなの?」
俺と和真はショッピングモールの下着売り場にいた。半日の練習帰りに食事を済ませた後、和真が買い物に付き合ってくれると言ったので連れて来たのだった。
「別に恥ずかしくないでしょ?今迄だってママと来た事あるんじゃないの?」
「夫として妻の下着を選ぶのはまだ平気だけど、お前のを俺が選ぶのは違うだろ!人の目少しは気にしようぜ?」
うーん。いかん。和真の困った顔を見るとつい苛めたくなるな。
「ねえ?どっち?和真が脱がして興奮するのはどっち?」
ピンクと黒のブラとパンツのセットを体に合わせ和真の顔を覗き込む。
あはははは!こいつ真っ赤になってんの!おもしれー!
「小学生が何言ってやがる。大体サイズ合ってんのか?お前にお似合いなのはそっちのジュニア売り場だ」
「65のB」
「は?」
「だから私のサイズだってば。もちろんこの二つともサイズ合ってるよ。スポーツブラなら家に山程あるって。今探してるのはお出かけ用な訳、判る?」
「いや、さっぱり判らん。何でお出かけ用に大人用の下着が必要なのかサッパリだわ」
和真め、本気で分からないって顔してやがる。失礼なやつだな全く。
「言い換えるね。勝負下着を買いに来ましたっ!」
「ええっ?どこで勝負するの?誰と勝負するの?何の勝負するの?」
「もちろん和真を誘惑する為よ。当たり前じゃない。誰が他の男に見せるかってーの」
「言葉だけ聴いてると男として嬉しい言葉なんだけどな。言ってるお前は娘!聞いてる俺は父親!色々間違ってんだろっ!」
「ん?やっぱ下はTバックがいい?」
「そーいう話じゃねーよ!」
「なによ?下着より下着の中に興味があるって訳?それを言ったら見も蓋も無いっしょー和真君もうちょっと女心というかワビサビを学ばないと女の子ひいちゃうぞ?」
「うわー小学生の娘にハウツー本みたいな駄目出しされちゃったよっ!俺女心に聡い自信あったんだけどなーお前の事は理解不能だわ」
赤くなったり青くなったり和真信号機みたいだな。これだからこいつと話すのが楽しくて仕方ないのだ。
「判ったわよ。和真の前ではバックプリントのパンツ履いてあげる。ロリも拗らせると始末におえないねー」
「おまっ!頼むから、店頭で変な事言うのやめてっ!もう周りの視線が突き刺さってる!痛いっ!ほらっ物理的に痛みを覚えるレベルに達してるじゃん!」
ふむ、さすがにいい加減通報されそうだな。止めとくか。
「なーんてね冗談よ冗談。パパ。私もそろそろ可愛い下着が欲しいの。ママに相談したらパパに買って貰いなさいって、だから買って買って」
いや、嘘ですけど。結奈ママだったら喜んで選んでくれるはずだから。親子だと判ると周りの視線も和らいだ。
「自分で選んでくれ。俺なんつうか疲れた」
げっそりとした表情で店から逃げ出そうとする和真。
「えー!酷くないそれ?いいよもう。和真ってさー縞パンとか好きなんだっけ?二次元女子とかが良く履いてるやつ」
「バっ馬鹿、お前なんつー事を!ああ、もう判ったよ!手伝うよ手伝わしてください。真奈さん真奈さん。パパは普通に白がいいです。白でお願いします」
「ん?こういうの?」
「まだホールドとかあんまり関係ないだろ?肩紐外せるほうが使い勝手良くないか?」
「そっかーじゃあこっちにするね。ありがと和真」
結局まじめに選ぶのを手伝っちゃうのが和真の良いトコなんだよなぁ。
「あ、次はドラッグストアね。ほら早くー」
「手を引っ張るなよ。いいけど、何買うんだ?あー言わなくていい!やっぱいいや!なんて答えるか予想出来た聞きたくない聞きたくない!」
「不二ラテも良いけどやっぱオカモトだよね?和真はどっち派?」
「やっぱそうくるんだ?何なの?そのマニアック過ぎる質問?お前ゴムのソムリエなの?ねえ?」
さすが和真。俺が考えてることを先読みするとは。侮れない男だ。薬局に着いた俺はコンドーム売り場めがけて突き進んだ。
「お?最近は色々種類あるね。さーて、うすさ均一はどこかなぁー?」
「馬鹿止めろっ!小学生がそのコーナーに立ち止まるな!ああ神よ!なぜ私に!かような試練の日々をお与えに!」
いきなり立ち止まり十字を切り出す和真。おいおい、伏木家は仏教徒だろーが。
「神と対話しないでよ!ちょっとからかっただけ。本当に必要なのはこっち」
「UVケア?」
手に取った商品を受け取ると、和真は間抜け面で意外そうな声を上げた。
「そう。毎日使うからさー大人買いするよ」
「ああ、だからお前外でテニスやってる割には焼けてないの?」
「体質的なモノもあるんだろうけどね。今は焼けててもいいけどさ、後々困んじゃん。ほらやっぱし色の白さは七難隠すってね。シミソバカスも怖いからテニス始めた時からずーっとケアしてんのよ」
子供の時分は小麦色の肌で問題ないかもしれないが、テニスは長時間炎天下で行う屋外スポーツだ。紫外線の蓄積はやはり怖い。おそらく気にしなかったであろう一部のプロとかを見てると恐怖を感じてしまうのだ。年頃になった時に肌ボロボロじゃ落ちる男も落ちないもんな。
「エロい事ばっかり言ってるけど、ちゃんと考えてんだな」
「和真が日焼け肌と白い肌のコントラストに萌えるのは知ってるけど諦めてね」
「好きじゃねーから!勝手に俺の性癖捏造すんの止めろよっ!」
文句を言いながらでも、1ダース分の代金を払ってくれる和真に感謝。
「色々買ってくれてありがとね」
「いや、いいよ聞いたらどれも必要なもんみたいだしな。それに俺も久々にいっぱいお前と話せて楽しかった」
「和真ってさマゾっけあんのかな?」
「無いと思うぞ?少なくともお前以外のやつに、ナジられたりしても腹立つだけだ」
「まじめな話するよ。わたしさー和真の困ってる顔見るとゾクゾクするの。ついついもっと苛めたくなっちゃうの」
「他所ではやるなよ?俺相手だったらいくらでもして良いから。ってやっぱ俺マゾなのかね?」
「割れ鍋に綴じ蓋って事なのかもねー?」
「そりゃ夫婦間で言うことじゃねーか。親子を指すことわざじゃねーぞ」
「私ら親子って言うより異性の友達って感じじゃん。それでね和真。私ちょっと怖いの」
「ん?どうした?不安な事でもあるのか?」
「うん。どんどん自分が女になっているって感じるの。同時に山川の気持ちが判らなくなってきてる」
これは本当だった。俺自身考え方が女性化してきている自覚がある。男が女の真似をしているのではなく、自然に女としての感情がまず先に湧き上がるのだ。その証拠に俺は和真に対し恋心を持ちはじめている。元男でノーマルな性癖だったにも関わらずだ。
この気持ちに気付いて、俺は自分の異変にも気付いたのだった。
「記憶が戻ったとか?」
「判らない。そもそも戻るような記憶があるのかって言う感じだし」
「まあ、俺も5歳以下の記憶なんて断片的にしか覚えてないわな」
「だからね和真。お願い。私が私じゃなくなっても愛して導いて頂戴」
「そりゃ親として当然の責務だ。お前が心配する事じゃないよ」
「和真ありがと。大好きだよ」
「ああ、俺も大好きだよ」
俺の言う大好きは和真の言う大好きとは違うんだけどな・・・これは言っちゃあならない事だ。だけど、もう少し俺が大人になった時抑えきれるのか?それとも一過性のものでいずれ落ち着くのだろうか?この気持は…忘れるべきだ。こんな気持、誰も幸せにならないものだから。
「さあ、随分遅くなっちまった。結奈が待ってる。帰ろう」
「うん」
差し出された手を握って俺は答えた。
息苦しい。先日の家族での外食から結奈ママごきげんだったのに、どういうことだ?
リビングの空気が重い。すげー居づらい。
思えばOTCからの帰り道でも心ここにあらずって感じで、結奈ママの言葉は少なかった。
なんかあったな。
「私そろそろ寝ようかな。おやすみなさい」
早々にリビングを後にすることにした。二階の自室に戻ると程なく口論が聞こえてくる。
夫婦喧嘩かよ。珍しいこともあるもんだ。
伏木夫婦は結婚一四年目を迎えるがとても仲のいい夫婦だ。実際、俺は喧嘩してる二人を今まで見たことがない。それほど仲のいい夫婦が何故?
ベッドに転がり階下から漏れる声を聞いていたが落ち着かない。
居心地が悪かった。親が言い争ってる姿って子供の心にダメージ与えるんだな。中の俺は子供ではないはずなのにかなり影響を受けている。うわ、なんか気持ち悪くなってきた。
どうしよう?水でも飲んでくるかな?とか考えてると
ダンッ!ダンッ!ダンッ!ダンッ!勢い良く階段を上がる音が聞こえ、隣室のドアが勢い良く閉まる音が聞こえた。
結奈ママかな?どれ行ってみるか。夫婦喧嘩は犬も食わないというが、仲良くしてくれないと俺も困るしな。
部屋から出て隣室のドアを軽くノックする。
「ママ。入るよ?」
薄暗いベッドルームで結奈ママが肩を震わせていた。俺はベッドに浅く腰掛け結奈ママの髪を優しく撫ぜた。
「ママ。泣かないで」
「ごめんね。大事な大会前なのに騒がせちゃってごめんね」
こんな時まで俺の心配をするのか。胸が締め付けられる気がした。
涙でぐしゃぐしゃの顔を少し上げて結奈ママが言葉を続ける。
「朝になれば大丈夫だから。きっと大丈夫だから今夜は泣かせて。お願い」
うぁぁぁぁ!可愛いっ!思わず背中から抱きしめちゃったよ。
「うん。じゃあ私部屋に戻るね。ママ早く元気になってね。お休み」
判決。和真死刑っ!
理由はどうであれ結奈ママを泣かせたのは万死に値する。
和真ぁ往生せいやぁぁぁぁ!
俺は階下に向かいながら義憤に燃えていた。
「どういうこと?ママ泣いてたじゃん!」
「ああ泣かせちゃったな」
リビングに入るとグラスにバーボンを注いでる和真の姿があった。
「さあ、どういうことが説明してもらいましょうか!事と次第によっちゃパジャマ引きちぎって『パパに襲われたっ!』って菱川さんちに駆けこむからね」
「相変わらず斜め上の発想だな。はぁ、お前のそういうところが・・・」
「え?私関係ないじゃん」
ん?夫婦喧嘩でなんで俺が関係すんの?意外なところで俺の名が出て怒りが急速にしぼんでいく。
「いや関係あるんだわ。説明するから余計な茶々入れんなよ?」
「うん」
「俺も今日はじめて聞いたんだが、ここ最近無言電話が家に掛かってたらしい」
「私も初耳だわ」
「結奈は心配掛けたくなかったんだろう。ところが今日は無言電話じゃなかったんだと」
「なんか言ってきたの?」
「和真さんと別れて下さい。あんたは和真さんの妻の資格が無い。和真さんの妻は私こそがふさわしい!とかなんとかまくし立てられたんだとさ」
「はぁ?あんたやっぱ外に女いるんじゃん?」
「いねーよ馬鹿。外に女作るよりお前と話してる方がよっぽど楽しいわ」
えっ?イキナリなにこれ?俺口説かれてんの?
「……やん」
「馬鹿。変な想像すんな!そのままの意味だ」
「してない!馬鹿馬鹿言うな!和真の馬鹿っ!」
ヤバイ。一瞬気持ちが感づかれたと思った。ちょっと深呼吸してと・・・改めて和真の言ったことを考えてみる。あれ?喧嘩と結びつかないんだけど?
「ねえ、頭のいかれた女が電凸してきた。和真は外に女がいる説を否定したんでしょ?なんで喧嘩になるの?結奈ママに信じてもらえなかったの?」
「最近残業で遅い日もあったしな。極めつけはお前だよ」
「え?わたしですか?」
「お前この前外食した時、『ん、パパに口説かれてた』とか言ってたし、俺の趣味で大人物の下着買わされたように言ってたじゃねーか!あれで、娘を口説いてるようじゃ、外でも口説きまくってるに違いないって思われたんだよっ!」
「あーーーーなんつうかゴメン」
「おう」
「明日ママに冗談だったって言っとくね」
「おう」
「今夜どうすんの?」
「客間に布団敷いて寝るわ。今寝室行ったら逆効果だろ」
グイッと残ったバーボンを喉に流しこんで和真が立ち上がる。
「じゃあ、お詫びも兼ねて一緒に寝て慰めてあげよっか?気持よくしてあげる」
「するか!見られたら三行半叩きつけられるわっ!ねえお前馬鹿なの?俺の家庭壊したいの?ねえ?お前獅子身中の虫なの?ねえ?」
「あはは、和真のツッコミってやっぱ面白いー」
「はあー俺もう寝るわ。お前も、もう寝ろよ」
「はーいおやすみ!チュッ!」
俺は投げキッスをして和真がツッコミ入れる前にリビングから退散した。
ふーん無言電話か。面倒にならなきゃいいけどな。
俺も一因を担ってるってのは、結奈ママに申し訳ないわ。
「伏木さんおはよう」
「おはよう」
クラスメイトに挨拶して自分の席に座る。
今日は登校日なのだ。
入学した頃は『今時の学校で夏休み登校日作るなんて校長の奴頭おかしいんじゃねぇの?』とか毒づいてたもんだが、六回目の今年は毒づく気力もない。
と言うより体がダルいのだ。朝起きた時は違和感程度だったのが、どんどん酷くなっていた。
夏バテ?夏風邪?昨夜の夫婦喧嘩のストレス?
こんな事なら来なきゃよかった!終わるまで大人しくしとこう。
たまに人が真面目に学校行くとこれだよっ!
「伏木さん。大丈夫なの?」
割と仲の良い女子生徒達が俺を覗きんで来る。
「え?うん大丈夫。何でもないよーちょっと夏バテ気味かもー」
「ねえねえ、テレビ見たよ!夕方のニュースで伏木さんテレビに出てたよ」
「あー昨日放送だったんだ。テレビ埼玉のあれ」
もちろん俺は練習してたので見てはいない。つうかみんな結構ローカルTV見てんだな。暇すぎんだろお前ら。
「伏木さんテニス日本一なの?すごいね!一緒に映ってた男の子もそうなの?」
「そうだよー勇太はまだ五年生だけど小学生NO.1だよ」
「仲良さそうだったよねー」
「ねー」
「ねー」
姦しい事この上ない。やっぱりそれかよ。こいつらの興味は俺の日本一より、同級生が男友達と仲良くしてた事に興味がある訳な。
「俺も見たぜー!伏木が男とイチャイチャしてた奴!!!」
「俺も見たーあれ夫婦みたいだったよなー」
「テニスしながら伏木は男とちゅっちゅっちゅ」
うぜぇ・・・バカバカしくて笑えてくるが、こいつら激しくウゼェ。
俺は妙な踊りをしながら囃し立てるガキ共に視線を移した。
こいつら俺の事好きなんだろうな。と思う。
こんな手段で気を惹くことしか出来ない哀れなガキ共なのだ。
いいから俺を口説くなら、ベンチャービジネス当てて上場してから来いっつーの。
まあ俺も男だったから気持わかるよ。もっとも俺は逆に『女なんか興味ないぜ!』と斜に構えて好きな女の子をチラ見してたタイプだけどな。
「ちょっと!やめなよ男子ぃ伏木さん可哀想じゃん」
女子が口を挟む。いや、別に可哀想じゃねーし、つーかお前、タコ踊り男子にいいトコ見せたいだけじゃん。何がいいんだ?あんな低能共?
「ぐうっ!」
鼻先で笑ってあしらおうとした矢先、突然腹にメディシンボールをぶつけられたような痛みが走った。
同時に、股が熱く湿るのを感じる。
あ、これはアレかも?アレだよ。ついに来たよ。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
結奈ママから持たされていた巾着をポケットにねじ込み席を立つ。
「ほらー伏木さん泣いちゃったじゃん!男子サイテー」
あーうるさい。お前ら仲良くしろよイテテテっ。
痛い。初めてだからなのか判らないが、とにかく腹が痛い。胃潰瘍がシクシク痛む感じに似てるって言えば似てる。
これから毎月これ我慢しなきゃならねーのかよ。女って損だ。
先生、夏休みの注意事項が長いんだよ。要点まとめて三行以内で簡潔に話せ!
周りのガキ共うるさいっ!お前ら少しは落ち着いていられないのかよ。
あーイライラする。
セデス飲みたい。ああ、全日本ってドーピング検査あるんだっけ?駄目だ飲めない・・・
なんで俺ばっかり!畜生っ!イライラする。
この怒り何処かにぶつけたい。
チャイムが鳴ってハッとした。今の俺はダーク真奈ちゃんだ。ジュニアテニス界のスーパーアイドルとは思えない黒さだ。
駄目だ駄目だ今日は帰って寝よう。練習も休もう。
誰とも話さず、昇降口に急ぐ。
「伏木真奈ちゃん?」
「そうですけど何か?」
校門を出たところで、地味な印象の女が待ち構えていた。
「私はお父さんの会社の者で高瀬と言います。お父さんが事故にあって和光市の緊急病院に運ばれたの。お父さんが真奈ちゃんを呼んでいるの。私と一緒に来てくれる」
……おまえ地味子だろう?
コイツか?人の男に手を出す不届き者は。
居たよ…思いっきり傷つけてもいい奴が。
地味子に見えぬよう、俯いて湧き上がった笑いを隠した。
そして、言われるままに俺は地味子の車に乗る。
「お母さんも後から来るから安心してね。では急ぎましょう」
「はい。お願いします」
社販で買ったであろう自社製大衆車が加速する。後部座席のシートベルトが義務か任意か忘れたのでとりあえず締める事にした。
ミラー越しに地味子をチェックする。濃茶のセミロングで大振りなメガネ凹凸の少ない顔に薄化粧。なるほど…地味子だ。
地味子は俺の視線に気づくと少し微笑んだ。
ふんっ!誘拐犯がっ!…お?アリーナが見える。これで残った不安も解消したな。
万が一、本当に和真が事故にあった可能性も考えてたのだ。しかし、急ぐと言っておきながら和光まで下道を使う時点で嘘確定だった。
「ウソですよね?」
「え?」
ギョッとしたように地味子が振り向く。おい!あぶねーよ!ちゃんと前見て運転しろよ!
「四輪から本町のビルにでも行く途中で車に轢かれたかな?とも思ったけど、急ぐといった割には高速乗ってない」
「すごい冷静なのね。ごめんね事故の話は嘘」
「連れ出した目的は何ですか?ってここで聞いて事故られても困るんで、どっかその辺のファミレスにでも入って説明してくれませんか?」
「いいわね。私も将来の娘とじっくりお話したいから」
地味子が怪しく笑った。
将来の娘だと?何言ってんだこのバカアマが!へっ!虐めてやんよ!
「真奈ちゃん。ケーキ食べる?」
通り沿いのファミレスに入ると地味子がデザートメニューを差し出した。
「結構です」
「遠慮しなくてもいいのよ」
「いえ、遠慮じゃなくてそんな高カロリーなモノ食べるわけにはいかないんでですよ」
「そっか、そうだよねー真奈ちゃんアスリートだもんね」
何やら地味子はウンウン頷いて一人納得している。
「ちょっと失礼…」
飲み物だけを頼み俺はトイレに向かう。下腹部でナニカがズルッてしたんだよ。ひぃぃぃ。
痛みは少しマシになったが、腹に鉛を詰め込まれた感は相変わらずだ。
「それで、何故こんな真似を?」
トイレから戻った俺は、既に届けられていたレモンティーを含んで尋ねてみる。
「真奈ちゃんは知らないと思うんだけど、今度私とお父さん結婚するの」
おいおいおいおいおいおいおい!斬新だな!なにかい?和真ってば重婚すんの?
「私が真奈ちゃんのお母さんになるんだよ。だから真奈ちゃんと仲良くしたいなと思って誘ったの」
うわっ!なんかこの人変な電波受信しちゃってるよ!技研から変な電波漏れてんじゃねーの?
「高瀬さんと言いましたっけ?『未成年略取誘拐罪』って知ってますか?貴方はその罪を犯してるの判ってます?」
「真奈ちゃん難しい言葉知ってるねぇ。でも大丈夫親子なんだから誘拐じゃないわ」
日本語通じてないし。アレか?コイツ人の皮をかぶったアシモか?上手に出来てんなー不細工具合がリアルだぜ。
「高瀬さんよく聞いて下さい。『部下の女性が酒の席で気分を悪くしてたからタクシー呼んで帰らせる』それぐらいの事は父にとって当たり前の行動なんです。決してあなたに特別な感情があった訳じゃない」
「よく知ってるねぇお父さんと仲良しなんだね」
だぁぁぁぁ!話せば話すほどイライラする!なんだこのスイーツ女は!脳にスポンジでも詰まってんのかっ!地味子っていうかサイコだろこれ!
しかも、話してる最中も一人でタルト的なものムシャムシャ食べてやがる。
こんなのと一緒に和真は仕事してる和真を改めて尊敬。和真って頑張ってるんだな。
うん。今夜和真にあったらギュしてやろう。せめてものご褒美だ。
「ええ。あたしと和真は仲良しですから、和真は包み隠さず私になんでも話してくれますよ。地味な女に付きまとわれてるとかね。しばらく前に和真からはっきり断られませんでした?あれ指示したの私です。最近我が家のホットな話題は『無言電話』と『どこぞの馬鹿が掛けてきた母への中傷電話』です。あれ貴方でしょ?」
「お父さんを和真なんて呼んじゃダメだと思うなぁ」
おっとりと地味子が指摘する。はぁ?指摘するとこソコなのか?何なんだコイツは?会話のキャッチボールが全く出来てない。
カーっと頭に血が上る。
「アンタにそんな事言われる筋合いはな…い」
「汚い言葉使っちゃダメでしょ!メッ!」
「アンタ…わたしに、なに…した…
あれ…おかしい!猛烈に眠い…一服盛られたのか!いつ?これか?レモンティーか!くそう!ぬかったぜ!
不覚にも敵の目の前で、意識が暗転していった。
目覚めるとそこはオタの国だった。
薄い本が本棚にズラッと並び、グッズが几帳面に所狭しと並べてある。
俺はそっち方面に偏見はないが詳しくもない。だからどんな種類のオタなのかは判らない。判ったのは、外が暗くなっている事、この間取りはレオパ独特のものである事、そして地味子はやっぱりオタクだったということだ。
「おはよう」
目覚めた俺に気づいた地味子が声をかける。
「ここはあなたの家?」
「そうよ」
抑揚のない声で地味子が答えた。コイツ壊れかけてないか?
肩を動かそうとして気がついた。腕が動かない?見上げるとベッドの支柱上部に俺の手首は荷造りロープで縛られていた。足首にも縛られてる感触がある。
「ちょっと!あんたなんで私のこと縛ってるのよっ!」
「真奈ちゃんがいい子にしていないからお仕置きなのよ」
「これはもう立派な誘拐よ!判ってんの?大体あんた女の子をこんな風に縛り上げるなんて変な趣味でも持ってんじゃないの?」
今日の俺はノースリーブの重ね着なので、腕を縛り上げられると脇を晒すことになる。更に女座りをさせられて脚も縛られてるので、さながら幽閉された姫君のポーズだ。
「だからお仕置きなの」
その時、壁から音がした。来たよ壁ドンッ!壁の薄さに定評のあるレオパだ。でかい声で騒いでれば壁ドンぐらいしたくなるだろう。
「壁ドンしてる暇あったら110番してよっ!監禁されてるのっ!」
「監禁じゃないわ。だってここは和真さんと私のおうちだもん」
駄目だこりゃ。110番つっても反応ない。完全に壊れてる。そのうち警官も来るだろう。
俺が行方不明になってるのも騒ぎになってるはずだ。もういいや、こんな馬鹿ほっとこ。
そう思って、視線を地味子から外すと、とんでもない物が視界に入った。
あれって…
「あんた!わたしに何をした!」
カーペットの上に俺の履いていたスパッツが転がっていた。俺の視線に気づいた地味子が口を開く。
「女の子の日だったのね。重そうだからショーツ変えてあげたの。大丈夫よ新品だから。ひょっとして初めてだったの?おめでとうお赤飯炊かなきゃね」
「何してくれてんだっ!この糞アマ!」
羞恥と怒りで目の前が真っ赤になった。誰にも触らせた事ないのになんでお前如きクズがなに俺に触ってんだよ!
「何が赤飯だ!母親気取りもいい加減にしろっ!母親だと?あんたが私の親になれるわけ無いでしょ!あんた私の親がどんだけ大変か判ってるのか!」
怒りが収まらなかった。もうコイツをやり込めることしか頭になかった。
「毎日栄養バランスを考えた食事を作って、毎日クラブまで送迎、一年中全国の試合に出るから付き添いだって大変。あんたなんかには出来ないでしょ?大好きなコミケに参加できないぞ?もちろん宿泊費用だって掛かる。クラブの月謝もバカにならない。まともに働く時間無いけど、アンタにそれだけ稼げるのか?和真の給料だけじゃやっていけないんだぞ!マルチリンガルの才女で家事万能の結奈ママだから出来るんだ!アンタじゃ結奈ママの代わりなんて出来るわけない!あんたはママの凄さを判ってない!私のママを馬鹿にするな!!!」
言葉にしてよく判った。俺がこの女に最初から激しい嫌悪感を持っていたのは、和真に言い寄ってるからじゃなかった。結奈ママを蔑ろにし結奈ママを泣かせた事が許せなかったのだ。
「そうね。真奈ちゃんがテニスをしているのがいけないのね。テニスはもうやめましょう」
ふらっと立ち上がりキッチンでゴソゴソしだす地味子…あああ、これはヤバイよ。キチガイ相手に理詰めで口撃してもマトモな回答が来るわけないよな。
「ラケットを握るこの手があるからいけないんだよね」
再び現れた地味子の手にはミートハンマーが握られていた。
やめろ馬鹿っ!俺の宝物を壊す気かっ!この手首にはみんなの夢が詰まってるんだぞ。キセキの右手って言われてんだぞ?弁護士になりたいなんて言えないくらいみんなが期待してくれてるんだ。壊すなよ!みんなの夢を壊すなよ。俺からテニスを奪わないでくれ。うううっーー!和真ママコーチ勇太ごめんな。もう一緒にテニス出来ねえ。馬鹿を煽った俺の方が馬鹿だった。
俺はいつの間にか泣いていた。激しく身をよじっていた。頭の中もグチャグチャだった。もう何も考えられなかった。
「和真ぁ和真ぁ和真ぁぁぁ!和真助けてよっ!和真ぁぁぁっ!」
「高瀬さーん。開けて下さい伏木でーす」
チャイムと共に間延びした和真の声が聞こえた。
え?空耳かと思った。
「あらパパが帰ってきたわ。テニス辞めることはパパとも相談しましょうね」
地味子は頼りない足取りで玄関に向かう。言葉を理解出来てないもう正気の欠片も残っていないようだった。
その時、ロックを外され警官が雪崩れ込んでくる。
「何ですか!あなた達は!出て行ってく…」
「確保っ!」
屈強な警官2名に組み敷かれ地味子の言葉は途切れた。
「マルガイ確認!確保」
いきなりガチムチな警官に覆いかぶされた。
「ひぃ!」
「怪我はありませんか?どこか痛いところは?」
「大丈夫です。あの、助けてくれてありがとう」
地味子と私の二人しか居ないことを確認すると、ガチムチ警官は拘束を外してくれた。
立てますか?と問われ、体に異常がないことを確認した俺は部屋を飛び出した。
外はパトカーでいっぱい。その中に…居た。
「和真ぁぁぁぁ!怖かったよっ!もうダメかと思ったよっ!」
全力ダッシュからの飛び込み、ちょっとよろけたがそれでも受け止めてくれた。
「馬鹿!なんでこんな真似したんだ!ひょいひょい付いて行ったら危険なことぐらいお前なら判ってただろう!」
「QJK」
「は?なに?」
「急に地味子が来たから」
「冗談言ってる場合か!」
「イライラしてやった。今は反省している」
「今日は突っ込まないぞ!お前、俺とママがどんだけ心配したと思ってんだ」
「判ってるよっ!馬鹿!冗談言ってないと涙腺決壊しそうなんだよ。気づけよ」
「知った上で言ってんだよ」
和真の手のひらが優しく頭に載せられた。
「うーごめんね。ごめんね。パパごめんね。」
あえなく涙腺は決壊させられてしまった。
「真奈!真奈っ!」
「あ!」
もうお前には用は無いとばかりに和真を突き飛ばして声の元に飛びつく。
「ママごめんね。心配かけちゃった」
「ほんとに無事でよかった。ママ物凄く心配したんだから」
「うーごめんねー」
「真奈ひどい顔してるわ。可愛い顔が台無しじゃない」
「ママもそうじゃん。綺麗なのに涙でグチャグチャだよ」
抱き合って涙涙の大合唱だったのだ。
「お前ホントにママ好きだなー。あ、そうだ結奈聞いてくれ。こいつさ犯人と口論してて『マルチリンガルの才女で家事万能の結奈ママだから出来るんだ!アンタじゃ結奈ママの代わりなんて出来るわけない!あんたはママの凄さを判ってない!私のママを馬鹿にするな!!!』とか言ってたんだぞ」
「まあ、そうなの?ありがと真奈ちゃん大好きよ」
ママがぎゅっと力を込めた。俺も大好きだよ。
でもちょっと待て…気になること言ってるな。
「あんたさーなんで知ってるの?」
「突入前に聞いてたから」
「どこから聞いてたの?」
「『和真の給料じゃやっていけない』あたりから。お前失礼すぎんだろ!そのくせ最後は『和真ー和真ー助けてよー』ってツンデレですか?今日び流行んないっすよ?」
「うっさい!馬鹿っ!」
ゲシッ!
「いてぇ!なんでローキック?反抗期なの?これから積み木くずしちゃうの?」
「崩すわけないっしょ!なにそのツッコミ?センス昭和じゃんっ!」
突然、鈴のような笑い声が響いた。
「あなたと真奈ってそんな感じで話すのね。驚いたわー友達親子って言葉がピッタリ。だから『パパにナンパされた』なんて冗談が出てくるのね」
あう…つい、いつものノリでやっちゃったよ。
「え、いやぁいつの間にかなんとなくな」
和真もバツが悪そうだ。だけど、俺と和真のちょっと変わった親子関係をママに見せることが出来て良かったのかもしれない。
「そもそも今回の件だって元はといえばパパが天然ジゴロっぷりを発揮してたのが原因じゃん?どこのToLOVEるだよ。まったく」
「いやいや俺全然ToLOVEるってないから!社会人として普通の対応しただけだから」
「パパが普通にしてると研修中の女子社員が脚パカパカ開いたり、ゴールデン街のママが言い寄ってきたりすんのよ!」
「え?ちょっとわかんない!まさかまた島耕作ネタ?お前どんだけそのネタ引っ張んの?お前の愛読書なの?愛しちゃってるの?」
「えーサラリーマン必読の書だしぃー」
「お前サラリーマンじゃないじゃん!小学生じゃん!」
「人生のバイブルってヤツ?アカギとかナニ金も好きだよ」
「こいつおっさん臭っ!お前埼京線のホームに帰れよ!仲間がいっぱい居るぞ?」
「私どっちかって言うと常磐線だし」
「マジで意味分かんない。なんで路線名?お前機関車トーマスなの?エドワードとかゴートンとか仲間居ちゃったりするの?」
「あはは、やっぱパパのツッコミってサイコーだわ。家に帰ってきた気がするなぁ」
「ここ家じゃねーし!朝霞市だし!」
「あのーすいません。そろそろ宜しいですか?簡単な調書をですね。取りますのでね。署までご同行いただきたいのですが…」
「はい????」
そこには和真のツッコミを遮った警官が、申し訳なさそうに立っていた。
俺を真ん中にパトカーの後部座席に3人で乗る。両手はぎゅっと両親と繋がっていた。
両手を繋がれた安心感で俺は不意に理解した。
和真は好きな男である前に大好きなパパだ。そして結奈は大好きな俺のママなのだ。
俺の心配は杞憂に終わるだろう。
今日この時をもって初めて本当の家族になれた気がした。
「ねえママ」
「なあに?」
一真と握っていた手を離してママの耳元に寄る。
「今日ね。私生理きたんだ」
「そうだったのー良かったわねー」
花のような笑みを浮かべて俺を抱き寄せてくれた。
「お?内緒話か?俺も混ぜてくれよ」
「明日はお赤飯炊かなきゃってことよ」
「ちょっとママなんで言っちゃうのよ!ばかばかっ!」
「へぇ」
ニヤッと和真が笑う。
「うぇ、ママ今の見た?パパが気持ち悪い笑い浮かべたよ?エロいー和真エロいー」
「こいつウザっ!」
「アナタ真奈は多感な年頃なんだから、汚れた目で見ないであげて」
「なあ?俺もう泣いていいか?」
かくして和真の不倫疑惑から始まった誘拐騒動は終わりを迎えた。
後日明らかになったのは地味子の部屋から、俺の記事を切り取ったスクラップブックが見つかった。地味子の脳内でどうなってたのか知る由もないが、俺に関心を持っていたのは間違いなかった。地味子本人はというと心神喪失で罪に問える状態ではないらしい。
まあ、俺達3人に関わらないでいるなら好きにしてくれて構わないと思う。
そして、その三日後から始まった全日本ジュニア。色々とあったが俺は無事優勝した。
多少の運と関係者の尽力のおかげだった。
これについては機会があれば詳しく話そうと思う。