トラベブル
人には体質というものがある。
冷え性からアレルギーまで様々なものを指すけれど、決して世間一般的に珍しい単語ではない。
けれど、彼女の体質はそれはもう非常に珍しいものだった。レア中のレア。マニア垂涎。
果たしてそんなものを収集する物好きがいるかどうかは別として、彼女はトラベブル体質だったのだ。
トラベル+トラブルを合わせた上手くもない造語だが、何もしていないのに気づけば見知らぬ場所で必ず面倒事に遭遇してしまう体質なんて呼ぶよりは遥かにマシな呼び名だと彼女は思っている。
世の中には超能力と呼ばれる力がある。
念動力といった正統派から、自動書記といったオカルトめいた代物まで様々だが、実在は証明されていない。
けれど、証明も何も彼女は超能力者だった。生来の資質。修行なしの天然物。
ただし、大変な欠点があったため、彼女はそれを力とも才とも呼びたくはないし、実際そう呼んではいない。
名称で言うなら瞬間移動、あるいはテレポート、テレポーテーション。場合によってはワープと呼ぶ者もいるかもしれない便利な力だ。
だが、制御できないという致命的な欠点により、落とし穴に落ちるより質の悪い罠能力だと彼女は思っている。
だから、単なる体質の一種なのだ。
トラベブル―――彼女の意志を無視して勝手に厄介ごとの真ん中に飛んでくれる能力など。
誤解なきように言っておけば、厄介ごとに自ら首をつっこむわけではない。厄介ごとから首根っこを引っ掴まれて巻き込まれるわけでもない。
例えるならば温泉に飛べば死体を発見し、山野に飛べば絶滅種の獣と遭遇し、一般家庭に飛べば離婚騒動の真っ最中といった具合だ。
厄介ごとの真ん真ん中に突っ込んでしまい、ただでさえややこしい物事をさらに複雑怪奇にしてしまうのだ。意図せずして。
これは物心ついて以来、そんな厄介な体質に悩まされ続けた彼女の記録日誌である。
まずは、そんな彼女の装備品から紹介しよう。
万能ナイフ。コンパス。アルミ製レスキューシート。インナーウェア各種。マーカーライト。ホイッスル。ワイヤーソー。ポイズンリムーバー。折り畳みバケツ。折り畳みスコップ。簡易裁縫セット。過マンガン酸カリウム。簡易釣具。救急キット。水。鏡。虫眼鏡。望遠鏡。保温具。ガスマスク。マッチ。非常食及び各種栄養剤と水。紙とペン。
どんなところに跳ぶか分からないため、かなりバラエティ豊かな一式が登山用のリュックに詰め込まれている。
身分証明書の類が入っていないが、これは必要ないからだ。
そう、"どんなところ”というのは比喩ではない。正しく彼女は地上のどこでもないところにばかり跳ぶ。
タコ形の多足軟体知的生物が社会を作り上げているのを見た事もあるし、生物の気配などかけらもない光信号だけが飛び交う都市などに飛んだこともある。
俗にいう異世界なんだろうというのが彼女と彼女の父で話し合った結論だ。
幸いにして、水や空気や食べ物が生存不可能なほどに異なった世界には飛んだことがない。逆に言えば飛べば帰ってこれる保証はない。
現地人と意思疎通が図れたことはあまりない。けれども、交流には紙とペンが大概にして活躍するので万一のために彼女はそれをリュックから下ろしたことはない。
ちなみに彼女は足が何本だろうと、頭がいくつあろうと、知的生物と判断すれば現地人と呼ぶ。
差別は良くない。というよりも、人型の生物にお目にかかれる率を考えると、社会的動物ならば一括して人間と考えたほうが楽だからだ。
生物学的な意味などを考えるのはとうの昔によしている。
非常にシリアスな危機を内包するこの体質に、彼女の父はのんびりとのたまった。
「せっかく異世界なら、それらしくドラゴンとか見られたらいいのにねえ」
「ピンクの空に青緑の夕焼けなら見た事あるよ? 十分ファンタジックじゃない?」
「……何かが違う」
「それに、相互意思疎通のできなそうな生物はちょっとなあ。危険かもしれないし」
「なら小人とか。三つ目族とか、天使とか」
「諦めて。そもそも人型の生物にお目にかかることだって少ないのに」
「どうしてそうも夢がないんだ? お前の年頃なら人魚姫よろしく、親の庇護下から逃れて王子様とのロマンスや魔法を使っての大冒険に興味を持つもんだと思ってたんだけどなあ」
「どうしてそんな夢などもてましょう? 日常が平穏なら単なる夢想、他人事として憧れたかも知れないけどねえ。かめはめ波を本気で打ちたがっている人と一緒にされてもなあ」
「あれは男の浪漫」
「いきなり修行を始めさえしなければ、その言葉で納得してもいいんだけど。それと、普通、男親って娘のロマンスは嫌がるんじゃないの」
「そりゃそうだが、お前、全然色気のある話がないからな。そこまで行くと逆に、親としては不安にもなるわけよ」
「妙にグレるよりマシじゃない」
同じようにのんびりと彼女は返す。
この父子だからこそ、やっていけるのだ。
彼女の飛ぶ場所に法則性はない。飛ぶタイミングも分からないし、かつ、飛んでいる時間もバラバラだ。不在時間イコール異世界に行っている時間である。
これまでの最長はおよそ二週間。帰ってきたとき、さすがに父は泣いた。彼女にすがりついて大泣きした。
それでも、一晩立てば、己を立てなおしていつも通りに娘に接した。高校への休学届もきっちり出されており、根回しも抜かりなかった。もちろん、娘を責めもしなかった。
口に出したことはないが、いつだって、彼女は父に感謝している。
さてはて、彼女は周りを見渡した。
内心の「またか」というつぶやきを押し殺し、周囲を観察する。
今回は、きちんと足場があるだけマシである。以前は大空の真ん中から紐なしバンジーをしたことさえあるのだから。
そこは、白かった。ぐるりと白い丸みを帯びた壁に囲まれている。床に立とうとした感触から、どうも床も平面ではないようだ。
深呼吸。
問題ない。
もちろん問題があったら、とうに死んでいる気もするが、もし火事場であれば煙に注意し、炭坑等であればガスに注意すれば、生き残る確率は格段に上がるのである。
必死な周囲観察は、もはや彼女の第二の本能となっていたため、冷静さは失われない。
幸か不幸か彼女は、意味不明な事態に慣れていた。慣れたくはない。
とは言っても、彼女が周囲観察をはじめて少し、声が掛かったため彼女は、場所の考察にまでは至れなかった。
「אָ, אָבער אומגעריכט יקספּערימענטאַל וואָס קען זיין נייַ דיסקאַוועריז בייַ אַלע」
さっぱり何語かわからない。というか、本当に言語かどうかも疑う音律だった。はて、と考え込んで、ポンと彼女は手を打った。脳裏に浮かんだのは木管楽器のピッコロだ。なめらかな音を言語と判断したのは、高低と強弱の変化の具合である。
だがしかし、意思の疎通が可能である。これは吉報だ。
どこから聞こえてくるのかさっぱり分からないが、ひとまず彼女も言葉を返すことにした。
現地の人間に警戒されては、色々と生きづらい。通じるかどうかは分からないが、通じればめっけもんの精神である。
「お初にお目にかかります。あなたのお言葉が分からないことをどうか無作法と思わないでください。そして、どうか、私の言葉が分かるのであれば私にあなたへの敵対の意思がないことを知っていただければ幸いです」
最初の印象は重要だ。
この出会いが、彼女のフリーダムな―――いっそ、フリーダム過ぎて迷惑な能力制御につながることを、まだ彼女も相手も知る由もない。