「二人の物語」
三日が経った。
帰りのホームルームが終わり、さあ帰ろうかというときに慎は担任に声をかけられた。
なんでも、恵が三日連続で学校を欠席しているらしい。
「――本当ですか?」
今年先生に成りたて春野仁美二十三歳独身は困ったように頷いた。
話を聞くとどうやら無断欠席で、家に電話をかけても誰も出ないらしい。困り果てた教師陣は、学年で唯一恵と親交のある慎に声をかけてきたということだ。
様子を見てきて欲しい、と。
内心呆れる。ここはそこそこの進学校で、不良が少ないからとはいえどんな生徒にも毅然とした態度で臨むのが教師というものではないのか。自分達でいけ、と言いたかったが、これからのためにぐっとこらえる。
それに、事実ならばおかしい。恵はどんなに学校に対して嫌悪感を持っていても、無断欠席をするような奴ではない。態度を変えたといえばそれまでだが、何かあったと考えるのが普通だろう。
――男の勘が嫌な予感を告げていた。
彼女の家は自分の家の三軒先なだけなので、一旦荷物を置いてから彼女の家に行く。一人で住むにはおよそ似つかわしくない大きさの家は静まり返っていて、チャイムを鳴らしたが三分待っても反応がない。窓を覗こうにも緑色のカーテンが閉められているので中も確認できない。留守なのだろうか。
腕を組んで、ドアに寄りかかる。どうしよう、たまに屋上で雑談を交わす以外、恵と付き合いはないから彼女の行きそうな場所というものが思いつかない。
「こういうときに漫画だと大体ドアの鍵とか開いてるんだよね――」
半ば冗談のつもりだった。
開いていた。
「――え」
体がドアノブを握った姿勢のまま硬直する。状況を理解するのに時間がかかった。
ドアが開いているということは、鍵をかけないで出かけてしまったのか、……それとも、家の中にいるのか。家の中にいるのだとしたらなぜ何の反応も示さないのか。
何かあったのではないのか。
静かにドアを開いて家の中に入る。彼女の家には中学二年くらいの頃から足を踏み入れたことはない。まっすぐ伸びる廊下は窓から光が入っていないせいか外の明るさに比べて中は暗く感じた。
「おーい、めぐみー?」
恐る恐る玄関から家の中に向かって声をかけてみるか、返事や足音どころか気配すら感じられない。どこかで寝ているのか、誰もいないのか、あるいは。
「お邪魔します…」
罪悪感を押し殺すように一人ごちてから、まずリビングを見たが誰もいない。
なかなか整理されているようで、芳香剤の甘い匂いがした。なんとなく三人くらい座れる大きなソファに腰を下ろす。少し彼女をうらやましく思った。
恵の行方を知らせてくれるものがないものかと目を走らせると、ガラスのテーブルの上に開かれた回覧板が置かれていた。回覧板など普段見もしないが引き寄せられるように手にとって見る。
市民の皆様へのお知らせとあった。
十月に行われる町のお祭りに出すバザーの品物出店の募集――ゴミの出す曜日が火、木から月、金になりました――千波野球クラブ会員募集中――残念なお知らせですが千波第一公園の取り壊しが決定いたしまし
目を戻す。
一震災の被害者である以上、昔の記憶は頭の後ろにこびりついている。だから千波第一公園と言う名称と幼い自分が呼んでいた「上の公園」は瞬時に結びつかない。けれど、上の公園は確かに、大震災が起こって町が新調されても残っている、数少ない今と昔をつなぐ場所だった。
そしておそらく、恵にとって幸せだった過去を思い出させる場所に違いなかった。
回覧板に場所が載っているが、そんなもの見なくても知っている。
慎は、走り出した。
千波第一公園は名前だけは大そうなもんだが、見てみればベンチが二つとジャングルジムと球状でぐるぐる回る遊具と二人分のブランコしかない、小さな公園だった。しかしその遊具は震災前からあるものであり、周りが木で囲まれているので損傷をそれほど受けなかったのだろう、と町の人々から言われている。
すでに夕日が差し込む時間帯になっていた。
恵もいない。
誰もいない。
全速力で走ってきて、口では「あれ?」と言うものの、ちょっと考えればこの行動は短絡的思考だと気づくわけで。あの回覧板を見て彼女がこんなところも三日もいるはずないわけで。
要するに走り損だった。
体が熱くてだるくて苦しい。心臓の鼓動がいつもより大きくて手を当てなくても体で感じる。それがまた疲れを誘発する。悪循環だ。
近くのベンチに腰を下ろして手足を力なく伸ばす。考えてみればいるはずないんだけど、ここにいると確信していた。
「全く……。どこに行ったんだか」
夕日が眩しいので左手で顔を覆い隠す。彼女はどこにいるのか。なぜ自分はこんなに焦燥感に駆られているのか。
判らないことだらけだった。
「あれ?」
聞きなれた声がした。ベンチから跳ね起きて声のした方を見る。
公園の入り口で、恵が呆けたように立っていた。
「珍しいね、慎がこんなところにいるなんて。ううん、初めて見るかもしんない」
見る限りでは、彼女は普通だった。いたっていつも通りの彼女だった。
「……三日も学校休んで、どうしたんだよ」
「え、何? 心配して探しに来てくれたの?」
「いや、先生に言われたから」
「――あっそ」
空気を読め、と言わんばかりの目をしていた。
「あ、あとこれ」
慎は制服のポケットから鍵を取り出して恵へと投げる。我ながら綺麗な放物線を描くそれを彼女はこともなく受け取り、
「これ、私んちの鍵?」
「お前の家開けっ放しだったから、母さんに言って鍵借りてきた」
「あー……」
彼女は恥ずかしそうに頬をかく。そして、何も言わずに慎の隣に座った。
「どこ行ってたんだよ?」
「お母さんちの所に、墓参りに。まだ命日には少し早いけど」
命日とはすなわち、大震災が起こった日。
「そうか」
「でも慎がここにいるとは思わなかったわ。よく私がここにいるかも、とか思ったわね?」
「……家の中に不法侵入しました。ごめんなさい」
「は、恥ずかしいなあ……。で?」
「回覧板を見た」
「すごいすごい、それだけで私の行動パターンを読むなんて」
ぱちぱちぱち、と数回拍手にもならない拍手が公園に響いた。
やがて拍手の音はやみ、公園に再び静寂が訪れる。虫の鳴く声がやけに遠くに聞こえる。どこかの家で誰かの声が、テレビの音が聞こえてくる。
「――正解だよ」
恵がうつむいて呟いた。
「多分、慎の考えてることは、正解」
冗談の言える空気ではなさそうだった。
「あの回覧板、三日前には届いてたってことか?」
「うん」
「後の人、困るぞー」
「大丈夫、私で最後だから。あとは元の人に回すだけ」
彼女は口元だけで笑う。髪で隠れて顔全体の表情は読み取れなかった。
「あのさ、俺の考えてることは、正解なんだよな?」
彼女は頷く。
「あの回覧板を見て瞬時にここに来たってことが一つの決め手かもね」
慎は、恵の頭にぽん、と手を乗せて頭を撫でてやる。
普段の恵だったら馴れ馴れしいとか言って振り払っただろうが、黙ってその手の熱を受けていた。
一人で生きる強さを持っているつもりだった。
自由に生きていると思っているつもりだった。
それが、蓋を開けてみればなんだ。私はただ過去に囚われていただけだ。
過去を過去として受け止めることが出来ず、あの出来事が今もすぐ隣にある。
私の自由の翼は、過去と言う名の領域の中で広げていたに過ぎない。
「回覧板でこの公園がなくなるって知ったときね、お父さんとこの公園でよく遊んだ思い出が急にフラッシュバックして、何もやる気が起きなくなっちゃったんだ。で、二日間ボーっとして過ごして今日まずやろうと思ったことが両親の墓参り」
なぜ行こうと思ったのかは自分でも良く判らない。彼には判らないと思うけれど、今日この日まで、私は墓参りに行ったことがなかった。つくづく親不孝な奴だと思う。同時に、なぜ今日まで墓参りに行くという選択肢が自分の中に存在しなかったのが不思議でならない。
「判るなぁ、その気持ち」
意外な慎の言葉に、恵は心を読まれたと焦った。
そんな彼女の焦りに気づかず、慎は彼女の頭を二回ぽんぽん、と叩いてから腕を組む。
俺も兄貴をなくしたときそんな感じだった。救助されたときの記憶ないし、気がついたら病院の簡易ベッドの上だったから兄貴の死体も見てなくてさ。兄貴がいなくなった、っていう認識がなかったんだよね」
慎は老人が昔話をするように、目を過去へと馳せながらゆっくりと、ゆっくりと話す。
「まあ俺は恵よりひどくなかったからさ、墓参りにも慰霊祭にも毎年行ってたんだけど、小学校五年くらいまでかな? 兄貴の死は理解してたつもりだけどあのお墓が兄貴のものだとは思わなかった。自覚したのは、年末の大掃除で俺の部屋から兄貴の日記帳を見つけた時だった」
いつからかあったのかは判らない。
普段は読まないような分厚い本と本の間にノートが挟まれている。
ノートと共にあったものは読んでほしいという意思か。
大晦日、未だ慣れない自分の部屋のいらないものを片付けていたから、天井まで届く本棚の、一番下の段の百科事典をなんとなく取り出してみる。
引き出した三巻と一緒に、ノートが零れ落ちてきた。大学ノートだ。
表紙をめくる。息を呑んだ。書かれていたのは日記で、字体からして兄のものだったからだ。兄は几帳面な性格ゆえに、夏休みの絵日記を延長して大学ノートに毎日数行その日の出来事を綴っていた。今年で同じ年になった自分はぐうたらな生活をしているのに、兄のなんと真面目なことか。
「一ページずつ読み進めてく。小五の日記だし、内容は些細なものだったよ。好きな子の仕草とか、友達や俺とのケンカとか、食事のメニューとか。でもね、ノートの半分を過ぎたあたりから、ないんだよ。あの日から、十二月十六日から」
言葉を通して自分は日記を見つけた日にタイムスリップしている。魂が抜けたようだ。疲れではない。胸の中にある何色かも判らない塊が溶けてなくなった副作用。
「そのとき初めて、ああ、兄貴は死んだんだなぁ、って思った」
理解はしているつもりだった。
恵の瞳にはいつの間にか涙が溢れていた。実のところは判らない。単純に忘れていただけなのかもしれないし、今日墓参りに行ったのだってたまたまだってのかもしれない。
それでも私は、泣かないわけにはいかなかった。
判ってしまったから。
両親はもういないということに。
一人で生きる強さなど必要なかったことに。
「私は……」
恵は、掠れた声で自分に言い聞かせるように、一言を丁寧に言う。
「一人で生きるのは嫌なのかもしれない」
慎は恵の肩を抱き、自分の方へと引き寄せた。
「…でも…ね」
言わなければならない。目が涙で曇っても、体中が暑くても、頭の中がぐるぐる回っていても、この言葉を紡がない限り私は過去から開放されない。
言うんだ恵。泣いているんだから嗚咽が漏れるのはしょうがない。でも。
「も……だれかが、しぬ、は、いや、な」
もう誰かが死ぬのは嫌だ。すぐ傍にいる人が死ぬのは嫌だ。
無意識にそう思っていたからこそ、今まで私は一人でいたのだ。
あの震災を経験しているからこそ、親しい誰かが私より早く死ぬのが嫌だから。
一人は嫌だけど、誰かを失って悲しむくらいなら、一人でいたほうがずっといい。
「えらいえらい」
慎は恵を抱き寄せた手で頭を撫でる。
それがどうしようもなく恥ずかしくて、腹立たしくて、嬉しい。
「恵は俺と違ってデリケートだからな。震災の傷を引きずっててもしょうがないさ」
「うん」
慎は言葉を選ぶように口ごもったりそっぽを向いたりしていたが、
「――俺がさ、傍にいてやるから」
安心する。さっきみたいな嗚咽はもうしないけど、涙が止まらない。
「うん」
「いてやるから、授業サボったり、煙草吸ったりするの禁止な」
なんて雰囲気ぶち壊しな発言だろう・
「あと、友達作れよ」
「……うん」
慎は小指を差し出す。恵はその小指に自分の小指を絡ませる。
恵は笑う。心から笑うことを忘れた彼女の見せる、数年ぶりの本心からの笑顔。
――ゆーびきーりげんまん、うーそついたらはーりせんぼんのーます――
二人の声が、公園に、町に、夕暮れの空に、響く。
その後二人は、様々な人を巻き込んで高校生活に華を添えていきますが、
それはまた、別のお話。
長々とありがとうございました。
感想もらえたら、少しうれしいです。