トリック・OR・トリート
トリック・OR・トリート
世界は、数多のXORでできている。
XOR――排他的論理和。両立を許さない選択肢。
秋の夕暮れ時、お菓子をあげなければポケットにどんぐりを詰め込まれるように。
世界は、小さくとも重要な選択の積み重ねだ。
例えばあの日。
カリブ海の指導者が少しだけ冷静で、挑発的な手紙をフルシチョフに送らなければ。
例えば別の日。
小さな化学メーカーの研究者が少しだけ従順で、研究停止命令に従っていたら。
世界の様相は全く異なるものになっていたと思わないだろうか?
今日、世界は、そんなXORの可能性が、ORとして、重なり合っている。
始まった理由もきっかけも分からない。
僕の目の前の道路は、今までと何も変わらない姿に重なるように、僕が知る道路よりもずいぶんと貧相で、でも剛健なつくりをしており、そこには、日本語・アラビア語・スペイン語で書かれた道路標識がかかった姿が重なっている。
あるいは、重なり合う幻想の街灯は、僕が知るものよりももう少しクリーム色で優しい色合いの、平面的な輝きを放っている。
僕の人生にも、数多のXORがあった。決して、ORで済ませられるような選択ばかりではなかった。
そう、例えば、あれは、高校での文理選択の時の話だ。
僕の高校では文理のいずれかを決め、それに従った進路設計と、受験対策を行うことになっていた。
僕は、数学も国語も英語も得意だった。
物理は得意で生物は苦手だった。
世界史は暗記に辟易としていたが世界中のどこの地図でも何も見ずに描けた。
そしてその時、僕はとても臆病な人間だった。
誰も知らない場所に行くのがとても怖かった。
だから、当時の親友が文系を選択すると人づてに聞いて、軽々しく文系を選んだ。
選んだ理由は今考えれば些細なことだけれど、そこでレールは大きく切り替わった。
結局その親友とはまるで違う大学に合格し、高校卒業と同時に音信不通になって、僕は一人ぼっちの大学生活を送った。
その些細な選択は、僕の人生を大きく変えていた。
経営学部を卒業しとある企業のマーケティング部門に配属になってから大した成果も出せずに社内異動を繰り返し。
もしあの時理系を選んでいたら、入る会社も違ったかもしれないし同じ会社だったとしても全く別の部門に配属されただろう。
そんなことを考えていると、あの高校の日、理系を選び、工学部に進み、技術部門に配属され、海外の生産拠点の技術仕様の検討だとか、買収候補企業の技術アセットの分析をしている記憶がほのかによ・み・が・え・っ・て・くる。
それは僕がしたXORな選択が、今、ORとなって帰ってくる世界。
そして誰かが為したXORな選択がORとして襲いかかってくる世界。
スペイン語はまだしもアラビア語がボロボロだった僕は、海外との交渉でズタボロにされた。
今思えば、当時北半球バイキングくらいしか喋ってない英語なんてのが必修科目だったのは、日米同盟なんてものの名残だったのだろう。
キューバ・カタストロフィから三十年、核攻撃と死の灰でほぼ全滅した中で生き残ったのは洋上の方面軍。南米から中東を巡る戦国時代の中、私掠船団としてかろうじて糊口をしのいでいた連中の言語が必修だったことに、なぜ疑問を持たなかったのだろう。
思えば文系を選択したクラスメイトはアラビア語塾に通っていた者が多かった。
石油覇権と鉱物覇権によるアラブ条約機構とラテンアメリカ条約機構による新冷戦の緩衝地帯の日本で、その二文化を学ばない理由は無かったはずだ。
思えばそれがあまりに面倒で理系を安易に選択したのだった気がしてきた。
転機が訪れたのは、何度目かの社内たらい回しの末、購買部門でくすぶっていた時。
次世代の発光材料として注目されつつあった有機ELの商流に一枚噛みたいからと、有力な米国企業の社内に出張所を作り、いわば無償の労働力を提供する代わりに相手社内の意思決定にも影響する機会を与えてもらえる、そんな話がまとまったときだ。
……いや、これは青色LEDが発明された方の世界の話かな。まあいい、どちらにせよ僕は同じ決断をした。
青色LEDの素材の方だったか、有機EL素材の方だったか、どちらにせよ、僕は立候補した。
話がまとまらなければただの奴隷労働、出戻りしても居場所はない。そんなところに、僕は最後のチャンスを見出した。
そしてその時、僕には結婚を意識している恋人がいた。
でも、チャンスも逃したくなかった。
悩んだ。
悩みに悩んだ末――僕は、置き手紙さえ残さず、日本を発った。
素直に伝えて幻滅されるのが怖い。
たった今から、とてつもなく分の悪いギャンブルに、人生を投じます、なんて、言うのだから。
きっと別れを切り出される。
それがたまらなく怖くて。
だから、僕は、彼女を捨てた。
捨てたことにした。
それが僕という人間の限界だったのだろう。
相手をいつも見下ろしていたいだけの人生だったから、そこでも、自分が相手を虚仮にしたかった。
彼女にとって見れば、僕という人間が幻のように消えてしまっただろうと思う。
家もケータイもその他一切合切を解約してその足で空港に向かったのだから。
今こうしてギャンブルに勝って日本に帰ってきているが、もしあの時、彼女に全てを告げていたらどうなっていたかなんて思う。彼女に蔑みの目で見下され別れを告げられた僕は、どこか欠けた心のままプロジェクトに取り組み、どこかで熱量を使い果たして、不様に屍を晒していたかもしれない。だから、後悔はしてない。
キラキラと鋭い閃光のような白色LEDの街灯は相変わらず僕の頭の上に輝いていて、淡く力強い有機ELの面光源街灯も同じ位置に重なって僕を淡く照らし出し、複数の影を落としている。
どちらが世界の覇権を取ったとしても、僕の決断は変わらなかった。
キューバで世界が終わったとしても、僕はここに立っていた。
けれど、僕の眼の前に、完全な空白と、そうではないものが、重なり合っている。
一人の少女。
彼女は、微笑みながら僕を見上げてる。
「ハッピー、ハロウィン!」
照れながらそういう彼女は、重なり合う他のどの世界にもいない。
「トリックオアトリート!」
お菓子をくれないといたずらしちゃうぞ、と。
再び僕に、XORの選択を投げかけてくる。
答えは一つしかない。
僕は、ポケットに手を突っ込んで、このときのために準備していたお菓子を掴み――。
思・い・出・し・た・。
あの日。
僕は、アメリカに行きたいと、彼女に告げた。
彼女も自分の仕事を持ってる。
良くて日米間の遠距離恋愛、あるいは、あまりにバカげた僕の賭けに、この女は愛想を尽かすだろうと。
そして彼女は口にした。
全く想定外の言葉を。
「アメリカ!? 面白そう! 転職しようと思ってたんだけど、アメリカも良いよね! ねぇ、出発はいつ? 一緒に行こう! 一緒に行くよ? だってそんな素敵な話、二度と――」
偶然か必然か。彼女が手に入れた転職先は僕の奴隷労働先だった。そりゃそうだろう、ただでさえ人が足りなくて人質商売までしようとしてた会社なのだから。
僕と彼女の関係ははなから公然のもので、同僚からはずっとからかいを受けるし相手の会社も公私混同を面白がるような文化で、僕らは激しく利害を衝突させながらも愛を育み――。
似たような立場でまた日本に戻るとすぐに結婚して、一人の娘が生まれた。
「――ねぇ、聞いてるの、パパ? トリックオアトリートだよ!」
いくつも重なり合った中の、奇跡のような存在であることを示すように、女の子の影は薄く、でも、確かに僕に温もりを与えてくれる存在で。
――ここで。
トリートを選んだら。
この子がどんなトリックを準備してたか知らずに終わってしまうのかな。
ふとそんなことを思った僕は。
「トリック」
言いながら、少女の手にお菓子を握らせた。
彼女の姿がゆらりと震え、二つの影に分かれる。
一人の彼女は、ふくれっ面で少しいたずらっぽい笑いを浮かべながら、僕のポケットにドングリをねじ込んだ。
そして同時に、別の彼女は、笑顔でありがとうとお菓子を手に取った。
夕闇が深くなる頃、世界はふわりと、重なりを消していった。
キューバで半分が滅んだ世界も、青色LEDが発明されなかった世界も、可能性を減じていった。
同時に、ゆっくりと少女のふくれっ面と笑顔が、消えていった。
世界はまた元通り、一つの可能性だけが選ばれたXORの世界に戻っていく。
世界に何かが起こったのか、ただ僕の白昼夢だったのか、もう定かではない。
妄想を振り払うように首を振り、誰も待っていない家に向けて歩き出した僕がかじかむ手をふとポケットに入れると。
入れた覚えのないドングリが、あった。




