四年間は、短いですわね
大学へ入学して一年が過ぎる頃には、玲奈にとって海外で暮らすこと自体が特別ではなくなっていた。
最初は知らない店ばかりだった大学周辺の街にも馴染み、講義棟から図書館までの近道を覚え、食堂では何を頼めば失敗しないのかも分かっている。
もっとも、友人たちと過ごす時間まで平穏になったわけではない。
エマが見つけた店へ行けば予想外の料理が出てきて、ソフィアに誘われてゲームをすれば本気で負け、リアムと勉強すれば自分が知らない数式を当然のように使われる。
玲奈が日本で送っていた生活とは、随分違う毎日だった。
一年目の長期休暇には、四人で数日間の旅行にも出かけた。仕事とは無関係で、視察でも市場調査でもなく、目的は観光することだけ。
玲奈が宿泊先の周辺企業を調べ始めたときには、エマから携帯電話を取り上げられそうになった。
「旅行中くらい会社見るのやめない?」
ホテルのロビーでそう言われ、玲奈は画面に表示していた企業情報から顔を上げた。
「別に投資するつもりではございませんわよ。少し気になっただけですもの」
「前もそれ言って会社に投資してなかった?」
「ノア様の件は、本当に面白い技術だったのですから仕方ございませんでしょう?」
エマから疑わしそうな目を向けられ、玲奈は渋々携帯電話を鞄へ戻した。
隣ではソフィアが笑っており、リアムに至っては玲奈が何分我慢できるのか計ろうとしている。
「一時間もつ方に賭ける」
「賭け事は感心いたしませんわね。そもそも、わたくしを何だと思っていらっしゃいますの?」
「会社を見ると買いたくなる人」
「買いませんわよ」
玲奈は即座に否定したものの、三人とも納得した様子はなかった。
その日の玲奈は宣言どおり企業情報を開かず、観光地を巡り、地元の料理を食べ、夜には四人でカードゲームをして過ごした。
利益にも人脈にもならない旅行だったが、帰る頃には次にどこへ行くかを話していた。
以前なら、数日間も仕事から離れることをもったいないと感じていただろう。
今でも時間を無駄にすることが好きになったわけではないが、友人と遊ぶ時間を無駄だとは思わなくなっている。
日本へ帰省した際には、陽菜にもその話をした。
「玲奈が旅行? 仕事じゃなくて?」
久しぶりに会った親友は、玲奈の土産を受け取りながら真っ先にそこを疑った。
「失礼ですわね。わたくしだって旅行くらいいたしますわよ」
「高校のときの玲奈だったら、旅行先で会社見つけてそう」
「大学のお友達にも同じようなことを言われましたわ」
陽菜は少し黙ったあと、声を上げて笑った。
国が違っても友人からの評価は似たようなものらしい。玲奈は不満そうな顔をしながらも、陽菜が大学生活の話を楽しそうに聞いてくれることを嬉しく感じていた。
◇
二年目に入っても、玲奈の大学生活は大きく変わらなかった。
ただし講義の専門性は明らかに高くなり、一年目のように短時間の勉強だけで上位へ入れる科目ばかりではなくなっていった。
リアムと同じ講義を受ければ統計分野で先を行かれ、情報工学に関する課題ではソフィアへ質問する回数が増える。
その代わり、事業計画や組織運営を扱う授業では玲奈の実務経験が強く、三人から質問される側になることも多かった。
玲奈自身も、すべての科目で一番を狙おうとはしなくなった。
興味がある分野には時間を使う。必要だと思えば専門外でも学ぶ。
しかし、専門家になるつもりのない分野まで、リアムやソフィアへ追いつくためだけに何百時間も費やすことはしない。その時間があるなら、自分にしかできないことへ使った方がいい。
それは諦めではなく、玲奈にとって新しい時間の使い方だった。
「玲奈、これ分かる?」
ある日の講義後、ソフィアから統計処理について聞かれ、玲奈は資料を確認してから首を横へ振った。
「そちらでしたら、リアム様へ聞いた方が早いですわね」
「玲奈が即答しないの珍しい」
「分からないものを分かるふりしても、時間の無駄でしょう?」
少し離れた席にいたリアムが呼ばれ、数分後には問題が解決した。以前の玲奈なら、自分で調べて理解してから答えようとしたかもしれない。
しかし今では、自分より詳しい人間が近くにいるなら頼ることに抵抗はない。
反対にエマが授業で仮想企業の資金調達について悩んでいたときには、玲奈が説明する側になった。
必要資金を集められるかだけでなく、その条件で誰がどれだけの権利を持つのかまで考えるよう指摘すると、エマから「急に本職になった」と笑われた。
四人とも得意なものが違う。
その違いを競争だけではなく、頼るためにも使えるようになったことが、一年目との大きな違いだった。
◇
大学生活が変わっていく一方、日本に置いてきた会社も止まってはいなかった。
二年目の夏、玲奈は天城ホールディングスとの定例会議に参加した。
画面には橘沙耶香をはじめ各部門の責任者が並び、東雲精機、ネクサリンク、ARES、海外事業の順番で報告が進んでいく。
東雲精機では、玲奈が知らない間に新しい取引先が増えていた。以前から試験供給していた海外メーカーとの契約がまとまり、小型モーターの生産設備を増強することまで決まっている。
「設備投資まで決定しておりますの?」
玲奈が資料を確認すると、沙耶香は当然のように頷いた。
「既存の投資枠の範囲内だからね。東雲側の経営陣と財務で確認して、こっちでも承認したわ」
「わたくし、何もしておりませんわよ?」
「それが組織を作ったってことでしょう」
沙耶香から即答され、玲奈は資料へ視線を戻した。内容を確認しても、特に問題はない。設備投資額も無理のない範囲で、契約条件も悪くなかった。
ネクサリンクでも同じだった。
瀬川たちはARESとは別に、物流施設向けの新型機を開発していた。東雲精機のモーターや北辰電池の技術も一部使っているが、玲奈が両社を繋いだわけではなく、現場同士の話し合いから自然に共同開発が始まっている。
ARESの海外展開も、VGIとの提携地域で導入が進み、それ以外の地域では別の販売会社との交渉が始まっていた。玲奈が以前決めた「世界独占契約を結ばない」という原則だけが残り、その範囲内で担当者たちが最適な相手を選んでいる。
「……本当に、わたくしがいなくても動きますのね」
玲奈が思わず漏らすと、画面の向こうで沙耶香が笑った。
「動かなかったら困るでしょ。玲奈が海外に行く前に、そういう会社にしたんだから」
「そうなのですけれど」
自分で望んだことなのに、実際に会社が自分の手を離れて成長していく様子を見ると不思議な気分だった。寂しいわけではなく、むしろ少し誇らしい。
玲奈が最初に東雲精機へ入った頃は、価格の変更一つにも自分が関わっていた。
設備投資、採用、営業方針、新商品まで一つずつ確認し、問題を見つければ自分で解決策を考えていた。
今では、その必要がない。
大きな投資や買収、新規事業の開始については玲奈が判断する。しかし、既に走り始めた事業を前へ進めるために、玲奈が毎日指示を出す必要はなくなっていた。
会議が終わったあと、玲奈は予定より早く閉じた端末を眺めた。以前なら二時間以上かかっていた会議が、一時間も経たずに終わっている。
空いた時間に何をするか迷った末、玲奈は大学の図書館へ向かった。
◇
三年目に入る頃には、玲奈たち四人が一緒にいることも大学内では当たり前になっていた。
もちろん常に四人で行動するわけではない。専攻が違えば講義も分かれ、リアムが研究室へ籠もる日もあれば、ソフィアが開発イベントへ参加することもある。
エマにはエマの友人が増えており、玲奈も授業や研究活動を通して知り合った学生がいる。
それでも予定が合えば食事をし、試験が終われば遊びに行く。
《セレスティア》についても、ソフィアの熱は相変わらずだった。
「玲奈、今日の夜セレスティア配信あるよ」
昼食中に予定を教えられ、玲奈はスープを飲みながら平静を保った。
「存じておりますわ」
「さすが。最近玲奈も結構見てるよね」
「ええ、まあ」
見ているどころか、その時間には自室で配信している予定である。
エマもすっかりセレスティアを見るようになっており、ときどき二人で配信内容について話している。
玲奈は以前ほど緊張しなくなったが、大学で起きた具体的な出来事を配信へ持ち込まないという原則だけは守り続けていた。
その日の夜も相談室を終え、配信を切ったところでソフィアからメッセージが届いた。
『今日の相談室よかった!』
玲奈は少し迷ったあと、大学生の玲奈として返信した。
『わたくしも拝見しましたわ。面白かったですわね』
数秒後、ソフィアから同意する画像が送られてきた。
玲奈は思わず笑った。
大学の友人に自分の配信の感想を返す奇妙な生活にも、いつの間にか慣れてしまっている。
◇
三年目の秋、玲奈は履修している講義の一つで、大学が保有する研究成果の事業化について扱うことになった。
研究そのものではなく、大学で生まれた技術をどのように社会へ出すのかを考える講義だった。
研究者が起業する場合もあれば、既存企業へ技術を供与する場合もあり、大学が特許を保有したままライセンス契約を結ぶ場合もある。
ノアへの投資で一度経験した分野でもあるため、玲奈にとって完全に未知の話ではなかった。
ところが講義の後半、教授が実例として紹介した研究の一つに、玲奈の目が止まった。
複数分野の研究者が長期間共同で進めているプロジェクトだった。
基礎技術は既に成立していて、実験室規模なら結果も出ている。
しかし、実用化には大学の研究室だけでは到底用意できない設備が必要で、量産へ進むならさらに大きな資金がいる。
しかも一つの企業だけで完成させられる技術ではなく、複数の製造技術や周辺特許が関係していた。
玲奈は配布された資料を読み進めた。
面白い。
だが、ノアのときとは明らかに違う。
若い研究者へ資金を出し、大学と知的財産の扱いを整理して、小さな会社として育てればよい規模ではなかった。
講義が終わったあとも玲奈が資料を読んでいると、隣からエマが覗き込んできた。
「その顔、危なくない?」
玲奈は資料から視線を上げた。
「どのような顔ですの?」
「面白い会社見つけたときの顔」
「会社ではございませんわ。まだ研究プロジェクトですもの」
エマは余計に嫌そうな顔をした。
「もっと危ないやつじゃん」
玲奈は反論しようとしたものの、資料へ目を戻したところで言葉を止めた。
確かに面白い。ただし、自分が投資すれば済む話ではない。
研究代表者は会社経営を望んでおらず、大学側は知的財産を簡単に手放すつもりがない。
必要な設備投資額は天城ホールディングスだけでも用意できなくはないが、一社で負担するには大きすぎる。さらに実用化したとしても、世界規模で供給するには製造と販売の両方で別の企業が必要になる。
研究者、大学、製造企業、資金提供者、そして将来の販売網。
それぞれが別の利益を求める。
玲奈は資料の最後まで読み終え、静かに閉じた。
「……これは、会社を一社買えば済むお話ではございませんわね」
エマは玲奈の顔を見て、今度こそ完全に呆れた表情になった。
「やっぱりやる気じゃん」
「まだ何もすると決めておりませんわよ」
そう答えながらも、玲奈は資料を鞄へしまった。
大学へ来てから二年以上。
友人と遊び、自分より優れた同年代と競い、知らない分野を学び、会社が自分なしでも成長していく姿を見てきた。
その間に玲奈自身も、以前とは少し変わっている。
良い技術を見つけたから買う。
困っている会社を見つけたから立て直す。
それだけが事業を作る方法ではないことを、今の玲奈は知っていた。
翌日、玲奈は講義を担当した教授へ連絡を入れた。研究へ投資したいとは書かず、まず研究チームから現在の状況を詳しく聞きたいとだけ伝える。
返事は、その日の夕方に届いた。
研究代表者との面談は一週間後。
さらに、その研究へ以前から関心を示している企業があるという一文が添えられていた。
企業名を確認した玲奈は、わずかに眉を上げた。
そこに書かれていたのは、既に何度も見た名前だった。
VGI。
Alexander Valdenが率いる、世界規模の巨大企業だった。




