北辰電池を貸してくださいませ
呼び出し音が三度鳴ったところで、御堂征一郎が電話に出た。
『なんだ、小娘』
「ごきげんよう、お爺様。少々お願いがございますの」
『嫌な予感しかしねえな』
「失礼ですわね。まだ何も申し上げておりませんでしょう?」
『お前が俺にお願いなんて言葉を使う時点で警戒するには十分だ』
玲奈は少しだけ眉を寄せた。
普段ならもう一言返すところだが、今日は本当に頼みがある。ここで言い争っていても話が進まないため、机の上に置いたネクサリンクの資料へ視線を落とした。
「では単刀直入に申し上げますわ。お爺様、北辰電池を貸してくださいませ」
『会社は貸し物じゃねえぞ、小娘』
「もちろん存じております。ネクサリンクの次期量産機で、北辰電池にバッテリーパックの開発をお願いしたいのです」
今度は御堂もすぐには返さなかった。
玲奈はネクサリンクが開発している小型搬送ロボットについて、必要な部分だけ説明していく。東雲精機が駆動用モーターを担当し、相馬電子技研が制御部分に加わっていること。そして実証試験を重ねる中で、連続稼働時間や充電時間、バッテリー寿命が次の課題として浮上したことを伝えた。
『北辰じゃなきゃ駄目なのか?』
「他社でも作れる可能性はございます。ただ、わたくしが調べた会社の中では北辰電池が最も条件に合っておりますわ」
『買えなかった会社に頭下げるのは悔しくねえのか』
「なぜですの?」
『お前、本気で北辰を欲しがってただろ』
「ええ。今でも良い会社だと思っております」
だからこそ頼む価値がある。
玲奈にとって、それ以上の説明は必要なかった。
「わたくしが北辰電池を買えなかったことと、北辰電池の技術が優れていることは別のお話でしょう?」
電話の向こうで、御堂が低く笑った。
『少しは成長したじゃねえか』
「その言い方は気に入りませんわね」
『褒めてやったんだぞ』
「上から目線すぎますのよ」
『七十二の爺さんが十四の小娘に上から物を言って何が悪い』
「年齢だけで偉くなれるのでしたら、長生きとは便利なものですわね」
『相変わらず可愛げがねえな』
玲奈は小さく笑った。
「それで、お願いできますの?」
『俺が決める話じゃねえ』
返ってきた答えに、玲奈はわずかに目を細めた。
『北辰には北辰の経営陣がいる。俺が上から仕事を押しつけたら、買った意味がねえだろ。資料を送れ。北村には俺から話を通してやるが、受けるかどうかは北辰に判断させる』
「ええ。それで十分ですわ」
『特別価格もなしだ』
「必要ございません。仕事に見合った金額を請求していただきます」
『納期も無茶は聞かせねえぞ』
「当然ですわね」
『……本当に可愛げがねえな』
「正当な対価を支払うと申し上げただけで、なぜ可愛げがなくなりますの?」
『そこが分からねえうちはそのままでいろ』
御堂はそれ以上説明しなかった。
翌日、玲奈はネクサリンクと東雲精機、相馬電子技研から必要な情報を集め、北辰電池へ渡すための資料をまとめた。
ただし、最初から細かな仕様を決め切ることはしなかった。
バッテリーを専門とする北辰へ完成済みの条件だけを渡して製造させるのではなく、どの構成なら機体全体として最も良くなるのかを一緒に考えてもらう。その方が、北辰の技術を使う意味がある。
数日後、北辰電池から正式に返事が届いた。
話を聞きたい。
短い回答だったが、それで十分だった。
最初の打ち合わせは北辰電池の本社工場で行われることになった。
以前訪れたとき、玲奈はこの会社を買うために財務や設備、人員構成まで調べていた。しかし今回は、ネクサリンクの瀬川拓海、東雲精機の技術者、相馬電子技研の担当者と一緒に客として会議室へ入る。
「お久しぶりです、天城さん」
「ご無沙汰しております、北村様」
北村孝一は以前と変わらない穏やかな表情だった。
握手を交わしたあと、北村が少し笑う。
「御堂さんから聞きましたよ。北辰を貸してほしいとおっしゃったそうですね」
「……お爺様は余計なところまで伝えますのね」
「随分楽しそうでした」
「今度お会いしたときに文句を申し上げておきますわ」
挨拶を済ませると、すぐに仕事の話へ移った。
瀬川が次期量産機の狙いを説明する。
「今の機体でも実証そのものは進められています。ただ、量産モデルとして考えると、稼働時間をもう少し伸ばしたい。充電で止まっている時間も短くしたいです」
北辰側の技術者が資料へ目を落とす。
「容量を増やすだけなら難しくありません。ただ、その分だけ重量も増えます。このサイズの機体だと影響が大きいですね」
「そこなんです」
瀬川が頷いた。
「重量を増やすと駆動側の消費電力も増える。だから大容量化だけでは解決しません」
「使用環境は?」
「現状の実証先は屋内です。ただ、空調の弱い倉庫や工場も想定しています」
「最高温度だけでなく、連続運転時のパック周辺温度も見たいですね。充電方法についても、急速充電を優先するのか、交換式を含めるのかで設計が変わります」
質問は次々に続いた。
最大負荷、平均負荷、加速回数、停止時間、充電頻度、期待寿命、交換方法、保守費用。玲奈が北辰を調べていたときには見えなかった細かな技術判断が、実際の製品を前にすると次々に出てくる。
玲奈は無理に会話へ割り込まなかった。
経営側が決めるべき条件と、技術者へ任せるべき判断は違う。
やがて北辰の技術者が、東雲精機の資料へ視線を移した。
「モーター側のピーク電流、もう少し詳しく見せてもらえますか?」
「こちらです」
東雲の技術者が資料を開く。
「今は安全側に余裕を取っています。バッテリー側の許容範囲が分かれば、巻線と制御条件を含めて再調整できます」
「それなら、パック単体で容量を増やすより全体効率を詰めた方がいいかもしれませんね」
相馬電子技研の担当者も会話へ加わった。
「停止と加速が多い現場なら、制御側にもまだ改善余地があります。回生をどこまで使えるか、北辰さんと条件を合わせてみたいです」
一つの問題だったはずのバッテリーが、いつの間にかモーターと制御を含めた機体全体の話へ変わっていた。
玲奈はそこで初めて口を開いた。
「皆様、一つだけよろしいかしら」
技術者たちが玲奈を見る。
「ネクサリンクが欲しいのは、最も優れたバッテリーでも、最も優れたモーターでもございません。量産できて、きちんと利益が出て、お客様の現場で長く使えるロボットですわ。その条件から外れない範囲で、一番良い組み合わせを探してくださいませ」
瀬川がすぐに頷いた。
「その通りです。性能競争がしたいわけじゃない。導入した会社が普通に使い続けられるものにしたいです」
北辰側から、試作に必要な期間と費用の概算が示された。
決して安くはない。
ネクサリンクにとっては慎重に判断すべき金額だったが、瀬川は値引きを求める前に内訳を確認した。
「この評価試験は量産前にも必要になりますか?」
「一部は必要です。ただ、今回の結果を流用できる項目もあります」
「なら、最初から量産を想定した条件でお願いします。後から全部やり直す方が高くつくので」
玲奈は何も言わなかった。
以前なら資金に余裕のない瀬川が、まず価格を下げる方法を考えていたかもしれない。
今は必要な費用と削れる費用を分けようとしている。
玲奈が投資した金が、単に会社の寿命を延ばすためではなく、こうした判断を可能にする余裕として使われていた。
打ち合わせが一段落したところで、北村が玲奈へ声をかけた。
「少し意外でした」
「何がですの?」
「天城さんなら、もっとご自分で決めるのかと思っていました」
「バッテリーの設計を、ですか?」
「それもありますが、このプロジェクト全体を」
玲奈は会議室の向こう側で話を続けている技術者たちを見た。
「わたくしにはモーターを設計できませんし、バッテリーパックも作れません。ロボットの制御プログラムについても、直人さんや瀬川様の方が遥かに詳しいですもの」
「それでも、会社を買う人は全部自分で決めたがることがあります」
「それは随分もったいないお話ですわね」
玲奈は本気でそう思った。
「自分より上手にできる方を集めているのに、自分が全部決めるのでしたら、何のためにその方々がいらっしゃるのです?」
北村は少し驚いたあと、笑った。
「御堂さんとは、やはり少し違いますね」
「お爺様も全部は決めないでしょう?」
「ええ。ただ、若い頃は今よりずっと口を出していましたよ」
「今度お会いしたら教えて差し上げますわ。北村様が昔のお爺様は面倒だったとおっしゃっていた、と」
「そこまでは言っていません」
「似たようなものですわ」
「全然違いますよ」
二人で笑っているうちに、最初の打ち合わせは終わった。
北辰電池は正式な見積もりを作り、ネクサリンク側が承認すれば試作へ進む。東雲精機と相馬電子技研も、それぞれ必要なデータを共有することになった。
帰宅した玲奈は、その日の内容を自分のノートへ整理した。
東雲精機は所有している。
ネクサリンクには出資している。
相馬電子技研とは取引関係にある。
北辰電池は御堂グループの傘下だ。
四社の関係はすべて違う。
それでも、同じ製品を作ることはできる。
「……会社を買わなければ、一緒に仕事ができないわけではございませんものね」
翌週、北辰電池から正式な見積もりが届いた。
ネクサリンク側でも内容を確認し、試作開発への支出が承認される。
そこから四社の共同作業が始まった。
最初の試作パックは、要求していた稼働時間を満たした。
ただし、重い。
機体重量が増えたことで加速時の消費電力が想定より大きくなり、期待していたほど稼働時間が伸びなかった。
東雲精機がモーター側の条件を見直す。
相馬電子技研が加減速制御を調整する。
北辰電池はセル構成と保護条件を再検討し、ネクサリンクは機体側で削れる重量を洗い出した。
二度目の試作では重量が減った一方、連続運転時の温度上昇が課題になった。
三度目では熱対策を改善したものの、今度は充電時間が目標へ届かなかった。
誰か一社だけが悪いわけではない。
一つを改善すると、別の場所へ負担が移る。
玲奈にとって、それは数字だけを見て会社を調べていた頃には知らなかった種類の難しさだった。
そして四度目の試作。
ネクサリンクの試験機が、工場内に設定されたコースを走り続ける。
荷物を積み、停止し、再び加速する。
充電地点へ戻るまでの時間は、従来機より明確に伸びていた。
瀬川が計測結果を見る。
「……入った」
東雲の技術者が確認する。
「温度は?」
「許容範囲です。余裕も残ってます」
北辰側の技術者が答えた。
「充電時間も目標内です。ただ、実際の現場条件でもう少し長期試験は必要ですね」
「やりましょう」
瀬川は即答した。
誰も大声で喜ばなかった。
まだ量産できたわけではないからだ。
それでも、最初に集まったときより全員の表情は明るかった。
玲奈も試験結果を見ながら満足していた。
その日の夕方、御堂から電話がかかってきた。
『北村から聞いたぞ』
「何をですの?」
『試作が目標に入ったそうじゃねえか』
「情報が早いですわね」
『俺のところの会社だからな』
「でしたら、お礼を申し上げておきます。北辰電池には良い仕事をしていただいておりますわ」
『そうか』
御堂は少し間を置いた。
『で、どうだ。買えなかった会社に助けてもらった気分は』
玲奈は笑った。
「悪くございませんわね」
『ほう』
「以前のお爺様のお言葉を、少しだけ訂正したくなりました」
『何をだ』
「買えなかった会社からも学べ、とおっしゃいましたでしょう?」
『言ったな』
「ええ。ですが――」
玲奈は机の上に並んだ試験結果を見る。
東雲精機、相馬電子技研、ネクサリンク、北辰電池。
どれか一社だけでは完成しなかった結果だった。
「買えなかった会社とも、組めますのね」
電話の向こうで、御堂がしばらく黙った。
やがて低い笑い声が聞こえてくる。
『ようやく分かったか、小娘』
「お爺様が教えてくださらなかっただけでしょう?」
『そこまで教わらなきゃ分からねえなら経営者なんかやめちまえ』
「まあ。では次は、お爺様がまだ知らないことをわたくしが教えて差し上げますわ」
『百年早えよ』
「百年後では、お爺様がおりませんでしょう?」
『お前は最後に必ず一言多いな!』
電話を切ったあとも、玲奈はしばらく笑っていた。
東雲精機を買ったことで、会社を所有することを覚えた。
北辰電池を買えなかったことで、会社には数字だけでは測れない関係があると知った。
相馬電子技研とは、買わずに仕事をした。
ネクサリンクには、支配するのではなく出資した。
そして今、かつて欲しくても手に入らなかった北辰電池と、一つの製品を作っている。
使える方法が増えるほど、自分で持たなければならないものはむしろ減っていく。
玲奈は新しいページを開き、次の量産試験で確認すべき数字を書き始めた。
ロボットはまだ完成していない。
四社の関係も、始まったばかりだった。
それでも以前の玲奈なら、欲しい会社を見つければ最初に考えていたはずの問いが、今は少しだけ変わっている。
この会社を買えるだろうか、ではない。
この会社と何ができるだろうか。
その方が、ずっと多くの選択肢を見つけられそうだった。




