信用には、値段がございます
九歳になった天城玲奈の生活は、一週間ほど前までと表面上ほとんど変わっていなかった。朝になれば両親と食卓を囲み、学校へ行けば授業を受け、休み時間には同級生と話し、帰宅してから宿題を終える。配信予定のない夜には本を読み、休日には父の修一と競馬場へ出かけることもあり、登録者数が急増したからといって、その日常まで配信へ差し出すつもりはなかった。
しかし、パソコンの画面を開いたときだけは明らかに以前と違っていた。進路について悩む視聴者へ答えた《セレスティアお嬢様の相談室》の切り抜きは、その後も玲奈の知らない場所で広がり続け、登録者数は一万人を超えてからも増加を続けている。以前なら玲奈自身がすべて読めたコメントや連絡も、今では一人で確認することが難しくなり始めていた。
その変化に対応するため、直人は連絡先を用途ごとに整理し、玲奈へ直接届く情報を減らしていた。活動に関係する問い合わせはまず専用の窓口へ入り、危険なものや意味不明なものを除外したうえで、必要な内容だけを玲奈と両親へ共有する。まだ小学生である玲奈を、インターネット上の不特定多数と直接つなげないための仕組みだった。
そんなある日の放課後、宿題を終えた玲奈が打ち合わせ用の画面を開くと、直人はいつもより少し面倒そうな表情で資料を表示した。そして玲奈が内容を読むより先に、「とうとう来たぞ。今までの視聴者からの連絡とは種類が違うから、今日はお父さんかお母さんにも一緒に見てもらおう」と告げた。
その言葉を受けて、玲奈は台所にいた美咲を呼んだ。修一はまだ仕事から帰っていないため、今日は美咲が保護者として同席する。三人が確認したのは、一つの企業から送られてきた正式な問い合わせだった。
内容は単純だった。若年層向けの商品を販売している会社が、VTuberへ自社商品の紹介を依頼したいというものである。商品を無償で提供したうえで、配信中に一定時間紹介してもらい、その対価として報酬を支払いたいと書かれていた。
玲奈は最後まで読み終えると、最初に金額ではなく商品名へ視線を戻した。それから商品説明や会社名を確認しながら、「久世さん。この会社について、どこまで確認なさいましたか?」と尋ねた。
直人は少し笑ってから、「そこから聞くと思ったよ」と答えた。会社そのものは実在しており、少なくとも架空企業を名乗った詐欺ではない。送信元も企業が公開している情報と一致しているが、依頼を受けるかどうかまで直人が判断したわけではなかった。
玲奈は続いて、商品の評判を調べたいと申し出た。広告だけを見れば当然良いことしか書かれていないため、実際に購入した人間が何を評価し、何へ不満を持っているのかも確認したかったのである。
美咲はそんな娘を横から見ながら、「玲奈ちゃん、報酬がいくらなのかは気にならないの?」と尋ねた。すると玲奈は画面から視線を外さず、「もちろん気になります。ただ、お金をいただけるという理由だけで、何を紹介するか決めるわけにはまいりませんでしょう?」と当然のように返した。
その返答に、美咲は小さく笑った。以前の玲奈なら、自分で稼いだ百円を受け取っただけでも大喜びしていた。それから一年ほどしか経っていないのに、今では企業から仕事を依頼される立場になっている。それでも金を稼ぐこと自体を嫌うようになったわけではなく、むしろ玲奈は自分の働きへ正当な対価が支払われることを強く好んでいた。
だからこそ、何へ対して金が支払われるのかを理解したかった。
「久世さん、企業側は何を買おうとしているのでしょう?」
玲奈からそう尋ねられ、直人は一瞬だけ考え込んだ。それから「配信内で商品を紹介する時間じゃないか」と答えたものの、自分でもそれだけではないと感じたらしく、すぐに言葉を付け加えた。
「正確には、セレスティアが紹介すること自体にも金を払うんだと思う。誰でもいいなら、わざわざ玲奈のところへ依頼する必要はないからな」
玲奈は静かに頷いた。
同じ商品を同じ時間だけ紹介するにしても、誰が紹介するかによって企業が支払う金額は変わる。つまり企業は配信時間だけを買うのではなく、その配信者が持っている視聴者との関係まで含めて価値を判断している。
「でしたら、これは広告するための時間を売るだけのお仕事ではございませんね。わたくしがこれまで積み上げてきたものも、少しお貸しすることになるのでしょう」
直人は玲奈の言葉を聞いて、「信用ってやつだな」と短くまとめた。
玲奈は、その単語を頭の中で繰り返した。
信用。
相談室で玲奈が何かを話せば、それを真剣に聞いてくれる人がいる。ゲームについて分からないことを尋ねれば、視聴者が教えてくれる。玲奈が失敗すれば笑いながら次も見に来てくれ、良いと思った場面があれば切り抜いて別の人へ紹介してくれる。
それは一度の配信で生まれたものではない。
少しずつ積み重なったものだった。
もし玲奈が金を受け取るたびに、良いと思っていない商品まで素晴らしいと紹介したらどうなるだろう。最初の一回では、大きな問題にならないかもしれない。しかし何度も繰り返せば、視聴者はセレスティアの言葉そのものを信じなくなる可能性がある。
「……高いものをいただいて、もっと高いものを失う可能性がございますのね」
玲奈がそう呟くと、直人は少し意外そうに画面越しの少女を見た。美咲も同じように娘を見ている。
玲奈は構わず依頼文をもう一度読み直した。
「商品そのものを確認してから決めたいです。実際に使用していないものを、説明文だけ読んで紹介することはしたくありません」
直人が企業側へ確認すると、試供品を送ること自体は問題ないという返答があった。ただし当然ながら、玲奈の住所を企業へ直接知らせることは避ける必要があるため、受け取り方法については両親と直人を交えて安全な方法を選ぶことになった。
数日後、商品が届いた。
玲奈はすぐ配信で紹介するのではなく、まず自分で使用した。説明書を読み、企業が宣伝している特徴を一つずつ確かめ、使いやすさや気になった部分までノートへ書き込んでいく。その姿は、新しい玩具を与えられた九歳児というより、仕入れる商品の品質を確認する商人に近かった。
しばらく使った玲奈は、商品そのものについて大きな問題はないと判断した。特別に感動するほど優れているわけではないが、価格を考えれば十分便利であり、視聴者へ紹介しても構わないと思える程度には気に入った。
しかし、一つだけ問題があった。
企業から送られてきた紹介条件には、商品の長所について触れてほしいという指定がある一方、玲奈が実際に使って気づいた不満点について、どこまで話してよいのか明確に書かれていなかった。
「こちらについて、確認したいです」
玲奈は直人との打ち合わせで、その部分を示した。
「もし配信中に使いにくいところを尋ねられた場合、正直に答えてもよろしいのでしょうか?」
「普通は企業によるな。広告なんだから悪いところを言ってほしくない会社もあるだろうし、正直なレビュー込みで頼むところもある」
「では、今回はどちらでしょう?」
「確認してみないと分からない」
「お願いいたします。悪いところを言ってはいけないのでしたら、今回はお断りします」
あまりにも迷いなく言われたため、直人の方が一瞬返事を忘れた。
「報酬、結構いいぞ?」
「ですから、何でしょう?」
「いや、玲奈ならそう言うと思ったけどさ」
玲奈は不思議そうに首を傾げたあと、少し考えてから理由を説明した。
「わたくしが良いと思ったところだけを紹介するのであれば問題ございません。ただ、質問されたときに悪いと思ったところまで隠すのでしたら、わたくしの意見ではなく企業の言葉を読んでいるだけになりませんこと?」
玲奈は企業から広告費を受け取ること自体を悪いとは思っていなかった。仕事を依頼され、その仕事を果たしたなら対価を受け取るのは当然である。むしろ無償で広告をする方が、玲奈の価値観には合わない。
問題は、対価と引き換えに何を差し出すかだった。
「わたくしの配信を見てくださる方は、企業からお金をいただくために集まってくださったわけではございません。でしたら、その方々へ嘘をつくことまで契約へ含めるつもりはありませんわ」
直人は数秒黙ったあと、企業へ確認すると約束した。
返事が届いたのは翌日だった。
企業側は玲奈が実際に使用した感想を話すこと自体は認めた。ただし、商品を紹介する案件であることを明確にし、事実と異なる批判や過度に否定的な演出を避けてほしいという条件が付けられている。
玲奈にとって、それは十分に受け入れられる内容だった。
「事実と異なることを申し上げるつもりは最初からございませんし、わざと悪く見せる必要もありません。良いところは良い、使いにくかったところは使いにくかったと申し上げられるのでしたら問題ありませんわ」
次に確認したのは報酬だった。
金額を見た玲奈は、今度こそ少し驚いた。
父との競馬で得てきた情報料とも、視聴者から受け取った百円とも意味が違う。企業が《セレスティア》という名前と、配信内で商品を紹介する行為へ対価を提示している。
しかし玲奈は、その金額だけを見て喜ぶ前に直人へ尋ねた。
「この金額は、現在のわたくしの規模では妥当なのでしょうか?」
「そこ確認する?」
「当然です。高すぎても安すぎても、理由が分からなければ判断できませんもの」
直人は市場の事例を調べながら、現在の登録者数だけで単純に決まるわけではないと説明した。視聴者数、反応の多さ、扱う内容、拘束時間、二次利用の有無などによって条件は変わるため、一つの数字だけを基準にはできない。
玲奈はそこで、契約というものが前世以上に細分化されていることへ興味を持った。
公爵家の交渉でも、土地や税、交易条件について細かく決めることはあった。しかし現代では、映像を何分使うのか、その映像を企業側が別の広告へ使用してよいのか、公開後どれだけ残すのかという部分まで金額へ影響する。
「面白いですわね。目に見えないものまで、条件を定めれば価値として取引できるのですね」
「楽しそうだな」
「とても勉強になりますもの」
「九歳が企業案件で社会勉強してる状況を、俺はどう受け止めればいいんだろうな」
「依頼を受けた以上、きちんと働けばよろしいのではありませんか?」
「俺まで働かされる側なの?」
「久世さんにも報酬をお支払いしておりますでしょう?」
直人は何も言えなくなった。
以前の彼なら、これくらいは簡単だから無料でいいと言ったかもしれない。しかし玲奈から何度も自分の能力を安売りするなと言われた結果、現在では玲奈の配信環境を維持する作業について、内容と報酬を以前より明確にするようになっている。
玲奈はそれを当然の変化として受け入れていた。
能力があるなら、その能力に対価が支払われるべきだ。
それは自分でも、直人でも変わらない。
最終的な契約内容については美咲と修一も確認し、未成年である玲奈だけの判断では進めなかった。特に美咲は銀行員として働いていた頃の経験から、金額だけでなく支払時期や条件についても細かく質問し、玲奈が見落としていた部分をいくつか指摘した。
「お母さん、こちらは何が問題なのです?」
玲奈が尋ねると、美咲は契約文の一部分を示しながら説明した。
「問題って決まったわけじゃないよ。でも、どこまで使っていいのか曖昧でしょう? 玲奈ちゃんが配信で紹介した映像を、会社がずっと広告に使えるようにも読めるから、確認しておいた方がいいと思う」
玲奈は説明を聞きながら、すぐノートへ書き込んだ。
「なるほど。配信する権利と、その映像を別の場所で使用する権利は分けて考える必要があるのですね」
「そういうこと。お母さんも専門家じゃないから、分からないところはちゃんと確認しようね」
「はい。知らないことを分かったつもりで進める方が危険ですもの」
玲奈は素直に頷いた。
前世の知識があるからといって、現代の契約を全て理解できるわけではない。むしろ似ている部分があるからこそ、自分は分かっていると思い込むことの方が危険なのだと、玲奈は少しずつ理解していた。
条件の確認と修正を経て、玲奈にとって初めての企業案件が正式に決まった。
配信当日。
開始時刻になると、以前からの視聴者だけでなく、最近の切り抜きからセレスティアを知った人々も集まってきた。玲奈はいつもの挨拶を済ませたあと、普段とは違う内容であることを最初に説明した。
「本日は企業様からご依頼をいただき、商品をご紹介する配信となっております。商品をご提供いただいたうえで報酬もいただいておりますので、その点をご理解いただいたうえでご覧くださいませ」
コメント欄には祝福する言葉が次々と流れた。初案件を喜ぶ人もいれば、本当に企業が九歳の玲奈へ依頼しているとは知らないため、「お嬢様が仕事してる」と面白がる視聴者もいる。
玲奈は商品を画面上で紹介し、事前に確認した特徴を説明していった。
企業が用意した文章をそのまま読み上げるのではない。
自分で使ったとき、何が便利だったのか。
どの機能なら自分でも使いやすかったのか。
逆に、最初は操作方法が分かりにくかった部分についても触れた。
「こちらの機能は便利なのですが、わたくしは最初に説明書を読んだ際、少々分かりにくく感じました。慣れてしまえば問題ございませんでしたけれど、最初だけ少し迷うかもしれませんわね」
コメント欄が一瞬ざわついた。
『案件で悪いところ言うんだ』
『正直で草』
『企業大丈夫なのか』
「事前にお話ししてございますので、ご心配には及びません。良いところだけを申し上げるという条件でしたら、そもそも今回のお仕事はお受けしておりませんもの」
その言葉に、コメントの速度がさらに上がった。
『強い』
『お嬢様すぎる』
『案件選ぶ側なのか』
『初案件でそれ言えるのすごい』
玲奈は反応を見ながら、少し不思議そうに首を傾げた。
「依頼を受けるかどうかを決めるのは、双方ではございませんの? 企業様にもわたくしを選ぶ権利がございますし、わたくしにもお仕事を受けるか決める権利がございますでしょう?」
玲奈にとって、それは特別に強気な発言ではなかった。
交渉とは、本来そういうものだと思っている。
片方だけが選び、もう片方が何でも受け入れる関係なら、それは少なくとも玲奈の知る交渉ではない。
配信は大きな問題もなく進んだ。
商品について質問されれば、分かる範囲で答える。分からない仕様については無理に答えず、企業の公式情報を確認してほしいと伝える。自分の使用感と客観的な仕様を混同しないよう意識しながら、一時間ほどで初めての企業案件を終えた。
「それでは本日の配信はここまでとさせていただきます。初めてのお仕事でしたので少々緊張いたしましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました」
玲奈がそう締めくくると、コメント欄には「お疲れ様」「初案件おめでとう」という言葉が並んだ。その中に一つ、玲奈の目を止めるコメントがあった。
『セレスティアが良いって言うならちょっと気になる』
玲奈は、その文章を数秒見つめた。
嬉しい。
しかし同時に、少し怖いとも感じた。
「……皆様、一つだけお願いいたします」
配信を終えようとしていた玲奈が言葉を続けたため、コメント欄が少し落ち着いた。
「わたくしが良いと思ったからという理由だけで、必要のないものまで購入なさらないでくださいませ。わたくしに合ったものが、皆様にも同じように合うとは限りませんから」
『急に止めてきた』
『企業案件なのに買うなって言うなw』
『必要なら買えってことね』
「その通りです。ご自身に必要かどうかを考えてから決めてくださいませ。わたくしは感想を申し上げますが、皆様のお財布まで管理するつもりはございませんもの」
笑いとともに、納得するコメントが流れた。
玲奈はそれを確認してから、今度こそ配信を終了した。
画面が切り替わったあとも、先ほどのコメントが頭に残っていた。
セレスティアが良いと言うなら気になる。
それは嬉しい言葉だった。
自分の感想を信頼してもらえている証拠でもある。
しかし、その信用を使えば、視聴者へ物を買わせることもできる。
少なくとも以前よりは、その可能性がある。
玲奈は初めて、配信者として持つ力の一部分を具体的に理解した。
数日後、企業から案件終了についての連絡が届き、契約通りの報酬が支払われた。
実際の金銭管理については美咲の監督を受けながら行われる。それでも玲奈にとっては、自分の活動によって企業から得た初めての収入だった。
玲奈は金額を記録したあと、別の場所に残してある最初の百円の記録を開いた。
数字だけなら、今回の報酬の方が遥かに大きい。
それでも玲奈は、百円の記録を特別な場所から移さなかった。
最初の百円は、一人の視聴者が玲奈の言葉へ価値を感じてくれた証だった。
今回の報酬は、企業がセレスティアの活動と、その向こう側にいる視聴者との関係へ価値を認めた証だった。
同じ収入でも、意味は違う。
玲奈はその違いを面白いと思った。
そして今回、もう一つだけ学んだことがある。
「久世さん。信用というものにも、値段が付くのですね」
後日の打ち合わせで玲奈がそう言うと、直人は画面の向こうで少し考え込んだ。
「値段が付くって言い方すると、なんか売るみたいだけどな」
「実際、今回の企業様はそこにも価値を感じてくださったのでしょう?」
「まあ、そうだと思う」
「でしたら、間違ってはいないと思います。ただし――」
玲奈は一度言葉を止めた。
「値段が付くことと、売ってしまってよいことは別なのでしょうね」
直人は今度こそ黙った。
九歳の少女が口にした言葉としては妙に重かったが、玲奈自身は難しいことを言ったつもりはなかった。
金を受け取ることは好きだ。
自分の才能や仕事を安売りするつもりもない。
しかし金額を提示されたからといって、何でも売る必要はない。
自分の言葉を信じてくれる人たちとの関係まで、一度の報酬と引き換えに差し出すつもりはなかった。
その考えは、玲奈の中で一つの基準になった。
企業案件そのものを拒絶するのではない。
良いと思える商品なら紹介する。
適切な報酬も受け取る。
条件が悪ければ交渉し、納得できなければ断る。
そして仕事を受けたなら、受け取った金額に見合う仕事をする。
それから数ヶ月の間に、セレスティアのもとへ届く企業からの問い合わせは少しずつ増えていった。
玲奈は、その全てを受けなかった。
自分には必要ないと思った商品。
実際に確認できないもの。
説明を読んでも価値を理解できないもの。
条件として過剰な称賛を求められたもの。
報酬が良くても、断る案件は珍しくなかった。
一方で、自分が面白いと思ったものや、本当に使ってみたいと思ったものについては、両親と直人の確認を受けたうえで仕事を引き受けた。
断る回数が増えたからといって、企業からの連絡がなくなることはなかった。
むしろセレスティアは何でも褒めるわけではないという評判が、少しずつ視聴者の間へ定着していった。
玲奈はまだ知らなかったが、それ自体が新しい価値になり始めていた。
何を紹介しても褒める人間の「良い」より、普段から断ることのできる人間の「良い」の方が重く受け取られる。
信用を守ろうとして案件を選んだ結果、その信用がさらに企業から評価される。
玲奈にとっては、非常に興味深い循環だった。
ただし、活動が順調になる一方で、玲奈は別のところにも変化が起きていることへ気づき始めていた。
久世直人である。
セレスティアの規模が小さかった頃、直人が担当していた仕事は配信環境の構築や安全対策が中心だった。しかし視聴者が増え、企業から連絡が届き、切り抜きのルールを整備し、配信中の問題へ対応するようになると、彼の仕事は明らかに増えている。
それなのに直人は、以前とほとんど同じ金額で構わないと言い続けていた。
玲奈は、その事実を見逃さなかった。
ある日の打ち合わせで、玲奈は直人から今月分の作業内容を確認したあと、静かに尋ねた。
「久世さん。今月、わたくしのために何時間ほどお仕事をなさいましたか?」
直人は嫌な予感がしたらしく、画面越しでも分かるほど視線を逸らした。
「細かく数えてないな。別に今までと同じでいいぞ」
その返答を聞いた玲奈は、ゆっくりと目を細めた。
「久世さん。以前、わたくしが何と申し上げたか覚えていらっしゃいますか?」
「覚えてるけど、今回は俺が勝手にやってる部分も多いし――」
「でしたら、その部分も含めて整理いたしましょう。無償で続ける理由にはなりません」
玲奈の声は穏やかだった。
しかし直人は、以前にも同じようなことで叱られた経験があるため、すぐに抵抗を弱めた。
「仕事量が増えたのでしたら、報酬も見直します。必要のない作業なら減らします。必要な仕事なのであれば、その価値を決めましょう」
「玲奈の金、減るぞ?」
「必要なものへ支払うために、お金があるのでしょう?」
玲奈は当然のように答えた。
「それに、わたくしは自分の才能だけを高く売り、他人の才能だけ安く買うような人間になるつもりはございませんわ」
直人は何も言わなかった。
玲奈は続ける。
「久世さんのお仕事が必要だからお願いしております。ですから、適切な金額を受け取ってくださいませ。その代わり――受け取った金額に見合う仕事は、きちんとしていただきます」
直人は数秒黙ったあと、困ったように笑った。
「九歳に雇用観を矯正されるとは思わなかった」
「わたくしも、二十六歳を何度も説得することになるとは思っておりませんでしたわ」
二人の間に、以前より自然な笑いが生まれた。
玲奈と直人は、まだ会社を作っているわけではない。
雇用主と従業員でもない。
九歳のVTuberと、その活動を技術面から支える二十六歳のフリーランスという、少し奇妙な関係に過ぎなかった。
しかし、この頃から二人の関係は単発の依頼主と技術者ではなくなり始めていた。
玲奈が何かを思いつけば、直人が技術的に可能か判断する。
直人が危険を見つければ、玲奈が活動方針を修正する。
玲奈が直人の安売りを止め、直人は玲奈が知らない現代の技術とインターネットを支える。
互いに持っていないものを、互いの能力で補う。
後に巨大な企業群を動かすことになる二人の関係は、まだ名前すら付いていないまま、この小さな配信活動の中で少しずつ形を整えていた。
そして九歳の終わりが近づく頃、《セレスティア》の登録者数は数万人へ届こうとしていた。
最初の百円。
初めての千人。
相談室から始まった大きな拡散。
そして、初めて企業から支払われた報酬。
玲奈は一つずつ経験しながら、お金そのものだけではなく、その向こう側に存在する価値を学んでいった。
しかし次に玲奈が学ぶことになるのは、価値を作れば必ず正しく評価されるという、そんな綺麗な話ではなかった。
ある日、直人が別の仕事について電話で話しているところを偶然聞いた玲奈は、彼が数週間かけて仕上げた仕事に対して、驚くほど低い金額しか請求していないことを知る。
そして初めて、久世直人という男がなぜこれほど優秀でありながら、競馬場の片隅で一人パソコンを開いていたのか、その理由の一端へ触れることになるのだった。




