悪役令嬢の最期
王都アルヴェイン広場に設けられた処刑台から見下ろす景色は、セレスティアが幼い頃から何度も目にしてきたものとは、まるで別の場所のように思えた。
白亜の王城へと続く大通りも、貴族たちの馬車が行き交っていた石畳も、遠くに見える大聖堂の尖塔も、何一つ変わってはいない。それでも今日だけは、そのすべてが自分とは無関係な世界のものに見えていた。
セレスティア・フォン・アルヴェイン、十八歳。アルヴェイン公爵家の第一子として生まれ、この国でもっとも高貴な令嬢の一人として育てられ、そして今日、国家に対する反逆を企てた罪人として処刑される女だった。
両手には冷たい拘束具が嵌められている。それでも背筋は真っ直ぐに伸び、銀色の長い髪が風に揺れても、俯くことだけはしなかった。
広場を埋め尽くす群衆の声が聞こえてくる。罵声もあれば、面白半分の声もあり、かつて公爵令嬢として憧れの眼差しを向けてきた者たちが、今では遠慮なく彼女を悪女と呼んでいた。
不思議なことに、それほど腹は立たなかった。ここにいる人々の大半は、王家から発表された情報しか知らないのだから、それを信じること自体を責めるつもりはない。
ただ、少しだけ疲れていた。自分はいったい、何のためにここまで生きてきたのだろうと、そんな今さら考えても仕方のない疑問ばかりが頭に浮かんでいた。
セレスティアは、物心がついた頃から自由というものをほとんど知らなかった。だからといって、両親から虐げられていたわけではない。むしろアルヴェイン公爵夫妻は娘を大切にしていたし、娘の才能を誰よりも高く評価していた。
だからこそ、その才能に相応しい教育が与えられた。五歳になれば礼儀作法を学び、六歳から歴史と地理を学び、七歳には王国の法律と経済について教師から教えを受けるようになった。
八歳になる頃には外国語の授業が増え、九歳では領地経営の基礎を学び始めた。十歳になる頃には、公爵領の収支報告書を教材として読まされることさえ珍しくなかった。
もちろん、それだけではない。音楽も、美術も、舞踏も、乗馬も学んだ。王侯貴族の系譜を頭へ叩き込み、相手の爵位や立場によって適切な距離を取る社交術まで、何年もかけて身体へ染み込ませた。
十二歳になった頃には、教師から与えられた課題だけでは物足りなくなっていた。領地の収支資料を読み、問題点を見つけ、改善案を書き上げれば、それが実際の政策として採用されたことさえある。
公爵はそんな娘を誇らしげに褒めた。そして決まって、同じ言葉を口にしたものだった。
いつか王妃となるお前なら、この程度はできて当然なのだと。期待に応えることこそ、アルヴェイン公爵家の娘として生まれた自分の責務なのだと。
セレスティアも、それを疑わなかった。なぜなら七歳の頃にはすでに、この国の王太子との婚約が決められていたからだ。
未来の王妃となる者が無知であってはならない。政治を知らなければ王を支えられず、経済を知らなければ国民の生活を理解できず、外交を知らなければ他国との交渉で王国の利益を守れない。
だから学んだ。教師から百を求められれば百二十を返し、王妃教育で新しい課題を与えられれば、眠る時間を削ってでも翌朝までに理解した。
別に苦痛ばかりだったわけではない。知らないことを知るのは好きだったし、難しい問題ほど解決したときには達成感があった。
何より、周囲が喜んでくれた。父は誇らしそうに笑い、母は立派な淑女になったと褒め、教師たちはこれほど優秀な生徒を持てたことはないと言った。
婚約者である王太子も、困ったことが起きればセレスティアを頼った。外交使節を迎える晩餐会の席順から、王都で問題となった物価上昇についてまで、彼女へ意見を求めることは少なくなかった。
そのたびにセレスティアは応えた。未来の夫を支えることは、未来の王妃である自分の役目なのだから当然だと思っていた。
王太子が必要とするなら資料を集め、父が領地経営について意見を求めれば改善案を考え、母が社交界で困っていれば貴族たちの関係を整理して助言した。
自分には、それができたからだった。できる人間がやればいい。自分が少し努力するだけで誰かが助かるのなら、それを拒む理由などないと思っていた。
いつの間にか、セレスティアへ相談すれば何とかなるとまで言われるようになった。それを聞いたときには、少しだけ誇らしかったことを今でも覚えている。
けれど、今になって思えば奇妙な話だった。誰かから何を求められたのかなら、十八年間の記憶からいくらでも思い出せる。
それなのに、自分が何を欲しかったのかと問われると、驚くほど何も思い浮かばなかった。
好きな食べ物くらいなら答えられる。好きな音楽も、好みのドレスも分かる。しかし、自分が将来何をしたかったのかと問われれば、その答えはいつだって王妃になることだった。
王妃になりたかったのか。それとも、王妃になることが決まっていたから、王妃になるのだと思っていただけなのか。
その違いについて考えたことなど、これまで一度もなかった。
処刑台の上でそんなことを考えている自分がおかしくなり、セレスティアはほんのわずかに口元を緩めた。
人生の最後になって、ようやく自分の人生について考える時間ができたらしい。なんとも皮肉な話だった。
すべてが崩れ始めたのは、およそ一年前だった。一人の少女が王立学院へ入学し、王太子と知り合ったことが始まりだった。
明るく、愛嬌があり、誰とでも分け隔てなく話す少女だった。厳格な貴族社会では珍しい性格で、王太子を含め、多くの貴族子弟が彼女へ興味を持った。
セレスティア自身は、そのことを特別問題視していなかった。婚約者が誰と話そうが、節度さえ守っているなら口を挟む必要などないと思っていたからだ。
むしろ王太子から彼女の相談を受けたことさえある。平民出身で貴族社会に不慣れな少女が孤立しないよう、どの程度まで助けるべきかという相談だった。
セレスティアは必要な助言をした。それが未来の国王に必要な経験になるのなら、悪いことではないとさえ考えていた。
だが半年ほど経った頃から、奇妙な噂が流れ始めた。セレスティアがその少女を嫉妬し、陰で嫌がらせをしているという噂だった。
最初は相手にしなかった。証拠もなく、身に覚えもなく、公爵令嬢という立場を考えれば、わざわざ一人の少女へ嫌がらせをする利益さえ存在しない。
ところが噂は消えなかった。それどころか、少女の私物が壊され、階段から突き落とされかけ、最後には毒を盛られたという話にまで発展した。
そのたびに、なぜかセレスティアへ疑いが向けられた。そして調査を始めれば、自分が命令したかのように見える証拠が都合よく発見された。
筆跡を似せた手紙。公爵家と関係のある商人。金貨の受け渡しを記録した帳簿。そして王家への反逆計画を示す文書まで見つかった。
あまりにも出来すぎていた。だからこそセレスティアは、時間さえあれば必ず真相へ辿り着けると思っていた。
けれど、その時間は与えられなかった。王太子から婚約破棄を宣言され、公爵家は政治的に孤立し、セレスティア自身は王家に対する反逆を企てたとして拘束された。
裁判と呼ぶにはあまりにも短い審理だった。提出した反証の多くは退けられ、証言者たちは次々にセレスティアが首謀者だったと語った。
最後まで無実を訴えた。それでも判決は変わらず、彼女には死刑が言い渡された。
そして今、自分はここにいる。かつて王妃となるために覚えた礼儀作法など、処刑台では何の役にも立たない。
背後で処刑人が準備を進めている気配がした。それでもセレスティアは振り返らず、最後まで前を向いていた。
そのとき、処刑台の下に見覚えのある姿を見つけた。騎士たちに守られながら、あの少女がこちらを見上げていた。
王太子も近くにいる。しかし少女は彼から少し離れ、騎士へ何かを告げると、一人で処刑台の階段を上がってきた。
何をしに来たのだろう。今さら勝者として自分を笑いに来たのなら、随分と趣味の悪い女だと思った。
少女はセレスティアの前まで来ると、しばらく何も言わなかった。その表情には勝利の喜びも、罪悪感も、哀れみも浮かんでいない。
やがて彼女は、周囲には聞こえないほど小さな声で話しかけてきた。
自分を恨んでいるのかと尋ねられ、セレスティアは少し考えてから、当然でしょうと答えた。
自分は今日死ぬ。そして、その原因を作った女が目の前にいるのだから、好意を抱けという方が無理な話だった。
少女は小さく笑った。それは嘲笑というより、どこか呆れているような笑い方だった。
そして、セレスティアが生涯忘れることのできない言葉を口にした。
「あなた、本当に馬鹿な女ね。そんなに優秀なのに、一度だって自分のためにその力を使わなかったんだもの」
その瞬間、セレスティアは何も言い返せなかった。自分を陥れた女の言葉など認めたくないのに、否定するための言葉が一つも見つからなかった。
政治を学んだのは、王太子を支えるためだった。経済を学んだのは、いつか国を治める立場になるためだった。
外国語を学んだのは外交のためで、乗馬を学んだのも王族として必要だったからだ。社交術も法律も歴史も音楽も、すべて誰かから必要だと言われたから身につけた。
領地の問題を解決したときも、父が喜んだ。王太子を助けたときも、彼が必要としていたから手を貸した。
では、自分自身のために何をしたのだろう。十八年間で一度でも、自分が欲しいから何かを手に入れたことがあっただろうか。
思い出そうとしても、何も出てこなかった。それが何よりも腹立たしく、そして悔しかった。
「……最後の最後に、随分と不愉快なことを仰いますのね」
ようやく出てきた言葉は、その程度だった。少女は肩をすくめると、それ以上何も言わずに階段を下りていった。
背後から処刑人が近づいてくる。もう時間らしいと悟り、セレスティアはゆっくり目を閉じた。
怖くないと言えば嘘になる。死にたくない。まだ十八歳で、もし許されるのなら、もっと生きていたかった。
その瞬間になって初めて、自分の中から誰のためでもない願いが生まれたことに気づいた。
生きたい。それは父のためでも、母のためでも、王太子のためでも、国民のためでもなかった。
ただ、自分が生きたかった。それだけだった。
もっと早く気づいていれば、何かが変わっていただろうか。王太子との婚約を拒んでいただろうか。それとも王妃になる道を、自分自身の意思で選び直していただろうか。
答えは分からない。それでも、もしもう一度だけ人生を与えられるのなら、今度は確かめてみたかった。
自分が何を好きなのか。何が欲しいのか。どこへ行きたいのか。そして、持っている力を自分自身のために使ったなら、いったいどこまで行けるのか。
そんな都合のいい奇跡が起こるはずもない。それくらい、誰よりも現実を知っているセレスティアには分かっていた。
だから最後くらいは、自分のために願ってもいいだろう。叶わない願いなら、誰にも迷惑はかからない。
――もし次があるのなら、今度こそわたくしは、わたくしのために生きてみたい。
その願いを最後に、セレスティア・フォン・アルヴェインの十八年間の人生は終わった。
次に意識が浮かび上がったとき、最初に感じたのは身体を包み込むような温かさだった。
死後の世界というものは、こんなにも温かい場所なのだろうか。そう考えようとして、すぐに異常へ気づいた。
身体が動かない。それどころか、手足が信じられないほど小さく、指先へ力を入れようとしてもうまく動かせなかった。
目を開けても視界はぼやけている。何か大きなものが自分を抱き上げていることだけは分かった。
知らない言葉が聞こえた。いや、正確には意味を理解する余裕がないほど頭が混乱していた。
やがて視界の向こうに、一人の女性の顔が見えた。疲れ切っているのに、その女性は泣きながら笑っていた。
その隣では、見知らぬ男性まで目を赤くしている。二人とも自分を見ながら、何度も何度も何かを話していた。
状況を理解しようとしたセレスティアは、自分の口から出た声を聞いて思考を停止させた。
言葉ではない。どう考えても、生まれたばかりの赤子が上げる泣き声だった。
あり得ない。そう思っても、身体は勝手に泣き続ける。自分の意思とは関係なく肺へ空気が入り、甲高い声が部屋に響いていた。
女性が優しく自分を抱き締める。その腕の温かさを感じながら、セレスティアは混乱した頭で一つずつ状況を整理した。
小さすぎる身体。ぼやけた視界。見知らぬ男女。そして、自分自身の泣き声。
どう考えても、結論は一つしかなかった。
どうやら自分は、生まれ直したらしい。
それからしばらくして、彼女は自分が生まれ落ちた場所について少しずつ知ることになる。
アルヴェイン王国ではない。公爵家でもなければ、王族でもない。魔法も爵位も存在しない、彼女がまったく知らない世界だった。
国の名は、日本。
そして今世の父と母は、ごく普通に暮らす一組の夫婦だった。
新しく与えられた名前は、天城玲奈。
王太子との婚約など当然存在しない。未来の王妃になる義務もなく、公爵家の名誉を背負う必要もない。
生まれたばかりの玲奈には、まだこの国のことも、この時代のことも、何一つ分からなかった。
けれど、一つだけ決めていることがあった。
処刑台の上で聞いた、あの女の言葉を忘れるつもりはない。今でも思い出せば腹が立つし、できることなら二度と顔など見たくない。
それでも、あの言葉だけは正しかった。
前の人生で身につけた知識も、努力する力も、考える力も、誰かの期待に応えるためだけに使ってしまった。
ならば、今度は違う。
誰かに褒められるためではない。家のためでも、婚約者のためでも、国のためでもない。
自分が学びたいなら学ぶ。欲しいものがあるなら手に入れる。やりたいことを見つけたなら、誰かに遠慮して諦めたりはしない。
そして、自分に価値があるのなら、その価値を自分自身が一番安く扱うような真似だけは絶対にしない。
母の腕に抱かれながら、小さな玲奈はまだ言葉にもできない決意を胸の奥へ刻み込んだ。
今度の人生では、自分の才能を隠さない。自分の努力を無駄にしない。そして何より、自分の人生を誰かへ差し出したりはしない。
セレスティア・フォン・アルヴェインとしての人生は、処刑台の上で終わった。
けれど、天城玲奈としての人生は、たった今始まったばかりだった。




