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悪役令嬢になったのは……

悪役令嬢になったのは、ずっと聖女が王子に粉をかけていたから

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/04/16

 グレイシア・モルヴェンが初めて「怖い」と言われたのは、十を少し過ぎた頃だった。


 相手は年の近い令嬢で、泣いていたわけでもなければ、震えていたわけでもない。ただ、茶会の席で匙を取り落とした侍女へ向かって、その令嬢が退屈しのぎのように紅茶をかけようとした時、グレイシアが静かにその手を止めただけだった。


 止め方に乱暴さはなかった。細い手首を掴みもせず、指先で磁器の持ち手を押さえ、揺れる液面が零れないようにそっと卓へ戻しただけだ。


 そのうえで、淡々と告げた。


「その侍女に落ち度があるなら、役目を預かる者を通して咎めるべきですわ。自分より立場の弱い相手を手慰みにしてよい理由にはなりません」


 それだけのことだった。


 だが、顔を赤らめたのは紅茶をかけられかけた侍女ではなく、その令嬢の方だった。彼女は口元を強張らせ、気まずさを誤魔化すように笑ってみせたあと、席を立つ時になってから、隣の友人へ小さな声で囁いた。


「あの方、正しいことしか言わないから怖いのよ」


 たぶん、本人は聞かれていないつもりだったのだろう。だが、グレイシアの耳にはきちんと届いていた。


 正しいことしか言わないから怖い。


 それは不思議な言い分だった。間違ったことを咎められるのが不愉快なのは理解できる。人は、自分の無様を人前で突きつけられれば、誰でも気分を害する。けれど、だからといって、言われた中身が正しいかどうかとは別の話だ。そこを分けて考えるのは、彼女にとってごく自然なことだった。


 その自然さが、周囲には少しずつ「冷たさ」に見えていく。


 グレイシア自身は、その変化を幼いながらに理解していた。理解していて、それでも変えなかった。変える理由を見いだせなかったからだ。場が崩れそうなら整える。誰かが役目を放れば拾う。無礼があれば指摘し、怠慢があれば改めさせる。それは、誰かを貶めるためではなく、その場を潰さないために必要なことだった。


 モルヴェン公爵家は、武勇でも財でも名を持つ家だったが、内側は案外静かだった。両親が健在だった頃から、家の空気を大きく揺らすような声は少なかった。長女ヴァルメラはよく笑い、よく動き、よく決める女だったが、感情に任せて物を壊すことはない。次女グレイシアはさらに無駄がなく、必要なことだけを口にする。家の中で姉妹が激しく言い争うことはあっても、そこで誰かが泣き崩れたり、居場所を失ったりすることはなかった。


 ただし、それは両親が早くに亡くなるまでの話でもあった。


 喪が明けるより先に、ヴァルメラは家督を継いだ。女公爵として立つことに、ためらいはなかった。なかったが、好き好んで背負いたかったわけでもない。背負うべきものがそこにあったから立っただけで、その意味では妹とよく似ていた。


 グレイシアはその姉の背を見て育った。


 家を継いだ者が、何を切り、何を残し、誰を遠ざけ、誰をそばへ置くのか。優しさだけでは家は回らないこと。けれど厳しさだけでも、人はついてこないこと。そういうことを、教本ではなく日々の食卓と執務室の往復の中で覚えた。


 だから、王家から婚約の打診が来た時、グレイシアは驚かなかった。自分が家督を継ぐことはない。姉がすでに現当主として立っている以上、自分は外へ出て別の役割を担う側だと、ずっと前から分かっていたからだ。


 第1王子アストル・ゼルバートの婚約者。


 その言葉を最初に口にしたのは、王城からの使者ではなく、ヴァルメラだった。執務机の上に置かれた書簡を指で弾き、面倒そうに鼻を鳴らしながら、しかしどこか妹を値踏みするような目で言った。


「王家はあんたが欲しいんだって。見栄えもするし、頭も回るし、場も締まる。便利ね」


 便利とはまた、祝辞にしては素っ気ない言い方だった。


 グレイシアが肩をすくめると、ヴァルメラは笑った。


「でも間違ってないでしょう。向こうが欲しいのは、甘く微笑んで横に立つだけの花嫁じゃない。王子の横で手綱を握れる女よ。だったら、うちで出せるのはあんたしかいない」


 それは誉め言葉なのか、それとも厄介事の押し付けなのか、半々くらいの声音だった。ヴァルメラらしいと思った。


 グレイシアはその時、結局ひとつだけ確認した。


「姉上は、それで困りませんの」


「私が?」


「ええ。公爵家は」


 ヴァルメラはそこで初めて真面目な顔になった。窓辺へ歩き、庭へ続く石畳を見下ろしながら、少しだけ考える素振りを見せたあと、短く答えた。


「困らない。あんたが王家へ行くのは、家にとっても悪い話じゃない。むしろいい。こっちはもう私が握ってる。あんたは、あんたが一番厄介そうな場所へ行けばいいのよ」


「厄介そうな場所」


「そう」


 それはたぶん、王家のことだったのだろう。


 実際、間違っていなかった。


 アストル・ゼルバートは見た目だけなら、婚約者として不足のない相手だった。金の髪に整った顔立ち、王族らしい華やかさ。人前に立てばそれなりに映え、受け答えにも最低限の知性はある。文字が読めないわけではないし、書類の意味が分からないほど愚かでもない。教えられた範囲ならきちんとこなせるし、場によっては器用に愛想を使うこともできる。


 だが、そのすべてに「そこそこ」がつく。


 そこそこ賢い。そこそこ見栄えがする。そこそこ仕事もする。そこそこ物も分かる。そこそこ優しい。


 けれど、そこそこでは王になれない。


 それを、グレイシアは婚約して間もなく理解した。


 アストルは自分が王になることを疑っていなかった。疑わないこと自体は悪くない。むしろ第1王子である以上、その自覚があるのは当然だ。問題は、その自覚が責任ではなく既得権のように身についていたことだった。


 彼は王位を「継ぐもの」だと思っている。けれど、「支えるもの」だとは思っていない。王になる未来は疑わないのに、その未来へ向けて自分を鍛え上げる気配が薄い。会議には出る。文書にも目を通す。だが、それは与えられた課目を消化する学生のようなもので、国を背負う者の切迫はない。


 最初の一年で、グレイシアはずいぶん多くのことを学んだ。王城では、正しさはそのまま歓迎されるわけではないこと。指摘するだけでは不十分で、誰に、いつ、どこで言うかまで含めて整えなければ、正しい言葉すらただの不快になること。そして何より、王子という立場は、本人が思う以上に周囲を甘く腐らせること。


 アストルは悪人ではなかった。むしろ本人だけ切り取れば、そこそこ善良と呼んでもよかった。人が傷つくのは好まないし、血を見るのも得意ではない。誰かが露骨に泣けば、そちらを気遣う。無礼を働かれれば機嫌を悪くはするが、すぐに鞭を入れろと叫ぶような残酷さもない。


 だからこそ厄介だった。


 自分が残酷ではないと思っている者ほど、周囲が自分の代わりに誰かを削ることに鈍感になる。自分は手を汚していない。だから悪くない。そういう思考は、驚くほど簡単に生まれる。


 グレイシアは何度かそれを言葉にした。


「王子自ら何もしなかったとしても、王子の機嫌を取るために周囲が誰かを踏むなら、それは王子の責任でもあります」


 そのたびにアストルは露骨に嫌な顔をした。正面から言い返すことは少なく、たいていは肩をすくめて流した。


「君はいつも少し厳しすぎる」


「皆、そこまで悪気があるわけじゃない」


「もう少し柔らかく見てもいいんじゃないか」


 その「もう少し」が、どれだけ多くの曖昧を許し、後から大きな歪みになって返ってくるかを、彼はまだ知らなかった。あるいは、知ろうとしていなかった。


 だからグレイシアは止めなかった。止めてはいけないと思った。王子が見ないなら自分が見るしかない。王子が拾わないなら自分が拾うしかない。それは婚約者としての愛情というより、もはや場を壊さないための実務に近かった。


 その実務の延長で、フェミナ・ユールは現れた。


 最初に名を聞いた時、グレイシアは正直、少し拍子抜けした。聖女といえば、もっと年長で、もっと静かで、もっと張り詰めた女を想像していたからだ。だが目の前に現れたフェミナは、あまりにも軽かった。


 小柄で、柔らかく、よく笑う。声も高く、目元は丸く、驚くほど人の懐へ入るのが早い。初対面の場でさえ、彼女は「緊張しますう」と言いながらアストルの袖口に指先をかけ、それが許されるかどうかを試すように首をかしげてみせた。


 その瞬間、グレイシアは先を読んだ。


 ああ、これは駄目だ。本人がどこまで自覚しているかはともかく、この子は「許される距離」を探りながら動く。そして、許されると分かれば、その先も行く。


 隣に立っていたリオネルは、その時まだ今よりずっと小さく見えた。157cmの細い身体。けれど線は華奢というより締まっていて、肩の入り方だけ見ると兄より鍛えているのが分かる。彼はその場でフェミナを引きはがしはしなかったが、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。


 グレイシアはその視線を覚えている。


 分かっている。この子は分かっている。そう思った。


 だが、分かっていることと止められることは別だ。リオネルはまだ十六。自分の婚約者を人前で強く押し止めるには、立場も年齢も少し足りなかった。だから、フェミナのふるまいは曖昧なまま、少しずつ場へ染みていった。


 最初は些細なことからだった。


 話しかける距離が近い。笑う時に、少し体を預ける。相談があると言って、やたらと二人きりになろうとする。悲しそうな顔をしてみせて、相手が気遣ってくるまで黙る。


 それ自体を一つずつ切り取れば、罪と呼ぶほどのことではない。だから厄介なのだ。


 グレイシアは最初、やんわりと釘を刺した。


「フェミナ様。第1王子殿下への距離は、もう少しお考えになった方がよろしいですわ」


 フェミナはきょとんとして首を傾げた。


「だって、わたし、相談していただけです。距離って、そんなに変でしたか?」


「ええ。変です」


 そこまできっぱり返されるとは思っていなかったのか、フェミナは少し目を瞬いた。それから困ったように笑って、でもすぐにしゅんとした顔を作った。


「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったんです。わたし、気づかなくて」


 その「気づかなかった」が本当だとしても、本当でないとしても、結果は同じだ。気づかないまま人の婚約者へ寄るのは危うい。気づいたうえで寄るならなお悪い。


 グレイシアはそれ以上、その場では言わなかった。だが、その夜のうちにリオネルへは別口で確認を入れた。


「フェミナ様には、殿下からもお伝えになった方がよろしいのではなくて?」


 リオネルは少しだけ顔をしかめた。年齢より静かな目が、書架の影から出てきた鳥のようにこちらを見る。


「言ったよ。何度か」


「それで」


「泣かれた。兄上が可哀想だって庇った」


 グレイシアは、そこで初めて唇の端だけで笑った。可笑しいからではない。あまりにも想像どおりだったからだ。


「でしたら、次からは私も遠慮なく申し上げますわ」


 リオネルは頷いた。この少年は無駄に慰めの言葉を言わない。その代わり、見ている。見て、黙って、必要なところだけ動く。今はまだ小さい。けれど、大きくなれば侮れない。そんな印象だった。


 その後もフェミナは変わらなかった。少なくとも表面上は。


 彼女は上手かった。あからさまに媚びるのではなく、あくまで自然に、あくまで善意と弱さの側に自分を置く。「わたしが悪いんです」と言いながら泣く。でも、その涙を拭う相手はちゃんと選ぶ。少し寂しそうにしていれば、アストルは優しい顔をした。少し肩を落とせば、取り巻きの男たちが勝手に敵意を募らせる。彼女は自分で刃を振るわなくても、人を動かせることをどこかで覚えてしまっていた。


 そしてアストルは、それを「自分が守られている」ではなく、「自分が守ってやっている」つもりで受け取っていた。


 グレイシアにしてみれば、そこが一番腹立たしかった。


 守るとは、気分よく寄り添われることではない。守るとは、誰かの不安定を引き受けたうえで、その場の秩序も一緒に負うことだ。だがアストルは、泣く女に優しい顔を向けることを「度量」だと思っている節があった。


 ある日、フェミナがまた庭園の東屋でアストルの袖を掴んでいた。季節外れに風の強い午後で、彼女の淡い髪が顔にかかるたび、アストルはまるで舞台の一場面でも演じるように手を伸ばしてそれを払っていた。


 グレイシアは距離を詰めず、東屋の手前で止まった。


「第1王子殿下」


 呼ばれたアストルは、少し不快そうに眉を動かした。その反応だけで十分だった。彼はもう、注意される前から注意を嫌っている。


「どうしたの」


「そろそろお戻りになった方がよろしいでしょう。次の来客が控えております」


「分かってる。少しくらい遅れても支障はない」


「支障の有無ではなく、お立場の問題ですわ」


 そこでフェミナが、小さく身を震わせた。またその顔だ、とグレイシアは思う。叱責の矛先が自分へ向いたことを、いかにも傷ついたように受ける顔。


「ご、ごめんなさい。わたしが引き止めてしまったから……」


「フェミナ様に申し上げているのではありません」


 そう返した瞬間、空気が冷えたのが分かった。アストルの目が、はっきりと不快に曇る。


「君は少し言い方を考えた方がいい」


「必要でしたら、殿下も、という意味で申し上げますわ」


 皮肉ではない。だが、そう聞こえるのだろう。


 フェミナは唇を噛み、今にも泣きそうな顔をする。アストルはそれを見て肩の力を抜き、なだめる声色を使った。


「もういい。君は下がって」


 それはグレイシアへ向けられた言葉だった。


 グレイシアは、その時だけほんの少し沈黙した。怒ったからではない。相手がどこまで分からなくなっているのかを測ったからだ。


「下がる前に一つだけ申し上げます。殿下。人に見せる優しさと、立場を保つことは別です。どちらも出来なければ、いずれ誰かが代わりに傷みますわ」


 そう言って礼を取り、踵を返した。


 背後でフェミナが、「どうしてあんなに怖いのかしら」と震える声で漏らすのが聞こえた。アストルが、「彼女は悪気がないんだ、少し厳しいだけだ」と宥めるのも。


 厳しいだけ。


 怖いだけ。


 感じが悪いだけ。


 そうして言葉は積み重なる。正しさの中身ではなく、向けられた側の気分だけが残る。


 夜会が近づくにつれ、その空気はますます露骨になった。アストルの周囲には、兄王子の機嫌を損ねたくない長男たち、軽い次男以下、場の空気に乗る中低位の令嬢たちが集まっていく。フェミナの周囲には、少し胸元が揺れれば顔を赤くする男、笑いかけられれば何か意味があると思い込む男、そして「聖女様が可哀想」という大義名分で自分の苛立ちを外へ向けたがる男たちが集まっていく。


 令嬢は少ない。フェミナへ本気で心酔している女は、実はほとんどいなかった。いるのは、家の意向で付き合いを持たされているだけの娘たちだ。その中にフェブリナ・メディスンもいた。


 十五歳。まだ頬に幼さが残る年だが、視線だけは妙に冷静だった。聖女のそばに立っていても、心がそこにいないのが見て取れる。彼女は何度かグレイシアと視線を合わせそうになって、慌てたように外した。そのたびにグレイシアは思う。あの子は本意ではない。だが、本意でなくても立つのだろう。家がそう命じれば。


 それは責められない。責められないが、見ておく価値はある。


 夜会当日。仕立て上がった衣装をまとい、グレイシアは鏡の前で最後の飾りを留めた。肩の線に沿って落ちる深い色の布地は、彼女の長身をなおさら際立たせる。派手ではない。だが目を引く。鏡の中の女は、いつものようにきっちりしていた。感情が見えないほどではないが、わざわざ人へ預ける隙もない。


 侍女が後ろで小さく息を呑んだ。珍しいことではない。グレイシアは、黙って立っているだけで威圧感があるとよく言われる。本人にしてみれば、背筋を伸ばしているだけだ。


「旦那様がお喜びになられたでしょうね」


 ふいに侍女がそう漏らして、すぐに口をつぐんだ。両親はもういない。軽々しく出してよい名ではないと思ったのだろう。


 グレイシアは鏡の中で目を伏せた。


「父ではなく、姉が笑うかもしれませんわ。面倒そうに」


 そう答えると、侍女はほっとしたように小さく笑った。その空気の緩みが、少しだけ心地よかった。


 支度を終え、廊下へ出る。高い天井に灯りが並び、遠くからざわめきが伝わってくる。夜会が始まるのだ。


 その入口近くで、リオネルと鉢合わせた。


 本来なら、わざわざ二人きりで立ち話をするような間柄ではない。だがこのところ、妙に目が合うことが増えていた。お互い、同じものを見ているからだろう。


「今夜はすごいね」


 リオネルはまず、そう言った。衣装のことを言っているのだろう。褒め言葉としては少し簡素だが、彼らしいとも思う。


「殿下も、少しは伸びましたわね」


 そう返すと、彼は一瞬むっとして、それから小さく笑った。


「少しは、ってつける必要ある?」


「ええ。まだ少しですもの」


 この程度のやり取りができる時点で、アストルとの間にはない気楽さがあった。グレイシアはすぐにそれ以上踏み込まず、本題へ移る。


「フェミナ様は」


「さっき見た。兄上の近く」


「でしょうね」


「どうする?」


 どうする、の意味は明白だった。今夜もまた、何か起こるかもしれない。グレイシアは数瞬だけ考え、答えた。


「起きてから考えますわ。予防出来るものなら、もう少し早く出来ていたでしょうし」


 リオネルはそれに頷いた。彼もまた、今さら綺麗に収まるとは思っていないのだろう。


「兄上、たぶん気分がいい」


「そう」


「嫌な方向に」


「でしょうね」


 沈黙が落ちる。遠くで楽師の音が鳴り始めた。


 その時、リオネルがふと、グレイシアを見上げるようにして言った。


「今日、すごく怖そう」


 グレイシアは少しだけ目を細めた。


「“今日も”ではなくて?」


「今日は、かな。でも、嫌な意味じゃない」


「そういう言い方をする人、初めて聞きましたわ」


 リオネルは肩をすくめた。


「皆、言い方が雑なんだよ。怖いって」


「それはそうでしょう。怖いので」


「自分で言うんだ」


「事実ですもの。怖がらせるつもりがなくても、怖いと受け取られているなら、そうなのでしょう」


 そう言うと、リオネルは少しだけ考える顔をした。その顔が、年齢のわりに妙に大人びて見える瞬間がある。


「でも、僕はそれで助かってる」


「あら」


「兄上が見ないところ、見る人がいるのは助かる」


 その言葉に、グレイシアはわずかに息を止めた。褒められたからではない。たぶん、この子は本当に分かっているのだ、と思ったからだ。


「それだけで十分ですわ」


 短く返す。それ以上言えば、少しだけ何かがずれてしまいそうだった。


 楽の音が大きくなり、案内役の声が近づく。夜会の開場だった。


 リオネルは一歩退き、通路を空けた。


「行こうか」


「ええ」


 二人は並んで歩きはしない。それぞれ別の入り口から、別の立場で、同じ広間へ入っていく。その先に待つのが、ただの不快な夜会では済まないことを、たぶん二人とも分かっていた。


 そしてグレイシアは、胸の奥に不思議な静けさを抱いたまま、明るく開かれた広間へ足を踏み入れた。


 そこにはすでに、柔らかく笑うフェミナ・ユールと、その隣で気分よさそうに立つアストル・ゼルバートがいた。周囲には取り巻きの男たちと、曖昧な笑みを浮かべる令嬢たち。高位の者たちは、まだ何も顔に出していない。


 グレイシアはその光景を一目で見渡し、ほんのわずかに顎を引いた。


 ああ、なるほど。今夜なのね。


 そう思った時にはもう、腹は決まっていた。


 夜会の広間は、磨き上げられた床と光の加減のせいで、いつもより人の顔がよく見えた。


 鏡のように艶を持つ石床には、幾重にも吊られた灯りが落ち、その明るさが貴族たちの表情の些細な歪みまで拾い上げる。笑っているつもりでも目が笑っていない者。気遣うふりをして、実際には火の粉がどこへ飛ぶかを見ている者。何か起きると分かっていて、その瞬間を待っている者。


 グレイシアは広間へ入った時から、そういう顔をいくつも見ていた。


 柔らかい音楽が流れている。給仕が下げる銀盆が控えめな音を立てる。令息たちの笑い声は弾み、令嬢たちの扇は口元を隠しながら忙しなく動いている。表向きは華やかな夜会だった。けれど、その下に流れているものは、少しずつ冷えていた。


 フェミナ・ユールは今夜も目立っていた。


 それは聖女だからというだけではない。小柄で柔らかい体つきに淡い色の衣装がよく映え、白い肌の上で揺れる飾りが灯りを拾う。少し身じろぎするだけで、男たちの視線がそちらへ流れるのが分かった。本人もそれを知らないわけではないだろう。知らない顔で扱うのがうまいだけだ。


 アストル・ゼルバートは、その隣でいかにも気分がよさそうだった。


 彼は誰かに持ち上げられている時の顔を隠さない。頬の筋肉が少し緩み、顎がわずかに上がる。笑みは柔らかく見えても、その実、気分の良さが先に立つ。王族としての余裕ではなく、自分が場の中心にいる心地よさに浸っている顔だった。


 グレイシアはその様子を、広間へ入ってすぐに視界へ入れた。それから一度も目を逸らしていないわけではないが、どれだけ話しかけられても、頭の片隅ではずっと測っていた。


 どこで来るのか。どういう形で始めるつもりなのか。そして、どこまで周囲を巻き込むつもりなのか。


 リオネルは広間のやや奥、高位の席に近い側で静かに立っていた。今夜の彼は兄ほど華やかではない。だが、視線はよく動いていた。見えている者の目だ、とグレイシアは思う。自分と同じように、今夜の空気の薄さと歪みを測っている。


 何人かがグレイシアへ挨拶に来た。


 中には露骨に緊張した顔の若い令嬢もいたし、逆に妙に親しげな笑みを向けてくる次男坊もいた。だが、そのどれにも彼女は平坦に応じた。今さら愛想を振りまく気はなかったし、かといってあえて棘を立てる必要もない。


「今夜もお美しいですわ、グレイシア様」


「ありがとう。あなたもよくお似合いですわ」


「ご機嫌よう、グレイシア様」


「ご機嫌よう」


 そうした定型の受け答えをしている間にも、アストルの周囲には人が増えていく。呼ばれたわけでもないのに自然と寄ってくる者たち。王子の近くにいること自体が価値になると信じている顔ぶれだった。


 フェミナもまた、輪の中で上手に笑っていた。


 誰かの言葉へ少し大げさに目を丸くし、困ったように小さく笑い、時折アストルを見る。その視線が「助けてほしい」とも「分かってくれたのはあなただけ」とも読めるように出来ているのが、グレイシアには分かった。


 やがて楽の調子が少し変わり、広間のざわめきがゆるく収まり始めた。合図だった。


 グレイシアはそこで、ほんのわずかに息を吐いた。


 来る。


 その予感は、当たった。


 アストルが杯を侍従へ預け、広間の中央へ一歩進み出る。取り巻きたちがさっと道を空け、フェミナが少し遅れてその横へ寄る。周囲の声が落ちる。楽が止む。誰かが扇を閉じる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「グレイシア・モルヴェン」


 呼ばれた名に、グレイシアはゆっくりと顔を上げた。


 逃げも、驚きも、そこにはない。ただ呼ばれたから見たというだけの静かな動きだった。その反応だけで、取り巻きの何人かは少し気勢を削がれたように見えた。


「何でしょう、第1王子殿下」


 礼は取らない。だが無礼でもない。立場に応じた最低限の応答。アストルには、その整い方がまた癪に障ったのかもしれなかった。


 彼は声を張った。自分でも、それがよく通ると思っている種類の張り方だった。


「お前がフェミナへ繰り返してきた数々の非道、もはや見過ごすことはできない」


 広間に波紋が走る。


 だが高位の者たちは騒がない。ざわつくのは主に中位以下の席、あるいは王子周辺の取り巻きたちだ。予想どおりだった。


 グレイシアは黙って聞いた。


「些細なことで難癖をつけ、怯えさせた」


 アストルはそこでフェミナを見た。フェミナは怯えたように肩を竦める。あまりに分かりやすい動きだった。


「いつも高圧的に振る舞い、人前でも恥をかかせた」


 取り巻きの一人が、そうだ、とでも言いたげに頷く。


「嫉妬から執拗にきつく当たり、孤立させようとした」


 言葉が一つずつ積まれていく。だが積み方が雑だ、とグレイシアは思う。印象論ばかりで、何一つ具体に落ちていない。それでも、曖昧な悪意というのは耳触りがいい。人は細部のない非難ほど気持ちよく消費する。


 アストルはそこで、少し間を取った。たぶん、ここが最も“効く”部分だと思っているのだろう。


「挙げ句、階段で突き落とそうとしていたという証言まである」


 広間の空気がわずかに強く揺れた。


 ここだけが、他より少し重い。難癖、高圧的、嫉妬――そのあたりは受け手の気分でどうとでもなる。だが物理的な害意は、さすがに輪郭があるように聞こえる。


 グレイシアはその言葉にすら、眉一つ動かさなかった。


 逆に動いたのは、何人かの高位の視線だけだった。ほんのわずかに角度が変わる。まだ顔には出さないが、ここでようやく「中身」を測りにきたのが分かる。


 アストルはさらに満足げに声を強めた。


「証言者もいる」


 そう言って視線を巡らせると、フェミナの周囲にいた者たちが順に前へ出る。男たちは妙に義憤に燃えた顔をし、令嬢たちは扇の陰で気まずそうに目を伏せる。立たされているだけの子がいるのもすぐ分かった。


 一人目の青年は、気負ったように胸を張った。


「私も見ました。聖女様はいつも怯えておられた。グレイシア様は、必要以上にきつい物言いをなさっていた」


 二人目は、フェミナへ好意を隠す気のない顔で続く。


「聖女様はお優しいから、何もおっしゃらなかっただけです。何度も肩を震わせておられた」


 三人目は令嬢だった。顔色は悪くないが、声には熱がない。


「その……確かに、少し、お厳しすぎるとは思いましたわ」


 彼女はそれだけ言ってすぐに視線を伏せた。乗り切れていない。けれど、家の都合でそこへ立っている。そういう娘の顔だった。


 そして、少し遅れて、もう一人の令嬢が口を開いた。


 声が出るまでにほんの一拍あった。


「……ええと。聖女様は、いつも、とてもお怯えになっていたそうで……その……お気の毒でしたわ」


 言い終えるまでの間に、何度か自分の言葉へつまずきそうになっていた。直接見たと言い切らない。感情もこもっていない。それでも“聖女側の証言”としては一応成り立ってしまう、その程度の熱量。


 グレイシアはその令嬢を一度だけ見た。相手もこちらを見そうになって、慌てて視線を逸らした。


 なるほど。あの子はやはり本意ではない。


 だが、今ここで助ける必要はない。今は見ておく。


 証言が終わると、アストルは勝ち誇ったように頷いた。もう自分の手の中で形が整ったと思っている顔だった。


 グレイシアは静かに息を吸う。それから、ゆっくりと口を開いた。


「……なるほど」


 その一言が、思いのほか広間を静めた。


 アストルの眉がぴくりと動く。彼はたぶん、泣くか、言い募るか、せめて取り乱すかを少し期待していた。だが、目の前の女は淡々と立ったままだ。


「それでわざわざこの場で断罪劇を?」


 軽い、とは言わない。むしろ穏やかすぎる声音だった。だが、その一言でアストルのやっていることが「裁き」ではなく「劇」に落ちたのを、場にいる者の何人かは理解した。


「何だと」


 アストルはすぐに声を荒げた。そこに一番先に反応したのが、まさに彼の弱さだった。


「何だと、ではございませんわ。中身の薄い印象の積み上げに、最後だけ重そうな言葉を載せれば裁きに見えるとでも?」


「まだ強がるか!」


 アストルは一歩前へ出る。彼の声は広間によく響いた。だが、よく響くことと、重みがあることは別だ。


「強がっているのはどちらでしょう」


 グレイシアはそこで初めて、ほんの少しだけ冷たく笑った。目だけが冷える笑いだった。


「そのように感情の赴くまま大声をお上げになりましても、品位を損なうばかり……。王子として受けた教育で習いませんでしたの? 上に立つ者としての矜恃を持てと」


 空気がぴん、と張る。


 彼女は婚約者として咎めているのではない。王子として、上に立つ者として、失格だと言っている。


 アストルの顔が赤くなる。怒りなのか、恥なのか、本人にも区別はついていないだろう。ただ、感情で押し切ろうとしたところへ「品位」と「矜恃」を突きつけられたのが痛かったのは確かだ。


 フェミナがそこで、いかにも傷ついたように小さく息を呑んだ。グレイシアはようやく彼女へ視線を向ける。


「そんなに欲しいのでしたらどうぞお持ちになって。譲って差し上げますわよ」


 その一言が落ちた瞬間、ざわめきの質が変わった。


 欲しいなら譲る。それはつまり、奪い合う価値のある男ではなく、誰かが欲しがるなら渡して構わない程度の男だということだ。しかも“譲って差し上げる”と来た。王子であるアストルが、自分の婚約者にそう言われる。屈辱としては十分すぎる。


「貴様――」


 アストルがまた一歩踏み出しかけた、その時だった。


「君が望んでいたのが兄上の隣なら、僕との婚約は無意味だ。解消を願おう」


 声は高すぎず、低すぎず、年齢にしては妙に落ち着いていた。リオネル・ゼルバートだった。


 彼は兄のように声を張らない。ただ、よく通るようにまっすぐ言った。その一言で広間の視線が一斉にそちらへ流れる。


 フェミナの顔から、初めて“作っていない空白”が消えた。本当に想定していなかったのだろう。彼女は唇をわずかに開き、言葉を失う。


 グレイシアもまた、そこで一瞬だけ目を見開いた。


「……あら」


 小さく漏れたそれは、誰へ向けたものでもない。ただ純粋に、想定の外へ出てきたものに対する驚きだった。


 リオネルはその反応を見た。けれど顔色は変えない。ただフェミナを見ている。見下ろすでも、責めるでもなく、もう線を引いた目だった。


「君が望んでいたのが兄上の隣なら、僕との婚約は無意味だ」


 繰り返しはしない。一度言ったことで十分だと分かっているように。


 グレイシアの中で、ほんのわずかに何かが動いた。この少年は、見ていただけではない。見たうえで、いまここで、自分の言葉で切った。その事実が、彼への認識を少しだけ変える。


 だから次に口を開いた時、グレイシアの声音はほんのわずかに変わっていた。冷たさは残っている。けれど刃だけではない。


「では、ちょうどよろしいわ。私達の退場のエスコートして下さるかしら?」


 彼女はそう言って、ようやくリオネルを正面から見た。


 リオネルの方が背は低い。157cmのまだ伸びきらない体。グレイシアは172cmある。並べば普通は少し不格好に見えてもおかしくない。だが、この場ではそうならなかった。


 リオネルが差し出した手は、無理に大きく見せようともしないし、変に王子らしく気取ってもいない。ただ、きちんと相手を伴うために出された手だった。グレイシアはそれを一瞬だけ見てから、自然に取る。ほんの少しだけ、歩幅を合わせる。ほんの少しだけ、体の軸を寄せる。


 それは、アストルには一度も見せなかった寄り方だった。


 アストルの隣でのグレイシアは、いつも“支える側”だった。だが今は違う。まだ小さい少年の手を取りながら、初めて少しだけ“伴われる側”になる。


 その変化は大きくない。だからこそ、見える者にはよく見えた。


 アストルの顔が引きつる。彼はその違いに、たぶん初めて気づいた。自分は一度も、あの距離に入れていなかったのだと。


 グレイシアは振り返らずに、最後の一言を置いた。


「断罪劇もよろしいですけれど、もう少し具体を持っていらしてからにしてくださいませ。あぁ婚約破棄は承知しましたわ」


 それから彼女は、もう一度もアストルもフェミナも見なかった。


 リオネルと並んで歩き出す。高位の者たちはまだ顔を崩さない。だが視線が変わる。中低位の取り巻きたちは、自分たちが乗っていた空気が急に薄くなったことを理解し始める。フェミナは言葉を失ったまま、アストルは取り残される。


 二人が扉の向こうへ消えたあと、広間には奇妙な静寂が落ちた。


 それは勝者の沈黙ではなかった。誰もが、まだ次に何が来るかを測っている沈黙だった。


 最初にその静寂を破ったのは、低く喉の奥で鳴る笑い声だった。


 ザルク・ゼルバートである。


 王は最初、小さく肩を震わせるだけだった。だが一度堪えきれなくなると駄目だった。腹の底から笑いが込み上げたらしく、ついには広間に響くほどに笑い出した。


「っ、ふ……はは……!」


 その横で、イレーネが素早く扇を開く。王妃として口元を隠す仕草は優雅だったが、肩は隠せない。揺れている。堪えている。けれどもう危うい。


 アストルはそこで初めて、自分が思っていた空気と違うことを察したらしい。顔をしかめて、父王を見た。


「……陛下?」


 ザルクは笑いを引かせようとして、余計に喉を鳴らした。ようやく息を整え、目元に残る笑いの湿りをそのままに、息子を見た。


「お前……バカだろ?」


 その一言で、イレーネの方も限界が来た。


「ぶっ……」


 吹いたと思った次の瞬間、彼女は反射のようにザルクの腕をはたいた。


「陛下っ……!」


 だが咎める声に乗っているのは怒りではなく、堪えきれなかった笑いの名残だ。広間の空気が一気にひっくり返る。


 アストルは完全に分からなくなった顔をしていた。何が可笑しいのか。自分が断罪したはずではなかったのか。その戸惑いが、何より王の言葉を正しくしていた。


 ザルクはようやく笑いを鎮めながら、低く続けた。


「お前さ? いつから後継者と勘違いしてたんだ?」


 今度こそ、広間のざわめきは本物になった。


 だが、誰も大きな声は出さない。高位の者たちはなおも表情を崩さず、その代わりに視線だけが鋭く動いた。言葉の重みが分かる層ほど、そこで初めて反応したのだ。


 アストルは言葉を失った。フェミナは青ざめた。取り巻きたちは、自分たちが支えていた“勝ち筋”が音もなく崩れ始めたことをようやく知る。


 そして、グレイシアとリオネルはまだそれを知らないまま、広間の外を歩いていた。


 広間を出ると、夜気は思ったより冷たかった。


 扉の向こうはまだ王城の内側だというのに、あれほど人の熱と視線で満ちていた空気のあとでは、石造りの回廊に流れる静けさが別の場所のように感じられる。高い窓の外には夜の庭が広がり、月光に白く縁取られた木々が揺れていた。遠くの方で、楽の余韻だけがかすかに聞こえる。


 リオネルは手を離さなかった。強く握るわけではない。ただ、自然に切らない。グレイシアもまた、わざわざ自分から外しはしなかった。


 しばらくは二人とも何も言わなかった。


 沈黙が気まずいからではない。今さら慌てて言葉を継ぎ足す方が安っぽいと、たぶん二人とも分かっていたからだ。広間の中で起きたことは、まだ呼吸の中に残っている。アストルの声。フェミナの顔。取り巻きたちのざわめき。それらを背にして歩く足音が、妙に鮮明に響いた。


 最初に口を開いたのは、リオネルだった。


「……怒ってる?」


 グレイシアはちらと横を見た。それが何に対しての問いなのか、一瞬測る。


「どれに対してでしょう」


「全部」


 答えが妙に素直で、グレイシアは少しだけ目を細めた。


「ええ。少しは」


「少し?」


「大きく怒っている時ほど、逆に静かになりますの」


「それは知ってる」


 さらりと言われて、グレイシアは足を止めかけた。知っている。その言葉が妙に引っかかる。


「知っていらしたの」


「見てたから」


 リオネルはそれ以上飾らなかった。兄の婚約者として、王城の中でずっと場を整え、余計な火を消し、誰かの粗さを拾って回るグレイシアを、彼は想像以上に見ていたらしい。


「兄上が見ないところも、周りが見ないところも、いつも拾ってた」


「拾わないと転がるものが多すぎましたのよ」


「うん」


 肯定が早い。反論も慰めもなく、ただそれをそのまま受ける声だった。


 グレイシアはそこで、ようやく少し息を抜いた。王城の中で、説明せずに通じる相手というのは案外少ない。だから、その「うん」だけで少しだけ肩の力が抜ける。


「殿下は、ずいぶん見ていらしたのね」


「見てた。たぶん、兄上よりは」


 その言い方には、自嘲も見栄もなかった。ただ事実としてそう言っている。それがかえって年齢に似合わない落ち着きに見えた。


 回廊の角を曲がる。人気はない。侍従も女官も、今はみな広間側へ意識が向いているのだろう。二人の歩みを止める者はいなかった。


「さっきのことですけれど」


 グレイシアが口を開くと、リオネルが少しだけ背筋を伸ばした。何について言われるのか、分かっている顔だった。


「はい」


「よくおっしゃいましたわ」


 短く告げる。飾らない賞賛だった。


 リオネルは一瞬だけ目を丸くした。褒められると思っていなかったらしい。


「……そう?」


「ええ。背伸びはしていましたけれど」


「そこは付くんだ」


「付けますわ。けれど、背伸びでも口に出来る人は少ないもの」


 グレイシアはそこで初めて、彼を正面から見た。


「私は、てっきり殿下はもっと長くお黙りになるかと思っていました」


「僕もそう思ってた」


「ではなぜ?」


 問うと、リオネルは少し考えた。言い慣れていないことを言葉にする時の間だった。


「兄上があまりに気分良さそうだったから」


 答えとしては少し意外だった。だが、意味は分かる。


「気分良さそう……」


「うん。兄上、ああいう時、自分がすごく正しいことしてる顔になるから」


 グレイシアは瞬きをした。それはずいぶん容赦のない身内評だった。


 だが、身内だからこそ見えている顔でもあるのだろう。アストルが、自分の機嫌の良さを正義と勘違いしている瞬間。その滑らかで浅い顔を、弟はよく知っている。


「それに」


 リオネルは続ける。


「グレイシア嬢が、あんな顔で立ってるの、初めて見たから」


「……あんな顔?」


「怒ってるのに、もう怒るのも無駄だって決めてる顔」


 言われて、グレイシアは少しだけ視線を逸らした。そんな顔をしていたのかもしれない。自分では気づかなかったが、少なくとも彼には見えていたらしい。


「兄上があのまま気持ちよく終わるの、ちょっと違うなと思った」


「だから、解消を願ったと」


「はい」


 素直すぎるほど素直な返答だった。グレイシアはそこで、ふっと息だけで笑った。皮肉ではない。純粋に少し可笑しかったのだ。


「殿下」


「はい」


「本当に、背伸びしていらっしゃるのね」


「だめ?」


「いいえ。嫌いではありませんわ」


 その言葉が出たあと、リオネルは黙った。たぶん意味を測っている。嫌いではない。それは好意の告白ではないが、拒絶でもない。今の二人には、それで十分すぎるほどだった。


 また少し歩く。夜の空気が頬を冷やす。遠くで、広間側のざわめきが少し変わったような気もした。だがまだはっきりしない。


「それにしても」


 リオネルがぽつりと言った。


「本当に譲るんだ、って思った」


 グレイシアは眉を動かす。


「何をですの」


「兄上」


「欲しがる人間がいるのなら、どうぞと申し上げただけですわ」


「惜しくなかった?」


「惜しいと思う理由が見当たりませんもの」


 即答だった。


 リオネルはそこで妙に納得した顔をした。兄の弟として聞けば、少しは複雑になってもおかしくないのに、むしろ腑に落ちたように頷く。


「そっか」


「ええ」


「それ、兄上に一番効いただろうね」


「でしょうね」


 そこは二人とも同じ認識だった。婚約破棄そのものより、自分が譲られる側へ落とされたことの方が、アストルには痛かったはずだ。


 グレイシアは少しだけ目を伏せた。


「王位だの婚約だの以前に、人はたいてい、自分が欲しがられる側だと思っていたいものですわ」


「兄上は特にね」


「ええ。ですから、ちょうどよろしいかと」


 また、わずかに沈黙が落ちる。


 その静けさを破ったのは、少し離れた回廊の端から近づいてくる足音だった。早足だが慌てきってはいない、訓練された足音。王城の侍従だ。


 二人は同時にそちらを見た。


 現れたのは、王付きの年配侍従だった。彼は二人の姿を認めると、深く一礼した。だがその礼の角度には、どこか慣れた緊張とは別の色が混じっている。何かが起きたあとの顔だ。


「グレイシア様、リオネル殿下」


「何か」


 グレイシアが先に問う。


 侍従は一瞬だけ言葉を選んだ。それだけで十分だった。王が何かを始めたのだろう。


「陛下がお呼びです」


 やはり、と思う。だがその呼び戻しは、断罪を受けた婚約者への形式的な事情聴取ではない。侍従の顔が、そういう種類のものではないと物語っていた。


「今すぐに?」


 リオネルが問うと、侍従はごく微妙に口元を引き締めた。


「……なるべく早く、とのことです」


 その“なるべく”に、ザルクらしい雑さが滲んでいる気がして、グレイシアは少しだけ嫌な予感と別種の予感を同時に覚えた。


 王は何かを決めたのだ。しかも、おそらく勢いではない。あの男が笑ったあとに動く時は、たいてい妙に早い。


 グレイシアはリオネルを見た。彼もこちらを見ている。


「……戻りますのね」


「みたいだね」


「せっかく気分よくお話して分かり合おうと思っていたのに」


 少しだけ皮肉を込めて言うと、リオネルが小さく吹いた。


「それ、本気で言ってる?」


「半分くらいは」


「半分なんだ」


「全部だと可愛げがありませんもの」


 そう言った自分に、グレイシアは少しだけ驚いた。今の言い方は、さっきまでの広間では絶対に出なかった。王城の冷たい石壁の間を歩きながら、自分の口からそんな言葉が出ること自体が、少し奇妙だった。


 たぶん隣にいる相手のせいだ。


 リオネルはその言葉の変化に気づいたのか、何も言わずに少しだけ目元を和らげた。それがまた、年齢のわりに落ち着いた顔で、グレイシアはかえって少し面映ゆくなる。


「では参りましょう。陛下をこれ以上お待たせすると、また妙な方向へ話を進めかねませんわ」


「それはありそう」


 侍従が先に立ち、二人は元来た道を戻り始めた。今度は先ほどと違って、手を取ったままではない。けれど距離は不思議と離れなかった。歩幅も、いつの間にか自然に揃っている。


 広間が近づくにつれて、さっきまでとは違う種類の静けさが伝わってきた。人が多い場所なのに、妙に音が抑えられている。ざわめきが完全に消えたわけではない。だが誰もが、次に落ちる言葉を待っている空気だ。


 扉の前で侍従が立ち止まり、もう一度だけ頭を下げる。


「失礼いたします」


 扉が開く。


 そこに広がっていたのは、つい数刻前までの“アストルの断罪劇の場”とは、もうまるで別の広間だった。


 中央に立つアストルの顔は青ざめ、フェミナもまた白くなっている。取り巻きたちはすでに言葉を失い、さっきまでの勢いをどこかへ置いてきた顔をしていた。高位の者たちはなおも大きく顔を崩してはいないが、その視線は完全に別の方向を向いている。


 そして玉座の前には、まだ笑いの余韻をわずかに残したザルク・ゼルバートと、扇を閉じてこちらを見るイレーネ・ゼルバート。


 王は二人の姿を見るなり、口の端を上げた。


「おう。気を良くして出てったとこ悪いな」


 その一言で、グレイシアは確信した。ああ、これはもう夜会の延長ではない。ここから先は、別のものが始まる。


 彼女は一歩進み、いつも通りの角度で礼を取る前に、先に口を開いた。


「これから気分良く、お話して分かり合おうと思っていたのに。なんですの? さっきまでお黙りになっていた陛下?」


 ザルクが「ふはっ」と短く笑う。イレーネが横で、また肩を震わせそうになっているのが見えた。


「ふはっ。言うねぇ」


 ザルクはそう言ってから、まだ肩を揺らしているイレーネを一瞥した。王妃は一度扇で口元を押さえ、それからようやく息を整える。


「まー悪いようにしないから聞け」


 その言い回しだけでもう雑だった。だが、王の口から出る時は、その雑さがなぜか命令より重くなることがある。


 グレイシアは礼を深めない。ただ、問うてよいだけの視線をまっすぐ返す。


「では、うかがいますわ」


 ザルクはまず、アストルでもフェミナでもなく、グレイシアを見た。


「お前さ」


 そこで一拍置く。広間の空気がさらに薄く張る。


「王妃教育になってたの、気づいてなかったろ?」


 その言葉に、グレイシアはほんのわずかだけ眉を動かした。驚きではない。だが、即答もしない。


 ザルクは続ける。


「お前はずっと“王子妃”のつもりで動いてたんだろうけどな。あれ、最初から半分以上、王妃の仕事だったぞ」


 取り巻きたちが息を呑む。アストルは何を言われているのか一瞬理解が追いついていない顔だった。リオネルだけは静かだった。


 グレイシアはようやく口を開く。


「光栄なお言葉、と申し上げるべきでしょうか」


「いや、単純に事実だ」


 ザルクは肩をすくめた。


「場を締める。余計な火を消す。誰が腐ってて、誰なら残せるか見る。面倒なもんを拾って回して、最終的に形にする。お前がやってたの、そういうことだろ」


 そこで王は指先で肘掛けを軽く叩く。


「王子妃の範囲、ちょっと超えてんだわ」


 言い方はあまりにも軽い。だが、だからこそ飾りがない。


 グレイシアはその一言を、喉の奥でゆっくり飲み込んだ。たしかに彼女は、王子妃として必要だからと思ってやってきた。婚約者が見ないなら自分が見る。婚約者が拾わないなら自分が拾う。そうしてきた。けれど、いま王に言われて初めて、それが本当に「王子妃」の範囲だったのかと問われれば、たしかに曖昧だった。


 ザルクはその沈黙ごと受け取るように笑った。


「俺はだ、どっちでも良かったんだわ。お前がウチに来るなら」


 広間がざわつく。今度は高位の席まで含めて、完全に意味を理解したざわめきだった。


 アストルが顔を上げる。


「……父上、それは」


「うるせえ。今お前に聞いてねえ」


 ザルクは一刀で切った。そしてグレイシアへ向き直る。


「歳考えたら長男だったが、流石に雑だったのはスマン」


 謝罪は驚くほど短かった。しかし取り繕いがない。建前の謝意ではなく、本当に“雑にやった”自覚の上で言っている。


 イレーネがそこで小さく鼻を鳴らした。


「少しではなく、だいぶ雑でしたわね」


「そこは今さらだろ」


「今さらですもの、なおさら言っておきますのよ」


 夫婦のやり取りに、張りつめきっていた空気が少しだけ緩む。だが、話の芯は緩まない。


 ザルクはグレイシアを見たまま続けた。


「どうもな、うちの子らは俺らに似たのか似てないのか、変にまとまってるしな。それでいてきっちりな長女もいたが、聖女やってるしよ」


 セルディアのことだろう。正聖女として教会側にいる王女。今この場にはいないが、王の頭の中には当然入っている。


「だからせっかくできた国だし、ちゃんと回せそうなお前がいてよかったわ」


 その言葉は、妙に平熱だった。だからこそ、グレイシアの胸へ深く入った。


 褒めるための美辞ではない。美しいとか、賢いとか、気高いとか、そういう飾り言葉でもない。


 ちゃんと回せそう。


 それはあまりに実務的で、あまりに大きい評価だった。


 グレイシアは一度だけ目を伏せる。その短い沈黙のあいだに、広間は彼女の返答を待った。


「……そういう評価は、初めてですわね」


 自嘲でも皮肉でもなく、ほんの少しだけ本音が混じった声だった。


 ザルクはそこへ、何の遠慮もなく踏み込む。


「お前は次代の王妃な……」


 そこで一拍置いて、玉座の横に立つイレーネを見る。


「むしろ女王で良くね? 王妃、どう思う?」


 その雑さに、いまさら驚く者は少ない。だが内容は雑では済まなかった。


 イレーネは扇を閉じ、まっすぐグレイシアを見た。


「わたくしも異論はございませんわ」


 そして少しだけ口元を和らげる。


「少なくとも、あれの隣に置くには惜しい娘ですもの」


 あれ、でアストルを指しているのは明白だった。アストルの頬がまた赤くなる。今度は怒りより、恥の比率が大きい。


 ザルクはもう満足げに頷いていた。


「ん、だよな?」


 それから今度はリオネルへ向く。


「なら第2王子よ」


 王は顎でグレイシアを示した。


「女王に貰ってもらえ。そういう女好きだろ?」


 王の口から「女王」があまりに自然に出たせいで、広間の空気がまた一つ変わる。グレイシアはその雑な呼び方にまだ慣れていない。慣れていないからこそ、さっきより少しだけ本当に呆気に取られた顔になった。


 その顔を見て、リオネルの目がふっと柔らぐ。


「あ、女王様」


 その声に、グレイシアは反射的にそちらを見る。


「その顔、好きです」


 広間の空気が止まる。


 グレイシアは、一瞬だけ言葉を失った。断罪の場でも、王に次代を振られた瞬間でも、ここまで完全には止まらなかったのに、その一言は妙にまっすぐに刺さった。


「あ、あっ……」


 自分でも驚くほど素の声が漏れる。呼吸が一拍遅れた。それからどうにか息を継いで、リオネルを見つめ返す。


「……いいのですか? 私で」


 その問いに、リオネルは少しも迷わなかった。


「いいも何も」


 彼はそこで、ようやく年相応に少しだけ笑った。


「カッコ可愛いじゃないですか? ね、父上?」


 ザルクは即座に頷いた。


「分かりみしかねえな」


 次の瞬間、ばしん、と乾いた音が響く。イレーネの手が遠慮なくザルクの肩を叩いていた。


「陛下」


「いてえな」


「語彙が雑ですわ」


「今さらそこ?」


 そのやり取りに、何人かがかすかに息を抜く。あまりにもいつもどおりだったからだ。


 アストルはそこでようやく、声を絞り出した。


「父上……何を、勝手に……!」


 だがザルクは見もしない。


「勝手にやったのはお前だろうが」


 一言で切る。そしてようやく、フェミナの方へ視線を向けた。


 彼女は青ざめたまま、どうにかまだ“可哀想な聖女”の顔を保とうとしている。その努力がもう、かえって浅く見えた。


「聖女よ」


 ザルクが低く呼ぶ。フェミナはびくりと肩を揺らして顔を上げた。


「第1王子と共にあるなら不問に処すが?」


 その問いは単純だった。いままで上へ上へと流れてきた彼女へ、ここで初めて“ではその落ちた第1王子と本当に一緒にいるのか”を突きつけている。


 フェミナは、答えなかった。


 いや、答えられなかったのだ。目が揺れ、アストルを見て、また王を見る。その一拍。その迷いの一拍だけで、広間にいた全員へ十分な答えになった。


 アストルが、素で声を漏らす。


「えっ?」


 その情けない一音が、妙に広間へ響いた。


 ザルクは鼻で笑う。


「ほらな」


 フェミナはそこでようやく口を開いた。けれど出てきたのは決意ではなく、いつもの逃がし方だった。


「わたくしは怖かったとお伝えしただけですわ。話を聞いてもらっただけですの」


 その言葉に、ザルクの目がすっと冷える。


「身体も緩いのに頭もゆるいんだな?」


 フェミナが息を呑む。言い返せない。王はもう彼女を聖なる存在としてではなく、全部見抜いた上で切っている。


 そして今度はアストルへ。


「おい、お前どーすんだこれ? 第1王子よ、それでもこいつ欲しいか?」


 問われたアストルは、あまりにも露骨に狼狽えた。


「あ、え、はい。それはそうですが……好きですし」


 そこまでは本音だったのだろう。だが次が続かない。


「でも無理にとは……」


 その瞬間、ザルクはもう決めた顔になった。欲しがったのはお前。断罪までしたのもお前。なのに、いざ引き受けろと言われたら腰が引ける。それが全てだった。


「わかった」


 王は今度はフェミナへ向く。


「お前、王女のとこで鍛え直しな」


 セルディアのもとへ送る。その宣告だった。


 フェミナがようやく何か言い募ろうとした時、グレイシアが一歩だけ前へ出た。


「次女王よ、これでいいか?」


 ザルクがそう振る。もう完全に、その立場で見ている声だった。


 グレイシアは一度だけ息を整え、それから告げる。


「なら第1王子は元婚約者としてわたくしが決めてよろしくて?」


 広間がまた揺れる。王が裁くのではない。元婚約者である彼女自身が、処遇に口を出すと宣言しているのだ。


 ザルクは面白がるように顎をしゃくった。


「おう。聞こうじゃねえか」


 グレイシアは、ようやくアストルを正面から見た。そこに未練はない。ただ、使い道を決める目だけがある。


「我が公爵家の姉、ちょっと男勝りでして、婿がいなかったのですわ」


 アストルの顔が強張る。モルヴェン公爵家の長女、現女公爵ヴァルメラ・モルヴェンの名は、王城でも知られている。女だてらに家を握ったではなく、女だからこそ握っていると噂される種類の女だ。


 グレイシアはさらに淡々と続けた。


「見た目は先程の聖女のようですわよ。あまり大きくなく私より胸ありますもの。それでよろしくて? 元婚約者様?」


 その言い方に、広間の何人かが息を止めた。アストルの好みを見抜いたうえで、そこだけ甘く聞こえる餌を先に置く。だが、それはあくまで入口だ。


「それに少しお鍛えなさっては?」


 軽い口調。だが意味は鋭い。


「元婚約者様。厳しいけど甘いですわようちの姉」


 一拍置いて、最後の毒を落とす。


「朝ちゃんと立てるといいですわね?」


 広間に、今度は別種の沈黙が落ちた。下の意味と、早朝から叩き起こされて鍛えられる意味。その両方を含んでいるのが、聞く者には分かったからだ。


 アストルは顔を真っ赤にしていた。怒りではない。羞恥と屈辱である。


 ザルクはその案を聞いて、にやりと笑う。


「そりゃいい。な? 王妃」


 イレーネは涼しい顔で頷いた。


「ええ。それくらいの方があの子の為にはいいわね」


 それで、ほぼ決まりだった。


 だが、ザルクはそこで話を切らない。視線を広間全体へ流す。アストルとフェミナだけではない。取り巻きも、日和見も、黙って見ていた者たちも、全部含めて見る目だ。


「ま、そんなとこだな」


 王は息を吐くように言う。


「周りのヤツら。日和見はためにならんぞ?」


 その一言で、先ほどまで安全圏から眺めていた者たちの背筋が冷える。王は当事者だけを見ていない。あの場を成立させた周囲まで、ちゃんと見ていたのだ。


 そして、最後にもう一度グレイシアへ向き直る。


「こいつらの処遇は次女王に一任すっから。注文は一つだ」


 そこで少しだけ笑う。


「お前が回しやすくなるようにしろ」


 それは感情で裁けという意味ではなかった。使えるなら使え。邪魔なら外せ。基準はただ一つ、次代が回るかどうか。


 グレイシアはそこで、ほんの短く息を吐いた。


「……は?」


 一瞬だけ、素で出る。だがすぐに立て直し、目を伏せる。


「……はぁ。委細承知いたしましたわ」


 その返答に、ザルクは満足そうに頷いた。イレーネは肩の力を抜き、リオネルは静かにグレイシアの横顔を見る。


 広間の誰もが、その瞬間を見ていた。


 断罪されたはずの令嬢が、いま、処遇を任される側へ回った。王に切られたはずの場で、逆に次代の位置へ押し上げられた。


 それはざまぁでも逆転劇でもあったが、それだけではない。もっと具体で、もっと面倒で、もっと実務的なもの――ここから本当に国を回す者が決まった瞬間だった。


 ザルクは玉座から身を起こし、最後にざっくりと締める。


「早く行きてーんだわ、ダンジョン」


 広間の空気が一瞬だけ間の抜けたものになる。だが王は本気だ。


「だから早く官を掌握しろ」


 グレイシアが顔を上げる。ザルクは、その目を真正面から受けた。


「悩んだら持ってこい」


 一拍。


「自信は渡してやる」


 そして、最後に短く言う。


「だから……やれ」


 その言葉は、命令というより、押し出す力に近かった。


 広間の灯りが静かに揺れる。誰もすぐには喋らなかった。


 グレイシアは、自分の胸の内にいま何があるのか、ほんの少しだけ測ろうとした。怒りの残り、呆れ、疲労、そして理解しきれないほど大きなものを急に渡された感覚。けれど、その全部の下に、妙に静かな芯が一本通っているのも分かった。


 だから彼女は、王へ向けていつもの角度で礼を取った。


「ではそのように」


 王は笑う。王妃は頷く。リオネルは、何も言わずその横へ立つ。


 そして広間の者たちは、ようやく理解し始めていた。今夜ここで終わったのは、婚約だけではない。始まったのだ。別の形で。


 夜会の翌朝、グレイシア・モルヴェンはいつもより少しだけ早く目を覚ました。


 深く眠れたわけではない。むしろ逆だった。頭は冴えているのに、身体の奥だけが鈍く重い。昨夜の空気がまだ皮膚の上に薄く残っているようで、寝台から起き上がる時、ほんの一瞬だけ指先に力が入らなかった。


 婚約破棄。断罪劇。王の大笑い。王妃の扇。リオネルの「好きです」。そして、最後に落ちた「だから……やれ」。


 それらを思い返して、グレイシアはこめかみへ指先を当てた。


「雑ですわね……」


 誰にともなく零す。だが、その雑さが冗談では終わっていないことも、もう分かっていた。


 起きてすぐ、侍女が入ってきた。顔つきが妙に引き締まっている。寝台脇で一礼したあと、いつもならまず衣装や食事の確認から入るのに、今日は違った。


「おはようございます、グレイシア様」


「おはよう。何かしら、その顔は」


 問うと、侍女は一拍だけ口を閉ざした。それから、少しだけ視線を上げる。


「……昨夜の件で、朝一番に王城より使者が参りました」


 予想どおりだった。予想どおりだったのに、実際に言葉になると胸の奥が一つだけ重く沈む。


「何と」


「次女王執務室のご用意が整いましたので、本日よりお使いくださいとのことです」


 グレイシアは、しばらく無言で侍女を見た。冗談であってほしいとまでは思わない。だが、せめて半日くらいは寝かせるかもしれない、と昨夜のどこかで考えていた。ザルク・ゼルバートは、そういう男ではなかったらしい。


「……本当に、朝一番で?」


「はい」


「お早いこと」


「陛下は、かなりお急ぎのご様子で」


「そうでしょうね」


 グレイシアは寝台から足を下ろした。床へ触れた足裏がひやりとする。その冷たさのおかげで、妙に頭がはっきりした。


 侍女たちは手早く支度を進めた。今日は派手な色も強い意匠もいらない。昨夜とは逆だ。必要なのは見栄えではなく、座るべき席へ座る人間の線だけだった。


 濃い色のドレスは避け、だが柔らかすぎる色も使わない。動きやすく、姿勢がよく見え、余計な装飾のないもの。髪も高く盛らず、きちんとまとめる。鏡の中の女は昨日と同じ顔をしている。けれど位置だけが違う。


 グレイシアは胸元の留め具へ指を添えながら、小さく言った。


「昨夜のうちにどこまで話が通っているかしらね」


 侍女が慎重に返す。


「少なくとも、動くべき方々には」


「でしょうね」


 王が本気で何かを決めた時、城は驚くほど早く動く。それを知らない年齢ではもうなかった。


 朝食はほとんど喉を通らなかった。だが無理にでも温かい茶と薄いパンを口に入れる。空腹で官の流れを見るのは愚かだ。体調管理は感情より先に置く。そういう習慣だけは、昔から裏切らない。


 やがて迎えの侍従が来た。昨夜、広間へ戻る時に先導していたのと同じ年配の男である。彼は礼を取り、しかし今朝は昨夜よりもさらに整った角度で頭を下げた。


「グレイシア様。ご案内いたします」


「ええ」


 廊下へ出ると、王城はもう昨夜の余韻を飲み込んでいた。華やかな灯りも楽の名残もない。朝の石造りの廊下は、よく冷えて、足音だけが響く。遠くで文官が交わす声、運ばれる書類の擦れる音、侍女たちの布擦れ。この音の方が、グレイシアにはむしろ落ち着く。


 案内された先は、王妃宮に近すぎず、かといって完全に政務棟の奥へ食い込んでもいない場所だった。絶妙な位置取りだ、とグレイシアは思う。客人の部屋ではない。だがまだ王の執務そのものと正面衝突する席でもない。「次」としての位置を、既に空間ごと用意している。


 扉の前には新しい銘板が掛けられていた。


 次女王執務室


 それを見た瞬間、グレイシアはさすがに少しだけ言葉を失った。昨夜のあの男は、本当に一晩でここまでやったのか。


「……やることが本当に早いですわね」


 侍従は答えない。だが肯定の沈黙だった。


 扉が開く。


 室内は広すぎない。けれど狭くもない。机は中央より少し奥に据えられ、その背後には書棚、横手には地図と王城内の人員配置図、手前には補佐役が控えられるだけの余白がある。窓は高く、朝の光が斜めに入っていた。華美ではない。だが仕事をする部屋として、最初から必要なものだけが揃っている。


 机の上にはすでに三つの書類束が置かれていた。一つ目は王城内の現行報告系統。二つ目は滞留案件の一覧。三つ目は昨夜の夜会以降、即時判断を要する人員整理の仮案。


 グレイシアは席へつく前に、それらを一瞥した。胸の奥のざわつきが、少しずつ別のものへ変わっていく。怒りでも戸惑いでもない。馴染みのある感覚だ。


 ああ、そう。仕事ですのね。


 その認識に落ちた瞬間、頭が妙に静かになった。


 部屋にはすでに数名が控えていた。老年の文官が一人、中年の女官が一人、若い書記官が二人。皆、視線の置き方が慎重だ。まだ誰もこちらを完全には測りきれていない。それでも昨夜の件を知らない顔ではない。


 グレイシアは椅子の背へ手を置いたまま、まず部屋全体を見た。窓。机。補佐の立ち位置。出入り口。書棚。給仕の動線。そして控える者たちの顔。


「おはようございます」


 その一言だけで、部屋の空気が少し締まった。控えていた者たちが一斉に頭を下げる。


「おはようございます」


 返礼の声が揃う。悪くない。少なくとも、足並みを乱すほど緩んではいない。


 グレイシアはそこでようやく席に着いた。椅子の高さも悪くない。文机の奥行きも、書類を三列広げるのにちょうどいい。誰が選んだのか知らないが、そこそこ分かっている。


「まず、滞留案件から」


 口に出した瞬間、若い書記官がわずかに目を見開いた。祝いの言葉や形式的なやり取りから入ると思っていたのだろう。


 グレイシアは紙束を引き寄せる。


 最初の一枚に、王城北棟の修繕費再計上。次が、地方領主三家から上がっている納税猶予願い。その下に、護衛人員の再配置案。そのどれにも小さな付箋がついていて、「要判断」「保留」「前王判断待ち」と書かれている。


 前王判断待ち。その言葉に、グレイシアは唇の端をわずかに引いた。


「前王、ですのね。もうその表記になっているの?」


 老文官が一歩進み出た。


「正式な布告はこれからですが、陛下ご自身がそう書き換えろと」


「……徹底してらっしゃる」


 だが、悪くない。呼び名から先に変えるのは重要だ。言葉が遅れれば意識も遅れる。


 グレイシアは最初の書類を読み切り、二枚目を手に取る。読めば読むほど、昨夜の一件と関係ない滞りが山のように見えてきた。


 誰かが悪意を持って止めているもの。誰かが責任を取りたくなくて寝かせているもの。判断待ちのまま、ただ上へ積まれているもの。そして本来なら昨日のうちに片づいていなければならないのに、形式だけ整えて放置されたもの。


 いつもどおりだ、とグレイシアは思う。王城の仕事というのは、たいていは劇的な悪意よりも、鈍い怠慢と曖昧な責任回避で腐る。


「この北棟修繕、見積もりを切り分けたのは誰ですの」


 中年の女官が答える。


「管理局副補佐です」


「人を呼びなさい。半刻以内」


「かしこまりました」


「納税猶予願い、三家とも同じ文言ですわね。書式を回したのは?」


「財務局の下書き係かと」


「“かと”では困ります。確認して。三刻以内に系統を紙で持ってきなさい」


「承知いたしました」


 質問は短く、命令も短い。その繰り返しの中で、部屋にいた者たちの動揺が少しずつ別のものへ変わっていく。様子見ではない。この女は、本当に読むし、切るし、動かす。そういう認識へ変わり始めるのが分かった。


 しばらくして、扉が二度ノックされた。


 侍従が顔を出す。


「陛下がお見えです」


「どうぞ」


 返すと、ザルクが本当に何の遠慮もなく入ってきた。朝から妙に軽い顔をしている。その後ろにはイレーネではなく、リオネルがいた。


 王は室内を見回し、にやりとする。


「お、もう座ってんな」


「座らされたので」


「いい席だろ」


「悪くありませんわ」


「そりゃよかった」


 ザルクはまるで自分の選んだ狩場でも褒められたかのような顔をした。リオネルは部屋の様子を見て、それから机の上の滞留書類に目をやる。


「もうそこから?」


「そこから、ではなく、そこが先ですわ」


 グレイシアがそう言うと、ザルクは満足そうに鼻を鳴らした。


「そうそう。そこだ」


 そして、机の前まで歩いてきて、紙束の一番上を指先で叩く。


「どうだ。腐ってんだろ」


「ええ。思った以上に」


「だから早く行きてーんだわ、ダンジョン」


「その理由は昨日聞きました」


「じゃあ話が早い」


 王はそこで、ふっと笑みを引いた。さっきまでの軽さを残したまま、でも目だけは真っ直ぐになる。


「悩んだら持ってこい」


 グレイシアもまた、まっすぐその目を受けた。


「自信は渡してやる」


 ザルクの声は低くも高くもない。ただ、押し出す力がある。


「だから……やれ」


 昨夜と同じ言葉だ。だが今は広間ではない。拍手も視線もない部屋で、実際に机に着いた女へ向けて言っている。それだけに、重い。


 グレイシアは一瞬だけ目を閉じた。その言葉の意味を、今度は逃がさず受け取るために。


「……委細承知いたしましたわ」


 今度は「は?」も「はぁ」もない。もう席に着いたあとだからだ。


 ザルクはそれを聞くと、満足したように頷いた。そして横のリオネルを顎で示す。


「そいつは今日から外回りも噛ませる。身体張るのは向いてっからな」


「勝手に決めないでよ」


「向いてんだからいいだろ」


 リオネルが小さく息をつく。だが否定はしない。グレイシアはそれを見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。


「でしたら殿下」


「はい」


「王城内だけで完結しない案件を優先していただけますか。遅れるほど外へ波及するものから」


 リオネルはすぐに頷く。


「分かった」


「返答が早いのは助かりますわ」


「褒めてる?」


「事実を言っているだけです」


 そのやり取りに、ザルクがニヤつく。だがイレーネがいないので叩かれはしない。


 王は最後にもう一度、部屋の控えたちを見回した。その一瞥だけで、皆の背が伸びる。


「聞いたな」


 誰へ向けたとも言わずに告げる。


「こいつが回しやすいように動け。そうすりゃ国も回る」


 それだけ言って、今度こそ踵を返す。廊下へ出る直前、ザルクは振り向きもせずに言った。


「あと、祝いの言葉とかはもういいからな。仕事で祝え」


 扉が閉まる。


 室内は一瞬、妙な静けさに包まれた。その沈黙を破ったのは、意外にもリオネルだった。


「父上、最後だけ妙にかっこいいんだよね」


 グレイシアは思わず目を上げた。老文官が小さくむせそうになるのが見えた。だが、彼女は笑わなかった。笑わなかったが、口元だけが少し動く。


「普段が雑すぎるのではなくて?」


「それはそう」


 リオネルも少し笑う。その軽い呼吸のおかげで、部屋の中の張りつめがほどよく解けた。


 グレイシアは机の上の書類へ視線を戻す。


「では殿下」


「はい」


「まず外へ波及する案件を三つ。人員を借りますわよ」


「どうぞ」


「借りるのではなく、使います」


「厳しい」


「必要ですもの」


 そう返して、グレイシアは一枚目の書類へ朱を入れた。


 それが始まりだった。


 断罪劇の翌朝。婚約者だった女が泣き崩れることもなく、王の用意した席に座り、腐った流れを読み、誰を呼び、誰を切り、何を先に動かすかを決めていく。その姿を見ながら、部屋にいた者たちは少しずつ理解し始めていた。


 この女は、昨夜たまたま次に立てられたのではない。ずっと前から、その仕事をしていたのだ。名前だけが今日ついただけで。


 グレイシアは二枚目の書類を開いた。そこには昨夜の件に直接連なる名も並んでいる。取り巻き、侍従、補佐、報告を遅らせた者、見て見ぬふりをした者。


 彼女はそこへ目を落としながら、静かに言った。


「さて。まずは、どこまで腐っているのかを見せていただきましょうか」


 誰に聞かせるでもない独り言だった。だがその声だけで、室内の空気はまた少し引き締まった。


 最初に切られたのは、人ではなく流れだった。


 グレイシアは昨夜の夜会に関わった者の名を、感情でではなく、役目ごとに分けた。煽った者。乗った者。黙って見ていた者。そして、乗り切れなかった者。


 それだけのことなのに、紙の上へ落とすとずいぶん違って見えた。


 露骨に焚きつけた数名は、王城の中枢から一度外した。王子の近くに置くから質が悪くなるのではなく、近くに置いてはいけない質だから外す。理由はそれで十分だった。日和見の者たちは、罰するほどではないが、しばらく重いところへは置かない。旗色を見て立つ者は、少なくとも今の初動には邪魔だ。


 書記官が一人、恐る恐る口を挟んだ。


「そこまで替えますと、空席が増えます」


「ですので、埋めますわ」


 グレイシアは書類から目を上げずに答えた。


「空けるだけなら子どもでも出来ますもの」


 その一言で、部屋は静かになった。


 午後には、昨夜アストルの横で頷いていた令息が二人、別棟の整理役へ回された。華やかな場から外されたことに不満を見せたが、グレイシアは会わない。理由書だけを返した。判断が軽い者は、まず重さを扱わない場所で学べ。それで終わりだった。


 逆に、高位で最後まで顔に出さなかった者たちには、何もしなかった。何もしないこと自体が線引きになる。味方とは言わない。だが、今すぐ敵として扱う必要もない。そういう距離の取り方が、一番よく効く相手もいる。


 リオネルはその日の夕刻、外回りから戻るなり、机へ一枚の報告紙を置いた。


「兄上の近くにいた護衛、半分は腕より口が立つタイプだね」


 グレイシアはそれを読み、すぐ横へ分けた。


「入れ替えます」


「早いね」


「気づいた時点で遅いくらいですわ」


 リオネルは苦笑したが、否定しなかった。彼もまた、もう昨夜までの王子ではなく、運用の側へ足をかけている。


 夜会の場で怯えた顔を作っていた侍女の一人は、改めて事情を聞くと、実際には誰かに脅されたわけでも、傷つけられたわけでもなかった。ただ「聖女様がお可哀想」と何度も囁かれた結果、自分までそう思わなければならないような気分になっていたらしい。


 グレイシアは、その報告を閉じた。


「人は便利ですわね」


 隣で控えていた女官が、返答に迷う。


「どの意味でございましょう」


「泣く顔を見せれば、自分で手を汚さなくても、誰かが勝手に物語を補ってくれますもの」


 そこで紙を置く。


「ですから、次からは補わせないように」


 それは聖女の話だけではなかった。王城という場所そのものへの命令だった。


 そうして半日が過ぎた頃、若い令嬢が一人、執務室へ通された。


 十五歳。まだ肩の線に幼さが残る。けれど怯えきってはいない。怯えきれない程度には、自分が何をしたのか、何をしなかったのかを分かっている顔だった。


 彼女はきちんと礼を取ったが、指先だけが少し硬い。


「お呼びと伺いまして……」


 グレイシアは少しだけその子を見た。昨夜、聖女の側に立たされ、熱のない声で「お気の毒でしたわ」と言った娘。あの場で完全に流れに乗り切れなかった子。


 グレイシアは机の上の書類を閉じた。


「あなた、良かったわよ」


 令嬢の肩がぴくりと揺れる。


「……何が、でございましょう」


 そこでグレイシアは、ほんのわずかに笑った。


「あの棒読み?」


 令嬢は完全に固まった。褒められているのか、刺されているのか、一瞬では判断できない顔だった。その反応を見て、グレイシアは続ける。


「ああいう場で、上手に嘘をつけない子は嫌いではないの」


 しばらく、返事はなかった。やがて令嬢は、ほんの少しだけ視線を上げる。


「……では、わたくしは」


「切りませんわ」


 先に答える。


「ただし、見ます。置く場所も選びます。あなたが自分で立てる子なら、残します」


 そこで初めて、その子の喉が小さく動いた。助かった、という顔ではない。逃げられなくなった、と理解した顔だった。


 それでいい、とグレイシアは思う。恩で縛るより、見られていると知った方が、若い子は育つ。


「名前を」


 そう言うと、令嬢は今度は迷わなかった。


「フェブリナ・メディスンにございます」


「そう」


 グレイシアは頷いた。


「ではフェブリナ。明日からしばらく、こちら付きになさい」


 少女の目が、今度こそ少しだけ大きくなる。


「……はい」


「昨日までの立ち位置に未練は?」


「ございません」


「それなら結構」


 グレイシアはそこで話を切った。長く言えば、相手の逃げ道になる。今はこれで十分だった。


 フェブリナが下がったあと、リオネルが部屋の入口にもたれて言った。


「拾ったんだ」


「ええ」


「即戦力?」


「そこまではまだ。でも、あの場であそこまで下手にしか乗れなかったのなら、伸びる余地はありますわ」


 リオネルは少しだけ笑った。


「兄上の周りにはいなかったタイプだね」


「だから拾ったのです」


 グレイシアは新しい名が加わった配置表へ目を落とした。昨夜まで、誰かの婚約者として尻拭いをしていた手が、今日からは王城の流れそのものを組み替えている。


 まだ掌握したとは言えない。腐りも、反発も、これから表に出る。けれど、流れはもう変わった。


 グレイシアは筆を取り、次の紙へ朱を入れる。


「さて。次は本当に、どこまで入れ替えれば回るかですわね」


 その声は静かだった。だが、その静けさの方が、昨夜の断罪よりよほど多くのものを動かし始めていた。


 それから三日で、王城の空気は目に見えて変わった。


 劇的に、ではない。むしろ逆だった。誰かが大声で命じるでもなく、処断の札が廊下に貼り出されるでもなく、朝の報告先が変わり、昼の決裁順が変わり、夕刻に回る書類の束が細くなる。その積み重ねだけで、人はようやく「流れが変わった」と知る。


 グレイシアは、その変化をわざわざ言葉にしなかった。


 言わずとも、動けば分かる。分からない者は、いずれ外れる。そのくらいの線引きで十分だった。


 アストルの近くにいた者のうち、口数だけが多かった男は北棟の整理へ回した。表の場に立たせるには軽すぎた。笑ってごまかせると思っていた令嬢は、しばらく王妃宮の外側で記録役をさせた。紙に残る重さを知らなければ、場で口を滑らせる癖は直らない。何もしなかった高位の者には、あえて何も与えなかった。味方として抱え込むには早いし、敵として切るには雑すぎる。保留という距離が、最も効く相手もいる。


 フェブリナは黙々と覚えた。まだ声は小さい。指先も、紙をめくる時に少しだけ固い。けれど、報告系統を書き起こさせると驚くほど正確だった。人の顔色を見るより前に、紙の流れを読む子なのだろう。そういう子は使い道がある。


「そこ、名前だけで追わないで」


 グレイシアが言うと、フェブリナはすぐに書き直す。


「系統で見るのですね」


「ええ。誰が止めたかより、どこで止まる形になっているかを先に見なさい」


「はい」


 返事はまだ硬い。だが硬いままで構わなかった。柔らかくなるのは、役目を覚えたあとでいい。


 リオネルは外へ出る日が増えた。城内の入れ替えだけでは足りない。王城の外側へ波及する案件を引き受けるには、文官が動かす線と、実際に身体を運ぶ線が要る。ザルクの「そいつは身体張れるし一途だぞ」という雑な評価は、思った以上に外れていなかった。


 ある日の夕方、リオネルは護衛の再配置報告と一緒に、ひと束の嘆願書を持って戻ってきた。


「南門側、兄上付きだった護衛のうち二人、もう抜いた」


「反発は?」


「露骨には。でも顔には出てた」


「それでよろしいですわ。顔に出る程度なら、まだ分かりやすい方ですもの」


 グレイシアがそう返すと、リオネルは机の端へ腰を預けた。


「兄上の方は」


「今日、出立の日取りを決めます」


 その言葉に、彼は小さく息を吐いた。安堵とも、割り切りともつかない息だった。


「……早いね」


「遅らせる理由がありませんわ」


「そうだけど」


「むしろ、王城に長く置く方がよろしくないでしょう。ご本人にとっても、周囲にとっても」


 グレイシアは言いながら、机の上の封書を指で整えた。モルヴェン公爵領から届いた返書である。現女公爵ヴァルメラ・モルヴェンの印が押されていた。


 文面は簡潔だった。要旨だけを言えば、こうだ。


 受ける。王子であろうが何であろうが、来るなら役に立つようにする。半端な状態で寄越すなら、文句は受けない。


 いかにも姉らしいと、グレイシアは少しだけ口元を緩めた。


「姉上は何と」


 リオネルが問う。


「受けるそうですわ」


「それだけ?」


「それだけで十分ですもの」


 その短さの中に、どれだけの確定が入っているかは、グレイシアにはよく分かっていた。


 フェミナの方は、もっと早かった。セルディア側から迎えが出ると決まった時点で、王城内の空気が変わった。聖女としての保護ではない。正聖女のもとでの再教育。追放より柔らかく聞こえるが、実際には一番逃げ道がない。


 フェミナは一度だけ、グレイシアへ面会を求めた。


 通すべきかどうか迷うほどでもなかった。拒む理由も、長く会う理由もない。グレイシアは短い時間だけ許した。


 フェミナは、最初に王城で見た時よりずっと薄い色をしていた。取り繕う化粧も、首元の飾りも控えめで、かえって年相応の幼さが出ている。けれど、その幼さに同情は乗らなかった。


「何かしら」


 グレイシアが先に言うと、フェミナは一度だけ視線を伏せた。それから、ほんの少し逡巡して口を開く。


「……お時間をいただいて、申し訳ありません」


「ええ」


「その、わたくし……」


 言葉が揺れる。以前なら、ここで涙を使っただろうとグレイシアは思う。だが今のフェミナは、少なくともそれをしなかった。


「何を申し上げても、言い訳にしかならないことは分かっています」


「それは賢明ですわね」


 皮肉ではない。事実だった。フェミナはそのまま、細く息を吸う。


「それでも、一度はお詫び申し上げたくて」


「そう」


「……申し訳ありませんでした」


 短い謝罪だった。飾りも、言い逃れもない。だからこそ、グレイシアは一瞬だけ彼女の顔を見た。


 思えば、この娘はずっと、誰かに受け止めてもらう顔ばかりしてきたのだ。泣けば誰かが慰める。弱さを見せれば誰かが庇う。そういう顔で人を動かしてきた娘が、今は自分の言葉で頭を下げている。


 成長、というにはまだ早い。けれど、以前とは違う。


「私に、ですの?」


 そう問うと、フェミナはかすかに顔を上げた。


「はい」


「王へではなく」


「……王陛下にも、もちろん」


「王妃殿下にも」


「はい」


「リオネル殿下にも」


「はい」


 グレイシアはそこで初めて、少しだけ目を和らげた。


「でしたら、順番を間違えないことですわ」


 フェミナが息を止める。


「私へだけ先に頭を下げて、済んだ気にならないこと。自分が何に甘えて、誰を使って、誰へ押しつけたのか、そこを一つずつ見なさい」


「……はい」


「セルディア王女殿下は、そのあたりを見逃してくださらないでしょう」


 フェミナの肩が小さく揺れた。恐れているのだろう。だが、その恐れはたぶん無駄ではない。


「だからこそ、行く価値がありますわ」


 グレイシアはそれだけ言って、話を切った。慰めもしないし、追い打ちもしない。ここで必要以上に言葉を与える気はなかった。


 フェミナは深く礼を取った。その礼はまだ美しくはない。だが以前のような“見せるための弱さ”ではなかった。


「……失礼いたします」


「ええ。お達者で」


 去っていく背を見送りながら、グレイシアはしばらく何も言わなかった。許したわけではない。忘れる気もない。ただ、この娘もまた、置く場所を間違えたのだとようやく少し思えた。


 出立の日は、よく晴れた朝になった。


 先に王城を出たのはフェミナだった。聖女庁から迎えに来た一行は静かで、無駄な華やかさがなかった。白を基調とした衣の上に、祈りの紋様だけが細く入っている。そこに乗るフェミナも、以前のような揺れ方をしない。見送る者は少なかった。ザルクもイレーネも出ない。グレイシアも窓越しに見ただけだった。


 だから余計に、その出立ははっきりと見えた。庇われる聖女としてではなく、鍛え直される側として去っていく小さな背。それは哀れでもあり、少しだけましでもあった。


 その日の昼過ぎ、今度はアストルが呼ばれた。


 王城北側の応接間。華やかな広間ではなく、けれど私室ほど閉ざされてもいない、中途の部屋だった。ザルク、イレーネ、リオネル、グレイシア。そしてアストル。


 彼は数日のうちに少し痩せて見えた。もともと太っていたわけではないが、肩の線が曖昧になっている。眠りが浅かったのだろう。目の下にはごく薄い影が落ちていた。


 ザルクが先に口を開く。


「モルヴェンに話は通った」


 アストルの喉が動く。


「……そうですか」


「そうだ」


 短い。だが、その短さが逃げ道を減らす。


「行けるか?」


 問いかけの形をしてはいる。だが実質は確認に近い。


 アストルは少しだけ唇を噛んだ。目がグレイシアへ向きかけて、途中で逸れる。そのまま父王を見た。


「行けるか、ではなく、行くしかないのでしょう」


「そうだな」


 ザルクは否定しない。甘さを混ぜない返答だった。


「なら、行きます」


 意外に素直だ、とグレイシアは思った。もっと未練を見せるか、あるいは不満をぶつけるかと思っていた。だが、そうする気力すら削がれたのかもしれない。


 イレーネがそこで口を開く。


「勘違いしないでちょうだい。捨てるのではないわ」


 アストルが顔を上げる。


「では何です」


「置き直すのよ」


 王妃の声は穏やかだった。その穏やかさがかえって重い。


「貴方は王には向かなかった。それだけのこと。けれど、人として全部駄目だったわけではないでしょう」


 アストルは何も言わない。否定も、肯定も。


 ザルクが鼻を鳴らす。


「王やらせるより、よっぽどマシな場所だ。そう思え」


「……はい」


 その返事に、以前のような苛立ちはなかった。ただ、納得しきれないまま飲み込んでいる響きだけがある。


 グレイシアはそこで初めて、アストルへ視線を向けた。もはや婚約者を見る目ではない。それでも、最後に一つくらいは言うべきだろうと思った。


「姉上は、厳しいけれど甘い方ですわ」


 アストルの目が動く。その言葉を覚えていたらしい。あの夜の続きだと分かったのだろう。


「役に立てば、それを見ます。逃げれば、その分きちんと詰めます」


「……脅しですか」


「いいえ」


 グレイシアは首を振る。


「案内です」


 アストルはそこで、ほんの一瞬だけ苦笑に近いものを浮かべた。苦いが、以前のように気分で笑う顔ではない。


「君は最後までそうなんだな」


「何がですの」


「正しいことだけ言う」


 昔なら、それを責める響きで言っただろう。だが今の彼には、少しだけ別の色が混じっていた。諦めと、呆れと、たぶん少しの理解。


 グレイシアは答えない。答える必要がないと思ったからだ。


 代わりにリオネルが口を挟んだ。


「兄上」


 アストルがそちらを見る。


「何だ」


「向こうでちゃんと立って」


 その一言に、ザルクがむせかけた。イレーネが即座に扇で口元を隠す。グレイシアは瞬きだけをして、声は出さなかった。


 アストルは一瞬だけ呆気に取られ、それから顔をしかめる。


「お前な……」


「朝も夜も、って意味だけど」


「分かってる!」


 そこまで返してから、自分で耳まで赤くなる。その反応に、部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。


 ザルクは笑いを飲み込みながら、最後に言う。


「まあいい。行ってこい」


 それは追放の声ではなかった。捨てる声でもない。不器用な父親が、息子を別の場所へ送り出す声だった。


 アストルは立ち上がる。それから一度だけ、グレイシアへ向き直った。


「……すまなかった、と今さら言っても遅いんだろうな」


 グレイシアはその顔を見た。ようやく、そういう顔も出来るのか、と少しだけ思う。


「ええ。遅いですわ」


 はっきり告げる。


 だがそこで切らず、続けた。


「ただ、遅くても言わないよりはましです」


 アストルは小さく頷いた。それで十分だった。


 その日のうちに、彼は王城を出た。同行は最低限。華やかな見送りもない。王都を出て、モルヴェン公爵領へ向かう馬車の後ろ姿を、グレイシアは自室の窓から見た。


 遠ざかる車輪の跡が石畳の先で小さく揺れ、やがて見えなくなる。


 その背を見送りながら、グレイシアは胸の内にあるものを探った。痛快さだけではない。もちろん情でもない。ただ、長く絡みついていた一本の糸がようやく切れ、同時に別の場所で結び直されていくのを見ているような感覚だった。


「終わりましたわね」


 背後で、リオネルの声がした。


 いつの間にか入ってきていたらしい。彼は勝手に近づきすぎることはしない。だから気づかなかったこと自体が、不快ではなかった。


「ええ」


「寂しい?」


「そういう類ではありませんわ」


「そっか」


 リオネルは窓の外を一度だけ見た。それから、視線を戻す。


「でも、やっとだね」


 その言葉に、グレイシアは少しだけ目を細める。


「そうですわね。やっと、です」


 それは婚約が切れたことだけを指してはいない。王子と聖女が去ったことだけでもない。ようやく、本当に動かせるところまで来た、という意味だった。


 窓の外では、王城の旗が風を受けていた。高く、静かに、迷いなく。


 アストルの馬車が見えなくなってから、王城の空気はまた一段変わった。


 大きな声も、派手な見せしめもなかった。だが、あの日まで「いつか第1王子が継ぐのだろう」と曖昧に共有されていた前提は、もう誰の口からも自然には出なくなっていた。人は、明確に否定された物語には思ったより早く寄りかからなくなる。


 その代わり、別の前提が静かに置かれていく。


 朝一番に回る報告は、ザルクの執務室だけでなく、グレイシアの机にも届くようになった。人事と財務の補佐官は、言葉を選びながらも、次第に彼女へ先に問いを持ってくるようになる。古くから王に仕えてきた者ほど、その変化への反応は早かった。王が何を渡し、何を手放すつもりなのかを、彼らは空気で知る。


 逆に、遅かったのは城に新しく入り込んできた顔ぶれの方だった。王の雑な言葉を気まぐれだと思い、まだどこかで「最後には収まるだろう」と見ている者もいた。そういう者の名は、グレイシアの机の右端に積んだ薄い束へ静かに移されていく。


 グレイシアはそれを焦って片づけなかった。


 急いで切れば、切られたことだけが印象に残る。だが、使わず、呼ばず、決裁に近づけず、気づけば席がなくなっていた、という形にすれば、次に来る者たちはよく学ぶ。


 王城で最も効く処分は、たいてい追放ではなく、不在だった。


 その日の午後、ザルクは珍しく自分の執務室ではなく、王城の西棟にある小さな会議室を使った。集められたのは、主要な文官と武官、財務、王妃宮、各局の長。数としては多くない。だが、その部屋にいる顔ぶれだけで、王国の骨格がほとんど見える程度には重い。


 グレイシアは、ザルクの左手側、ほんの半歩だけ後ろに立った。正面ではない。だが、傍聴でもない。その立ち位置を見ただけで、集まった者たちの視線が一度だけ動く。


 ザルクは会議の冒頭、いつものような前置きをしなかった。


「隠居する」


 それだけを言った。


 沈黙が落ちる。さすがに誰も即座には動けなかった。


 ザルクはその沈黙を待たない。むしろ、反応が鈍いことに少しだけ呆れたように鼻を鳴らす。


「老いたからじゃねえ。まだ動ける。剣も振れるし、ダンジョンも潜れる。だが、作った国を握り続けるのは、作ることとは別だ」


 その声は広間で笑っていた時よりずっと低かった。雑さは残っている。だが、芯に刃がある。


「続ける側がいるなら渡す。今それが一番いい。だからそうする」


 そこで初めて、ザルクは半歩横へ退くようにして、グレイシアの姿がよく見える角度を作った。


「次を立てる」


 誰を、とは言わない。だが、もう言ったも同然だった。


 部屋の端で、年長の財務長がゆっくりと頭を下げた。それが合図になったように、他の者たちも順に礼を取る。反論は出ない。出せないのではなく、少なくともこの場では出す理屈がなかった。


 王が老いて判断を誤ったのではない。王が今なお明晰で、その上で渡すと決めた。その事実が一番重い。


 形式の調整や布告文の文言は、そのあとでようやく話し合われた。王位継承ではなく、王位移譲。王は退くが、死でも病でもない。だから文面ひとつで、王の衰えと読む者が出てはならない。


 グレイシアはほとんど口を挟まなかった。必要がないからだ。いま言うべきは「自分がどうしたいか」ではなく、「どう書けば国が揺れないか」だった。そこは古い文官たちに働かせた方が早い。


 ただ、一箇所だけ訂正した。


「譲位理由に“御身の安寧”は不要ですわ」


 布告案を読み上げていた書記官が顔を上げる。


「ですが、一般には」


「不要です」


 グレイシアは書面のその行を指先で押さえた。


「陛下が休まねばならぬほど弱ったと読める文は、いりません。渡すから渡す。それで結構です」


 部屋がしんとする。ザルクはそこで、目に見えて機嫌を良くした。


「ほらな」


 誰に向けたのか分からない一言だった。だが、それを聞いた文官たちは、もはやこの女へ回す言葉を選び違えてはならないと理解しただろう。


 布告は三日後に出た。


 都の中にそれが広がるのは早かった。驚きはもちろんあった。建国王が自ら退くなど、王国の歴史にまだ前例がない。だが、騒乱にはならなかった。すでに王城内で報告と決裁の流れが変わり始めていたこと、ザルクがあえて隠れるのではなく、堂々と表へ出て「渡す」と言ったことが大きかった。


 そして何より、グレイシアがその間も変わらず机に座り続けていたことが効いた。


 布告の翌日、彼女の机には祝いの品と、様子見の書状と、媚びの混じった挨拶が山ほど届いた。グレイシアはそのうち三分の一を開かずに脇へ積み、残りの半分をフェブリナへ回した。


「分類なさい」


 フェブリナは慌てて抱え込む。


「どのように」


「読む価値のあるもの、あるふりをしているもの、今後距離を取るべきもの。まず三つ」


「……はい」


 少女はまだ迷いながらも、もう「分かりません」とは言わない。分からないなら分からないなりに仕分け、後で正されればいいと知り始めている。


 リオネルはその山を見て、露骨に眉をしかめた。


「うわ」


「ええ。うわ、ですわ」


「全部返す?」


「全部返したら、それはそれで仕事を増やすだけです」


 グレイシアは一通を開き、流し読みしながら続けた。


「黙って受け取るもの、返書だけで済ませるもの、今後使うために覚えておくもの。分けるだけです」


「すごいね」


「そうでもありませんわ。城とはこういうところでしょう」


 リオネルは机の端に指先で触れた。


「僕はまだ慣れない」


「慣れなくてよろしいのです」


 グレイシアはそこで一度だけ彼を見る。


「殿下が全部こちらへ来てしまったら、それこそ私が困りますもの」


「じゃあ、ちゃんと外をやるよ」


「ええ。お願いしますわ」


 その返答が自然に出たことに、二人とも少しだけ黙った。頼む。お願いする。その言葉が、いつの間にか婚約の前提なしで交わせるようになっている。


 即位の日は、晴れた。


 空が高く、風は強くない。旗がきれいに見える日だった。王城の正面広場には、貴族だけでなく、城下からも見られるだけの者が集まった。整列した兵、各局の代表、外務の使者、教会側の者たち。豪奢ではあるが、無駄に長く引き延ばした式ではない。ザルクがそういうものを嫌った。


 玉座の間は、あの日の夜会とは違う静けさに満ちていた。笑いもざわめきもなく、ただ視線だけがまっすぐ集まる。


 ザルクは王として最後に立つには、あまりにもザルクらしい顔をしていた。悲壮でもなければ、名残惜しげでもない。むしろ、ようやく荷を次に渡せる男の顔だった。


 イレーネはその横で、王妃としての姿を崩さない。だが近くで見れば、指先の力が少しだけ強い。やはりまったく平気というわけではないのだろう。


 グレイシアは呼ばれ、階を上がった。衣装は深い色を選んだが、重たすぎる装飾はつけていない。光を集めるためではなく、視線を受け止めるための装いだった。


 歩きながら、彼女は不思議なくらい静かだった。怖れがないわけではない。だがそれは足を止める種類のものではない。もっと手前の、深いところで落ち着いている。


 ザルクは彼女が前に立つと、わずかに口の端を上げた。


「思ったよりいい顔してるな」


「陛下こそ、楽しそうですわ」


「楽しみでもなきゃやってられん」


 そのやり取りに、何人かがかすかに息を抜く。あまりにもいつもどおりだったからだ。


 ザルクはそこで、正式な言葉を告げた。王位を移し、この国の次を託すこと。守るべきものは家名ではなく、回し続けることそのものであること。自分が作った国を、次に渡すことを恥とも敗北とも思わないこと。


 飾りの少ない言葉だった。だが、余計なものがないぶん重かった。


 グレイシアはそれを正面から受けた。誓いの文言も、必要最小限だった。


 国を守る。人を置き、流れを整え、止まるべきものを止め、動くべきものを動かす。自分の機嫌ではなく、国の運びで裁く。そういう意味の言葉を、彼女は一つずつ口にする。


 声は揺れなかった。


 そのあと、形式が整い、礼が続き、名が呼ばれる。玉座の前で膝を折る者たちの列は長い。その中には、あの夜、高位の席で顔を動かさなかった者たちもいた。いま彼らは、感情ではなく正式な秩序として、次を認めて頭を垂れる。


 リオネルがその横へ並ぶ時だけ、グレイシアはほんの少しだけ視線を動かした。


 彼はまだ以前のような小ささを残している。だが、隣に立った時の空気はもう違った。兄の影ではない。自分で切り、自分でここまで来た者の立ち方だ。


 式が終わったあとも、祝宴は必要最小限に抑えられた。ザルクが「飲んで終わりにすんな」と言ったからだ。その代わり、翌朝からの報告線が整えられ、印章が正式に切り替わり、王妃宮と政務棟の通路管理まで入れ替えられた。


 即位して終わり、ではない。即位した次の日に何がどこへ回るか。そこまでがザルクにとっての「渡す」だった。


 そしてグレイシアにとっては、そこからが本番だった。


 即位から一月ほどで、王城はようやく「新しい流れ」に慣れ始めた。


 慣れる、というのは、人が感動しなくなることではない。いちいち驚かずとも、朝に書類を持っていく先が分かり、判断の速さを前提に動けるようになることだ。


 財務長は、もはや最初からグレイシアの机へ必要な数字だけを抜き出して持ってくる。北棟へ回した軽い令息の一人は、そこできっちり記録を叩き込まれ、口数が減った。フェブリナはようやく、書面に触れる手つきが落ち着いた。リオネルは外へ出る回数が増え、その分だけ帰ってきた時の報告が短くなった。短い報告は、理解が進んだ証拠でもある。


 ある日の夕刻、グレイシアは窓際の机で決裁印を押し終え、ようやく肩を回した。外はもう薄暗い。城下の灯りがひとつずつ浮かび始めている。


 扉が二度ノックされ、リオネルが入ってきた。今日も外から戻ったばかりらしく、肩にまだ外気の匂いを乗せている。


「終わった?」


「一応は」


「一応なんだ」


「仕事に終わりはありませんわ」


 そう返すと、彼は小さく笑った。


「女王っぽい」


「今さらですの?」


「今さらだね」


 彼は机の端へ一枚の紙を置いた。南方の物流線についての簡潔な報告だ。書かれていることは短いが、必要なことは全部入っている。


 グレイシアはそれを一目で読み、頷いた。


「助かります」


「それは褒めてる?」


「ええ」


 今日はちゃんと認めると、リオネルは満足そうに息を抜いた。


 その様子を見て、グレイシアはふと、自分が少し笑っていることに気づく。大きな笑いではない。ただ、口元がやわらいでいる。


 それをリオネルは見逃さなかった。


「その顔」


「何ですの」


「やっぱり好き」


 また、まっすぐに言う。慣れたようでいて、まだ少し胸が跳ねる。


 グレイシアは椅子の背へ体重を預け、わざと冷たく返した。


「職務中ですわ」


「うん。知ってる」


「知っていて言うのね」


「知ってるから言う」


 その返しに、もう言い負かす気は失せる。たぶん最初から、こういうところで負けるのだろうと思う。


 窓の外では、王城の灯りが静かに増えていく。城は回っている。人も、書類も、呼吸も。


 グレイシアは机の上の紙束を見て、それからその横に立つ男を見る。


 断罪劇から始まったものは、もう別の形へ変わっていた。派手な逆転ではない。ただ、置くべきところへ置き直され、ようやく流れが整い始めたというだけのこと。


 その「だけのこと」を成し遂げるのに、どれだけ多くの手と判断が要るのかを、彼女はよく知っている。


「……明日も早いですわよ」


「じゃあ今日はちゃんと寝る」


「本当に?」


「たぶん」


「信用できませんわね」


「じゃあ見張ってて」


 軽口は軽いまま落ちる。けれど、それでよかった。


 王位は移り、王は退き、城は新しい主の呼吸を覚え始める。その中心に座りながら、グレイシアはようやく思った。


 悪くない。


 少なくとも、あの夜会の広間で終わらせるよりは、ずっといい。

 ……やりすぎました。


 最初は「テンプレっぽく組んだらどうなるかな」くらいの気持ちで始めたのですが、気づいたら全然そんな話ではなくなっていました。

 主犯はザルクです。

 あいつが本編だけで済まず、後日談や他者視点まで湧かせるくらい暴れました。

 ここ数日、ほぼ全リソースがこの話に持っていかれていて、他に書いている話が全然進められないくらいには大変でした。


 しかも、後日談まで入れると五万六千字程度。

 削っても38000字超え。

 短編とは……? となっています。


 ただ、そのくらい大きくなったのは、この話が単なる断罪やざまぁで終わるより、置き直されるべきものが置き直されていく話として転がった方がしっくり来たからでもありました。

 結果的には、最初に考えていた以上の話になったなと思います。


 読んでいただけているようであれば、後日談や他者視点も出してみてもいいかなと思っています。

 まだ少し、この話の中で動いている人たちがいるので。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
>「だからせっかくできた国だし、ちゃんと回せそうなお前がいてよかったわ」 これで物語の軸が一気に現国王:ザルク陛下に移ったのだから、導入だけ“悪役令嬢もの”でザルク陛下の周りについて綴った紀伝体の歴史…
王様、王族の割に言葉遣いがやたらとフランクで雑だな?と思っていましたが、途中のダンジョンに行きたい発言で納得しましたw なるほど冒険大好き豪傑王様w 婚約破棄でシゴデキヒロインの婚約者が元王太子から弟…
7万文字まで書けるのだから、その範囲内なら短編です。 国王・王妃の一言一言が格好いいですね。
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