第3話「じいちゃん、保育園に通いたいと言い出す」
退院して三日目。
桜井善朗は、ちゃぶ台の前で正座していた。
目の前には、退院祝いにと近所からもらったプリン。
スプーンを片手にしたまま、じっとそれを見つめる。
(プリン……)
子どものころ、買ってもらえなかった憧れのスイーツ。
孤児院では数が足りず、「年下に譲りなさい」で終わった黄色い宝石。
(プリン食べたい)
『食べてくださいよ』
頭の中に、例の声が落ちてきた。
「……神様」
『どうも、アフターサービス中の神です。なに迷ってるんですか、プリンですよ。善です』
「プリンは善ですか」
『プリンは善です。カルシウムもありますし』
「では、いただきます」
一口。
善朗の目から、すっと涙がこぼれた。
「……おいしいですな」
『でしょ』
(八十年かかって、ようやくプリン一つで泣く男になりましたよ)
自分で自分に苦笑しながら、ふと、胸の奥からもう一つの感情が浮かぶ。
(プリンもそうですが……)
善朗はスプーンを置き、ぽつりと呟いた。
「保育園に、通ってみたかったですなぁ」
『……うん?』
「私がいた施設には、保育園という立派なものはありませんで。世話する人も少なくて、遊びも勉強も、いつの間にか“年上だから我慢しなさい”で終わっていましたから」
絵本を読んでもらう側ではなく、読んであげる側だった。
遊具で遊ぶより先に、押し合う子どもたちをなだめる役だった。
「お昼寝の時間に、堂々と昼寝してみたかったですなぁ」
『……』
「運動会で、本気で走ってみたかったですなぁ」
『……』
「お弁当をお友達と分け合ってみたかったですなぁ」
『……』
「保育園、通ってもいいですかね?」
『聞くんだそこちゃんと!?』
神様のツッコミが空間も経由せずに突き刺さる。
『いやいや、気持ちは分かるんですけどね!? あの、あなた、見た目フルおじいちゃんですよ?』
「中身は0歳スタートと聞きましたが」
『概念の話であって、現実世界の保育園は概念で運営されてないんですよ』
「そうですか……」
ほんの少し肩を落とす。
『……まあ、行くだけ行ってみたらどうです?』
「よろしいのですか」
『“通わせろ”じゃなくて、“どう関われるか”を考える感じで。ルールは守りましょうね? あなた、変な意味で突撃しないでくださいよ。ニュースになりますからね』
「ニュースにはなりたくないですな」
『それはそう』
数時間後、市役所・子ども家庭課。
「——えっと……。もう一度、保育園に通いたい?」
担当職員の女性が、書類から顔を上げて固まった。
目の前には、背筋の伸びた白髪の老人。
健康そのものの声で、丁寧に頭を下げている。
「はい。私、桜井善朗と申します。子どものころ、保育園というものにご縁がなくてですな。一度、体験してみたいなと」
「……体験、ですか?」
「はい。できましたら、朝の体操からお昼寝までフルコースで」
職員はペンを持ったまま停止した。
「ええと、桜井さんは……おいくつでしょう?」
「見た目の話をしますと、八十くらいですかな」
「見た目の話じゃない年齢ってあります?」
「概念的には0歳スタートでして」
「概念的にはって何?」
隣のデスクから別の職員がそっと覗く。
「……あの、桜井さん。もしかして、高齢者の方と子どもたちの交流事業とか、ボランティア的な?」
「ああ、それも楽しそうですね。しかし、できれば“通う側”として」
「通う側」
「はい、“じいちゃん園児”といいますか」
沈黙。
次の瞬間、職員たちは視線を交わす。
「……交流事業のモデルケースとして、試験的に、一園だけ調整してみましょうか?」
「おいマジか」「いやでもこの人、なんか真剣だし……」「悪い人には見えないですよね」
最終的に、課長が眼鏡を押し上げて言った。
「桜井さん。正式な“園児”としては難しいですが、“高齢者と子どもの世代間交流モデル事業”として、一日保育体験の場を設けるのは可能かもしれません」
「おお……!」
「ただし、あくまで“子どもたちと一緒に遊んでくれるおじいちゃん”という建前です。保護者や園の了承も必要です」
「建前があるだけありがたいですな。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる善朗。
『ちゃんと正面突破してる……偉い……』
頭の中で神が拍手していた。
数日後、とある保育園。
「本日から来てくださる、“よしろうおじいちゃん”です〜。みんな仲良くしてね〜」
「よろしくお願いします」
園児たちの前で、善朗が深々と頭を下げる。
名札には「さくらい よしろう」とひらがなで書かれている。
スモックも着ている。サイズはギリギリだ。
「おじいちゃんだー!」
「おひげー!」
「しろくまさんみたい!」
子どもたちが一斉に群がる。
「よしろうちゃん! よしろうちゃんって呼んでいい?」
「もちろん。ちゃん付けはお友達の証ですからな」
保育士たちは少し離れたところで見守りながら、ひそひそ話をしていた。
「本当に来たね……“通いたいおじいちゃん”……」
「でも、優しそうだし、子どもたち懐いてるし、いいんじゃない?」
「さっき園庭で逆立ちしてましたけど」
「体力どうなってるのあの人」
この日の活動。
朝の体操、善朗は園児よりキレキレ。
お絵描き、クレヨンを握って真剣に「プリン」を描いていた。
「よしろうちゃんの、まるがおいしそう〜」「これは三段プリンです」
お昼寝、合図から十秒で爆睡。一番先に寝た。
そして迎えの時間。
「今日どうだった?」と迎えに来た保護者に、園児たちが口々に言う。
「きょうね、よしろうちゃんがね!」
「さかだちとんできた!」
「え、誰? 新しい戦隊ヒーロー?」
保育士は笑って説明する。
「世代間交流の一環で、“よしろうおじいちゃん”に来てもらっているんです。とても良い方ですよ」
その横で、善朗は子どもたちに囲まれながら、心の中でそっと呟いていた。
(……こういう場所だったのですな)
守られる子どもがいて、見守る大人がいて、一緒に笑う時間がある場所。
(来てみたかった。本当に)
胸が少し熱くなる。
『いいでしょ?』
神の声が、どこか得意げに響いた。
『ね、桜井さん。今度は——譲らなくていいんですよ』
「そうですな」
小さく笑って、善朗は、帰り際の子どもに言う。
「また、一緒に遊びましょうな」
「うん! よしろうちゃん、あしたもくる?」
「お願いしてみますよ」
——こうして、「じいちゃん園児」桜井善朗の第二の人生が、本格的に動き出した。
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