第1話「譲るおじいちゃんと神様の手違い」
八十年、人のためだけに生きてきた男がいた。
名前は桜井義朗。近所では「さくらいさん」。本人は「わしで十分」。
肩書きは——特にない。強いて言うなら、習慣でできた善行装置である。
(本人にその気はまったくない)
この朝も、彼は一日の最初の譲渡業務をこなしていた。
駅前の横断歩道。信号が点滅を始める。
「お先にどうぞ」
学生を通し、ベビーカーを押す母を通し、犬を散歩させるおじさんを通し、最後に信号が赤になった。
(——いや、じいさんも渡れ)
彼は満足げにうなずき、青になるのを待った。
次の譲渡現場はバス停である。
行列の先頭にいた彼は、後ろを振り返って言った。
「お急ぎの方はどうぞ」
会社員が二人乗った。
「病院へ行かれる方はどうぞ」
ご高齢の方が三人乗った。
「では私は次で」
バスのドアが閉まった。
(——いや、乗れ)
次の便でも彼は譲り、三便目でようやく運転手に乗車を促され、頭を下げて乗った。座席はすべて埋まっている。
「若い方が座ってください」
(——だから席がない)
商店街のパン屋では、新発売の“生クリーム山脈”が行列を作っていた。
「先にどうぞ」
彼が十人ほど通したあたりで、張り紙が出る。
《生クリーム山脈、本日分終了》
彼は嬉しそうに言った。
「食べ物は若い人の糧ですから」
(——じいさんも食べていい)
正午。市役所の人から電話がかかってくる。
『桜井さん、施設の件ですが——』
「私は大丈夫です。他に困っている人がいらっしゃるでしょう」
『ですが、お一人暮らしですし——』
「いえ、私はひとりではありませんよ」
『え?』
「町が一緒です」
(——詩的だが、独居だ)
午後、隣のアパートの若夫婦が引っ越しの荷造りをしていた。
「手伝います」
彼は段ボールを三つ積む。さらに米袋を一つ。さらに観葉植物。
「さすがに重いですよ!」
「人は持てるぶんだけ持てます」
(——その理屈は危険)
階段を一段、二段、三段——そこで彼は一度立ち止まった。
息が上がっている。心臓が、少し忙しい。
それでも彼は笑った。
「若い時分なら五つは持てたものです」
「充分です!ほんとに!」
彼はうなずき、一段ずつ、段ボールに声をかけるみたいにゆっくり降りた。無事に下り切った。若夫婦が礼を言う。彼は首を振る。
「それじゃあお元気で」
その帰り道、彼は公園のベンチに座って、水を一口飲んだ。
空はきれいで、鳩は自由で、子どもの瞳が輝く。彼らの未来は無限だった。
彼は自分の八十年を思い返す。
思えば、恋をしていた時間もあった。相手は笑ってくれた。けれど、彼が誰かに席を譲ってばかりいるのを見て、「あなた自身にも座ってほしい」と言って去っていった。
悔いは——不思議とない。座らなかった自分が、今ここにいるからだ。
(——でも、たまには座っても良かった)
ベンチから立ち上がる。
大通りの信号が青になった。彼は歩き出す。
向こう側に、杖をついた老人がいる。自分より少し若い。
彼は歩幅を速めた。
「お手伝いしましょう」
差し出した手の先で、世界が一瞬だけ遠ざかった。
体が軽くなる、というより、重さの存在を思い出せなくなる。
踏み出すはずの足は、まだ地面にいた。心臓は——少し驚いて、少し休みたがっていた。
彼は倒れた。
通りがざわめき、誰かが叫び、誰かが駆け寄る。
「救急車!」
「意識は!?」
彼は、薄く目を開けて口元だけで笑った。
「——大丈夫です。私より困っている方が——」
(——いまは困っているのは、あなた)
空はさっきよりずっと白い。
音がほどけていく。
彼は、不思議な静けさに包まれながら、いつものように思う。
——ああ、今日もいい日だった。
次に目を開けたとき、彼の前に立っていたのは——
桜井善朗は、自分が倒れていることをはっきりと自覚していた。
喧噪は遠く、誰かの叫び声も、サイレンの音も、薄くなっていく。
体の感覚は抜け落ちていくのに、不思議と「終わる」という恐怖はなかった。
(ああ……ここまでか)
そう思った瞬間、八十年分の出来事が、一斉に並び始める。
孤児として生き、恩師に拾われた日のこと。
「神様は見ている」と笑った皺だらけの手。
初任給を丸ごと寄付して、同僚に本気で止められたこと。
騙されたこと、利用されたこと、感謝されたこと、感謝されなかったこと。
人に譲った椅子、列、チャンス、好意、全部。
(悪くなかったな)
胸の内に、静かな満足があった。
(後悔がないといえば、嘘になる)
たとえば、あのとき告白していれば、とか。
たとえば、一度くらい贅沢してもよかったんじゃないか、とか。
たとえば、「いえいえ私なんて」と言う前に、「ありがとうございます」と言ってもよかった、とか。
それでも。
(やれることは、やった。走れるだけは、走った)
それだけは、胸を張って言えた。
(じゃあ、いいか。……これで)
すっと、何かを受け入れるように、彼は目を閉じた。
次に目を開けると、そこは真っ白だった。
床も壁も空もない。世界そのものが「背景」として手を抜いたみたいな、無地の空間。
善朗は、まず自分の手を見た。透けている。
たぶんこれは、生きていない。
「お目覚めですね」
声がした。
振り向くと、そこに「神様っぽい何か」が立っていた。
白いローブ、金の輪、柔らかい微笑。教科書で見たようなテンプレである。
ただし、手にはマグカップを持ち、「神」と描かれたマグでコーヒーをすするのは、だいぶ俗っぽい。
「桜井善朗さん。お疲れさまでした」
「……はあ。ありがとうございます?」
「いえいえ。こちらこそ。いや、本当に、よく働きましたね。びっくりしましたよ。途中で何度か、『あ、これ試練の趣旨伝わってるかな?』って心配になったくらいで」
「試練?」
「ええ。あなたの人生、けっこうな高難度モードでしたから」
善朗は、少し考えてから、納得したようにうなずいた。
「なるほど。そうでしたか。……まあ、確かに、楽ではありませんでしたな」
「すみませんねえ、うちの担当が若手で。盛りすぎちゃって。あれでも途中でだいぶナーフ入れたんですよ? でもなんででしょうね。なぜかあなたは難易度が上がるルートばっかり選んじゃって……」
神は軽く咳払いした。
「って、ともあれ。あなたは、他人のために生きて、他人に譲って、譲って、譲って。普通なら途中で拗ねたり、恨んだり、投げ出したり、ちょっとは『自分の分』を取り返しに行ったりするものなんですが」
「そうですか?」
「そうです。あなたみたいなの、稀です。ちょっと引くレベルで」
「……引かれましたか」
「若干」
善朗は苦笑した。神に苦笑されるのは、なかなか新鮮だった。
「ですが」
神は表情を引き締めた。
「だからこそ、あなたには“報酬”を用意しました」
「報酬、ですか」
「はい。転生権です」
善朗は目を瞬いた。
「転生……ですか。あれですかな、若者向けアニメで最近流行りの?」
「最近、と言うのもどうかと思いますが、そうです。別の世界で、別の人生。健康な身体、才能、若さ、美貌、チート。セットでどうぞ、みたいなやつです」
さらっと危険なことを言う神である。
「……それは、その。ありがたい話ではありますが」
「譲らないでくださいね」
ぴしっと、指を立てて釘を刺される。
「え?」
「他の人に譲ろうとしましたね、今。ダメです。これはあなたの分。あなたの人生に対する、正当な見返りです。この権利は、誰にも譲れない。あなた専用です」
「しかし、その……私より大変な方も——」
「いますけど。今回はあなたです。順番待ちでもありません。抽選でもありません。あなたが受け取る番なのです。文句は……そうですね、うちの若手に言ってください」
「若手、優秀ですね……」
「いや、あなたの人生ハードモードにした犯人ですが?」
「いえいえ。おかげで、いい人生でした」
それは、嘘ではなかった。
神は、その言葉に少しだけ目を細めると、ふっと優しい笑みを見せた。
「では、改めて。桜井善朗さん。別世界で、新たな人生を歩んでみませんか? 今度は、あなたがあなたのために生きる番です」
善朗は、しばらく黙って考えた。
譲るなと言われている。
これは誰かに押しつける種類のものでもない。
恩師の言葉が、ふと浮かぶ。
(『善いことをしなさい。見返りがなくとも』……か)
ここで断れば、それはそれで筋が通るのかもしれない。
だが今、目の前で「これはあなたの分だ」と差し出されているものを、反射で避けるのも、少し違う気がした。
「……では、ありがたく。もう一度、生きてみましょうか」
「はい、喜んで!」
神はノリのいい居酒屋の店員のような返事をして、後ろの透明パネルを操作し始めた。
「それでは、“若くて健康で人気もあって、そこそこモテて、でも性格は今のまま誠実で、才能もいろいろ盛っておきましたコース”に——」
「あの、そんなに盛らなくても」
「サービスですサービス。途中でまた譲りそうだから、多少はね。では、送信っと」
カチッ。
押された。
「おや?」
神が眉をひそめた。
「……?」
「ちょっとお待ちを。えーと、これがこうで、ルートが……あれ?」
「神様?」
「いや、大丈夫大丈夫。たまにあるんですよ、こっちの世界線の仕様がですね……」
善朗は、その説明が「たまにある」で済まされていいのか疑問に思いつつも、体がふわりと落ちていく感覚に身を任せた。
(さて。どんな世界でしょうな)
期待と不安と、ほんの少しのくすぐったさを胸に抱いて——
——目を開けると、見慣れた天井があった。
白い。薄い消毒液の匂い。機械音。
病院。日本。知っている文明。
彼は上体を起こそうとして、驚いた。
軽い。
八十年使ったはずの身体とは思えないほど、関節が滑らかに動く。視界もくっきり。耳もよく聞こえる。
善朗は自分の手を見る。
しわしわだった。
どう見ても、しっかり「おじいちゃんの手」だった。
「…………あれ?」
ベッド脇の鏡に目をやる。そこに映っていたのは——健康そのものの、血色のいい、白髪の老人。
桜井善朗、そのまんま。
「……神様?」
天井を見上げて呼びかける。
返事はない。が、その代わりに、遠くから小さな声がした気がした。
『あ、やべ』
どうやら神様は、少しだけ手違いをしたらしい。
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