【プロローグ】 君の声を、もう一度。
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雨の音が、小さな病室の窓を叩いていた。
その日も外は灰色の空で、春花の気持ちもどこか重たかった。
白く塗られた壁と、無機質な天井。
ベッドの脇には点滴の機械が規則正しく音を刻んでいる。
「……また、雨」
春花はぽつりとつぶやいた。
まだ六歳。大人たちの話す病名も、これからのことも、よくは分からない。ただ、「しばらくここにいなきゃいけない」ということだけが、心に重くのしかかっていた。
お父さんもお母さんも優しかったけれど、毎日付き添ってくれるわけではなかった。
朝が来て、日が暮れて、夜が来る。
繰り返される時間の中で、春花は少しずつ、笑顔を失っていった。
そんなある日。
病室の扉がノックされ、見慣れない少年が顔を覗かせた。
黒髪で、少しぶっきらぼうな顔つきの男の子。春花より少し年上か同い年に見えた。
「えっと……看護師さんにここで待っててって言われた。今日はここで時間つぶすんだって」
そう言って、男の子は窓際の椅子に腰を下ろした。
どうやら、同じフロアで入院している男の子らしい。
「……お名前、教えて?」
春花が少し緊張しながら尋ねると、男の子は頭をかきながら答えた。
「青斗...青斗って言うんだ!そっちは?」
「...春花…です」
青斗は「ふーん」と言って、それきり黙ってしまった。
話が終わってしまったのかと思って、春花も視線を落とす。
けれど——
「暇なら、絵本読むか? 看護師さんにもらった」
そう言って、青斗はバッグからくたびれた絵本を取り出した。
その表紙を見て、春花の目が輝いた。
「それ……! 前にお母さんに読んでもらったことある!」
「じゃあ、読んでやるよ」
ぶっきらぼうな口調だったけど、ページを開いた青斗の声は思いのほかやさしかった。
——しずかな森の、ちいさなきつね。
——おともだちがいなくて、毎日さみしくて。
少し舌足らずで、つっかえながら読むその声が、病室の空気を少しだけ明るくした。
春花は、ページの絵よりも、その声をじっと聞いていた。
心の中の、どこか冷たい場所に、小さな灯がともるような気がしていた。
それから、青斗は何度か病室を訪れるようになった。
特別に仲良くしようとしたわけじゃなかった。
けれど、春花は彼の存在を「待つ」ようになった。
——今日は、来るかな。
——また、絵本、読んでくれるかな。
そう思えるだけで、朝が少し楽しみになった。
ある日、春花の体調が少しよかった午後のこと。
青斗がやってきて、何やら手に紙を持っていた。
「これ、描いた」
差し出されたのは、クレヨンで描かれた絵。
青空の下で、ふたりの子どもが手をつないでいる。
「……これ、わたし?」
「たぶん。それっぽく描いた。白い髪、長かったから」
春花は笑った。
声に出して笑ったのは、いつぶりだろう。
青斗は、ちょっと照れたように目をそらす。
「元気になったら、ほんとの空の下で遊ぼうな。俺、外の公園に秘密基地みたいなの作ってるんだ。そこ、連れてってやる」
「うん、行きたい!」
「じゃあ、約束な」
青斗は、小指を差し出した。
春花も、小さな小指を絡める。
「やくそく……」
その瞬間、春花は初めて「未来」を想像できた。
明日じゃなくて、「その先」に何かが待っていると信じられた。
——けれど、それは突然、終わりを告げる。
ある朝、春花が目を覚ますと、病室の空気がいつもと違っていた。
看護師さんが静かに言った。
「青斗くん、退院したのよ。昨日のうちにね」
「……うそ」
声が震えた。
ちゃんと「また来るね」とも言わなかった。
何も言わずに、いなくなってしまった。
春花は、その日一日、窓の外ばかり見ていた。
でも、誰も来なかった。
それから数年。
春花は回復し、病院を出て、別の町へ引っ越した。
あの男の子の名前——青斗。
その名を心の奥にしまいながら、思い出すたびに、胸が痛くなる。
夢の中で何度も会った。
白い病室。絵本の声。笑った顔。
でも現実には、名前以外、何も知らなかった。
彼は、本当にいたのだろうか。
それとも、夢がつくり出した“あたたかい幻”だったのか。
——そう思っていた。ずっと、あの日までは。
高校の教室。窓際の席の少年。
まっすぐな視線。
どこか懐かしい声。
「青斗……くん?」
その名前を、無意識に口にした瞬間。
止まっていた時間が、再び音を立てて動き出した。
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