第9話:さらば令和、夜を裂く雷
令和の世にも、すっかり馴染んでいた。気のいい友、カイトとの暮らし。武士の誉れを見出した『うーばー』の務め。そして、扉の向こうの「姫君」との、ささやかな心の交流。失われた故郷への懐かしさは消えぬものの、橘清十郎は、この時代で生きていく覚悟を決め始めていた。この不思議で、しかし温かい絆を、守っていきたい。そう思い始めていた。
運命の夜は、突然やってきた。空は墨を流したように黒く、遠くで雷鳴が轟いている。激しい嵐の前触れであった。
その時、懐の辞令書がけたたましく鳴った。表示されたのは、姫君の部屋からであった。こんな嵐の夜に、いつもの時間でもない。胸騒ぎがした。それは注文というより、まるで助けを求める狼煙のように思えた。
『――助けて』
辞令書のメッセージ欄に、ただ一言、そう記されていた。
「姫君!」
清十郎は雨合羽を掴むと、カイトの制止も聞かずに部屋を飛び出した。外は、すでに暴風雨が吹き荒れている。鉄馬にまたがり、ペダルを力の限り踏み込んだ。
道を急ぐ途中、見覚えのある数人の若者たちが、行く手を塞ぐように現れた。先日、雨中の決闘で負かした、あの配達員の仲間たちであった。
「よう、サムライもどき。この間の礼をしに来たぜ」
下卑た笑いを浮かべ、鉄パイプを手にしている。だが、清十郎に彼らを相手にしている時間はなかった。
「どけ。私用ではない。務めの最中だ」
冷たく言い放つが、チンピラたちは聞く耳を持たない。一人が、鉄パイプを振りかざして襲いかかってきた。
清十郎は鉄馬から飛び降りると、相手が振り下ろしたパイプを紙一重でかわし、その腕を掴んで投げ飛ばした。剣術で培った体さばきは、素手の戦いにおいても十分すぎるほど通用した。あっという間に数人を打ちのめし、呆然とする残りの者たちを尻目に、再び鉄馬に飛び乗った。
姫君の住むタワーマンションに辿り着き、震える手でインターホンを鳴らす。幸い、扉はすぐに開いた。
「姫君! ご無事か!」
扉の隙間から見えた少女の顔は、涙と恐怖に濡れていた。部屋の外から、何者かが激しく扉を叩き、罵声を浴びせていたらしい。おそらく、別れた恋人か何かの、卑劣な嫌がらせであろう。清十郎の鬼気迫る姿を見て、その何者かは逃げ去ったようだった。
「もう大丈夫でございます。拙者が、お守りいたします」
清十郎がそう告げると、少女は堰を切ったように泣きながら、何度も「ありがとう」と繰り返した。その安堵した顔を見て、清十郎の心にも、温かいものが込み上げてきた。この少女を守れた。この時代に来た意味が、一つ、あったのかもしれない。
安堵した、まさにその時だった。
――ピカッ!!
夜空を真昼のように引き裂き、凄まじい閃光が窓を白く染め上げた。直後、建物を揺るがすほどの、耳をつんざく轟音が響き渡る。マンションの避雷針に、雷が落ちたのだ。
「うぐっ……!?」
清十郎の身体を、激烈な衝撃が貫いた。懐に忍ばせていた辞令書が、まるで雷を吸い寄せるかのように、異常なほどのまばゆい光を放ち始めた。
「清十郎さんっ!」「……さんっ!」
カイトの声が、どこか遠くから聞こえた気がした。そして、扉の隙間から聞こえる姫君の悲痛な叫び声。その声が、ぐにゃりと歪み、急速に遠のいていく。視界が白く塗りつぶされ、体が宙に浮くような、あの桜田門外での感覚が蘇る。
ああ、またか。また、己は、この温かい場所から引き剥がされるのか。
だが、今度の心には、無念はなかった。カイトへの感謝。姫君への安堵。そして、この不可思議な時代で出会った、全てのささやかな幸せへの感謝。
「……かたじけない」
令和の世への感謝を胸に、橘清十郎の意識は、再び、深く、静かな闇へと消えていった。