第8話: 孤独な姫君
務めを重ねるうちに、清十郎は奇妙な事実に気づき始めた。特定の部屋番号から、決まって同じ時間に、同じような料理の注文が入るのだ。配達先は、彼が「城」と呼ぶタワーマンションの一室。しかし、何度配達しても、扉がわずかに開くだけで、客の顔を見たことがなかった。いつも扉の隙間から、か細い、少女のような声で「ありがとうございます」と聞こえ、白い手が伸びてきて商品を受け取るだけだった。
その声と、決して姿を見せようとしない様子から、清十郎は彼女が何らかの事情で部屋に籠っているのだと察した。病か、あるいは、心の傷か。理由は分からない。だが、その閉ざされた扉の向こう側にいる孤独な存在を、彼はいつしか心の中で「姫君」と呼ぶようになっていた。
城に幽閉された、孤独な姫君。ならば、己は彼女に食事を届ける、一人の使い番に過ぎぬが、せめて武士として、何かできることはないか。
ある日、いつものように姫君の部屋に食事を届けた際、清十郎は思い切って声をかけた。
「姫君。……失礼、お客様。本日の江戸……いえ、東京は快晴にございます。窓の外をご覧になれば、心地よき風が感じられましょうぞ」
扉の隙間の向こう側で、息を呑む気配がした。
「……ありがとうございます」
しばし沈黙の後、いつもより少しだけ震えた声が返ってきた。
それからというもの、清十郎は配達のたびに、不器用ながらも姫君に言葉をかけるようになった。
「本日は、近所の公園で桜が満開との由。見事な景色でありましょう」「夕食の香りが、街に満ちております。食は、元気の源にございます」
それは、時候の挨拶のような、他愛もない言葉だった。だが、彼の言葉には、汚れのない誠実さがこもっていた。彼は決して姫君の事情を詮索したり、無理に外へ誘ったりはしなかった。ただ、扉の向こうにある世界の美しさや、ささやかな日常の営みを、静かに伝え続けた。
変化は、少しずつ現れた。初めは戸惑うばかりであった姫君の声に、次第に微かな感情が乗るようになった。
「……桜、ですか。昔、見に行ったことがあります」「……今日の、おすすめのメニューとか、ありますか?」
ある時は、扉の隙間から、くすり、と小さな笑い声が聞こえたこともあった。清十郎にとって、その小さな変化が、どんな高評価よりも嬉しい「誉れ」となった。
カイトにこの話をすると、彼は「それ、ひきこもりってやつじゃないかな。清十郎さん、すごいことしてるよ」と感心したように言った。
「ひきこもり?」
「うん。色んな理由で、部屋から出られなくなっちゃう子のこと。でも、誰かと繋がっていたいんだよ、きっと。清十郎さんの配達が、その子にとって、外の世界との大事な繋がりになってるんだ」
カイトの言葉に、清十郎は己の務めの新たな意味を見出した。食事を届けることは、命を繋ぐこと。そして、言葉を届けることは、心を繋ぐこと。なんと尊い務めであろうか。
扉一枚を隔てた、顔も知らぬ少女との、奇妙な交流。それは、江戸の武士と令和の少女という、決して交わるはずのなかった二人の間に芽生えた、不思議な絆であった。
清十郎は、姫君がいつか自らの力でその扉を開け、陽の光の下を歩ける日が来ることを、心から願うようになっていた。己がこの時代に留まる限り、そのささやかな願いを支え続けよう。そう、固く心に誓うのだった。