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第7話: 鉄馬駆る者の決闘

その夜は、空に穴が開いたかのような土砂降りであった。黒いアスファルトは水を吸って鈍い光を放ち、車のヘッドライトが雨粒を黄金色の矢のようにきらめかせる。このような悪天候の日は、『うーばー』の務めは過酷を極めるが、同時に注文はひっきりなしに入り、稼ぎ時でもあった。


清十郎は、カイトから借りた雨合羽を身にまとい、鉄馬を駆っていた。雨水が顔を打ち、視界は悪い。だが、彼の心は不思議と高揚していた。困難な状況であればあるほど、武士の魂は燃え上がる。


「よし、次はこの城か」

辞令書に表示された地図を確認し、最短経路を脳内で描く。江戸の地理には明るかったが、この未来の入り組んだ道も、数ヶ月の務めですっかり頭に入っていた。

角を曲がろうとした、その時だった。


「うおっ! 危ねぇな!」

猛スピードで背後から迫ってきた別の鉄馬が、すれすれで清十郎を追い抜いていった。相手も同じ『うーばー』の配達員らしく、巨大な黒い鞄を背負っている。しかし、その運転は乱暴極まりなく、水たまりの泥水を清十郎に跳ね上げていった。


「貴様、無礼であろう!」

思わず声を荒らげた清十郎に、男は振り返り、唾を吐き捨てるように言った。

「あ? 遅えんだよ、邪魔くせえ。どけよ、サムライもどき!」

男はそう言い放つと、ニヤリと汚い笑みを浮かべ、再び加速して闇に消えていった。おそらく、この界隈を縄張りにしている、素行の悪い配達員なのだろう。


清十郎の腹の底で、何かが静かに煮えくり返った。「サムライもどき」という言葉が、彼のプライドに火をつけた。武士を侮辱する者は、たとえ相手が誰であろうと許すわけにはいかぬ。そして何より、あの男の走りは、道を、そして務めを冒涜している。

偶然にも、次の配達先が男と同じ方角であることを確認した清十郎の目に、闘志の炎が宿った。


「よかろう。どちらが真の『駆る者』か、勝負と行こうではないか」

それは、まぎれもなく「一騎討ち」の申し出であった。相手に声は届かなくとも、彼の魂がそう告げていた。

清十郎は、ぐっと深く腰を落とし、鉄馬の柄を握りしめた。踏み金に力を込める。雨に濡れた黒鉄の馬が、主の気迫に応えるように、静かに、しかし力強く前へ進み出た。


男の背中が、次の信号で赤く光る尾灯となって見えた。追いついた清十郎が真横に並ぶと、男は「まだいたのかよ、しつけえな」と顔をしかめる。

信号が青に変わった瞬間、二台の鉄馬は同時に飛び出した。男は力任せに踏み金を漕ぎ、直線で差をつけようとする。だが、清十郎は違う。彼は、ただ闇雲に力を込めない。呼吸を整え、体幹を安定させ、最小限の力で最大の推進力を得る。それは、長年の剣術の稽古で培われた、力の使い方そのものであった。


勝負を決したのは、狭い路地が連続する近道だった。男が大回りする交差点を、清十郎は歩道橋の脇にある急な階段を鉄馬ごと担ぎ上げて越えていく。常人ならば躊躇するような荒業も、鍛え抜かれた彼にとっては造作もないことであった。

そして、最後の直角の曲がり角。雨で滑りやすくなった路面で、男がスピードを落としたその一瞬。清十郎は、まるで流れる水のように、鉄馬の車体を極限まで傾けた。剣術における「転身」の動き。体の軸をずらし、遠心力を利用して曲がる、神業的な体さばきであった。


男が驚きに目を見開く横を、清十郎の鉄馬は滑るように駆け抜けていった。

先に目的地であるマンションの前に到着したのは、清十郎だった。やや遅れて、ぜえぜえと息を切らせながら男が追いついてくる。


「ば、馬鹿な……なんで、てめえが……」

清十郎は鉄馬から静かに降り立つと、男を一瞥し、静かに告げた。

「速さとは、力の誇示にあらず。務めを、いかに滞りなく、そして美しく果たすかにある。道を侮るな、若造」

その言葉には、二百数十年の時を超えても変わらぬ、武士としての哲学が込められていた。男は何も言い返せず、ただ呆然と立ち尽くすばかりであった。


清十郎は男に背を向け、客の待つ部屋へと向かう。雨は、いつの間にか小降りになっていた。彼は令和の路上に、剣の代わりに鉄馬を駆る、新たな「武士の戦場」を見出した。そして、その戦場で、己はまだ戦えるのだという確かな手応えを感じていた。

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