第3話:カイトとの出会い
未来の世に放り出されて、はや三日が過ぎた。清十郎は、公園とやら呼ばれる草木の多い一角を寝ぐらとしていた。昼は人目を忍び、夜は寒さをこらえる。腹は常に鳴り、脇差「村正」だけが、己が何者であるかをかろうじて繋ぎとめる最後のよすがであった。しかし、その武士としての誇りも、もはや風前の灯火であった。
「腹が……減った……」
もはや、体面を取り繕う気力もない。江戸の民の暮らしを初めて身をもって知った。いや、残飯を漁る野良犬の方が、まだましやもしれぬ。そう自嘲した時だった。
「あの、大丈夫っすか?」
不意に、頭上から間の抜けた声が降ってきた。見上げると、鳥の巣のように髪を逆立てた、人の良さそうな顔の若者が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。年の頃は、二十歳前後か。
清十郎は警戒し、柄に手をかけた。だが、若者は慌てて両手を振り、にこりと笑った。
「いや、なんかスゲー本格的なコスプレだなーって。腹、減ってるんすよね? よかったら、これ」
そう言って差し出されたのは、海苔で黒く巻かれた、白い握り飯であった。
「……施しは、受けぬ」
かろうじて、武士の意地が口をついて出た。だが、腹の虫はぐぅ、と情けない音を立てる。若者は苦笑し、握り飯を清十郎の傍らにそっと置いた。
「コスプレにも金かかるっしょ。俺、佐藤カイト。歴史好きなフリーター。あんたみたいな人に会うと、なんかテンション上がっちゃって」
カイトと名乗る若者は、悪びれもせず隣に腰を下ろした。彼は清十郎を「こすぷれいやー」なる、芝居役者のようなものと勘違いしているらしい。その勘違いが、かえって清十郎の頑なな心をわずかに解きほぐした。
目の前の握り飯から漂う、米と塩の香り。それは、何よりも抗いがたい魅力を持っていた。しばしの葛藤の末、清十郎はゆっくりとそれに手を伸ばした。一口頬張る。温かい。塩味が、乾いた体に染み渡っていく。涙が、にじんだ。
その様子を見て、カイトは何かを察したようだった。「記憶喪失とか? とりあえず、うち来る? シャワーくらいなら貸せるし」
人の好意に、断る気力も道理もなかった。カイトの住まいという「あぱーと」なる長屋の一室に招き入れられた清十郎は、再び度肝を抜かれることとなる。
壁の箱からは人の姿と声が発せられ、別の箱は一瞬で食べ物を温める。蛇口をひねれば、湯がとめどなく溢れ出す。それは、もはや「からくり」というより「妖術」であった。
数日ぶりに浴びた湯で身を清め、カイトが貸してくれた異国の着物に着替えると、少しだけ人心地がついた。カイトは、清十郎が語る支離滅裂な身の上話を、記憶喪失の男が作り上げた設定だと信じ込みながらも、親身に耳を傾けてくれた。
「なるほどなー、橘清十郎。幕府の役人ね。で、今は無職、と。とにかく、生活費を稼がなきゃ始まらないっすよ」
カイトはそう言うと、一枚の薄い板を取り出した。彼が「すまほ」と呼ぶそれは、指でなぞると目まぐるしく絵柄が変わる、摩訶不思議なからくりであった。
「仕事か……。この時代に、俺のような不躾者ができることなど……」
「あるって! 清十郎さん、体力には自信あるでしょ? 侍なら、飛脚みたいなもんだ。いや、組織に属するわけだから……そっか、『仕官』かな?」
仕官。
その一言が、死んだように淀んでいた清十郎の目に、再び光を灯した。そうだ。たとえ時代は変わろうと、主君を失おうと、己は武士。何かに仕え、務めを果たすことでしか、己の存在意義は見出せぬ。
「して、その仕官先とは、何という組織か」
身を乗り出す清十郎に、カイトはにやりと笑って「すまほ」の画面を見せた。
「『Uber Eats』。読み方は、うーばーいーつ。まあ、略して『うーばー』でいいっす」
『うーばー』。異国の響きを持つその名に、清十郎はかつて黒船を率いて来航した「ぺりい」なる異人の名を連想した。これもまた、新たな黒船か。だが、今はそれに乗るしかない。
「承知した。その『うーばー』なる組織に、この橘清十郎、仕官いたす」
深々と頭を下げる清十郎に、カイトは「お、おう……」と若干引きながらも、手続きを進めてくれた。
こうして、清十郎は新たな主君『うーばー』より、辞令書たる「すまほ」と、相棒となるべき黒鉄の馬「じてんしゃ」を授かった。カイトの家に世話になりながら、令和の世で生き抜くための、奇妙な仕官生活が始まろうとしていた。その前途が、桜田門外の死闘以上に過酷なものであることを、彼はまだ知る由もなかった。