第2話:ここは、地獄か、
くらり、と視界が揺れた。橘清十郎が次に感じたのは、頬に触れる、雪とは似ても似つかぬ硬質でざらりとした感触であった。鼻をつくのは、鉄と油が焼け付くような、嗅いだことのない異臭。桜田門外を覆っていたはずの白銀の世界は、跡形もなく消え失せ、代わりに目に映ったのは、どこまでも続く漆黒の地面であった。
「……ここは」
呻くように声を絞り出し、ゆっくりと身を起こす。斬られたはずの脇腹の痛みは、不思議と消えていた。羽織や袴に染み付いていたおびただしい血も、まるで幻であったかのように無くなっている。だが、それ以上に理解しがたい光景が、彼の常識を根底から打ち砕いた。
夜だ。つい先程まで牡丹雪の舞う昼日中であったはずが、今は深い闇に包まれている。しかし、それは真の闇ではない。夜空は不気味な橙色に染まり、天を衝くかのような巨大な塔が、無数に立っていた。その塔は石垣や木材で組まれたものではない。全面が硝子で覆われ、内側から煌々と光を放ち、まるで巨大な墓標のように、あるいは天に住まう鬼の棲家のように、静かにそびえ立っている。
ゴォン、という地鳴りのような轟音と共に、目の前を凄まじい速さで何かが通り過ぎた。鉄でできた、色とりどりの箱。二つの丸い光る眼を輝かせ、獣の咆哮にも似た音を立てて闇の中を疾走していく。その風圧に、思わずたたらを踏んだ。
「……な、なんだ、今の化け物は」
呆然と呟く清十郎の横を、また一台、また一台と、鉄の箱が駆け抜けていく。人々は、その鉄の箱の中に平然と乗り込み、表情一つ変えずにいる。狂気だ。ここは人の住む場所ではない。
「地獄……か。あるいは、修羅の世界か」
桜田門外で命を落とした己は、死してなお戦い続ける修羅の道に堕ちたのか。そう思うのが、最も腑に落ちた。主君を守りきれず、犬死にした武士が堕ちるには、相応しい場所やもしれぬ。
ふらふらと、亡者のように歩き出す。行き交う人々は、皆、奇妙な意匠の着物を身に着けていた。髪を結いもせず、男も女も、異国の蛮人のような格好をしている。彼らは清十郎のいでたちを、不思議そうな顔をして、あるいは異様な物を見る目で見て見ぬふりをして通り過ぎていく。誰一人として、声をかけてくる者はいない。この地獄において、己はあまりに異質で、孤独な存在であった。
どれほど歩いただろうか。足は棒のようになり、体力も気力も尽きかけていた。このまま野垂れ死ぬのが、定めか。そう諦めかけた時、ふと、あるものが目に留まった。
道の傍らに立つ、青い板。そこに、見慣れた文字が記されている。
『警視庁 桜田門』
「……さくらだ、もん……?」
我が目を疑った。聞き間違えようはずもない。つい先程まで、己が命を賭して戦っていた場所の名だ。しかし、目の前にあるのは、あの重厚な渡櫓門ではない。白く、巨大で、四角四面の、見たこともない様式の建物である。その周りを高い塀が囲み、厳重な警備が敷かれているようだった。
ここが、桜田門。されど、我が知る桜田門にあらず。
この国は、日本。されど、我が知る日本にあらず。
閃光と轟音。消えた傷。不可思議な夜景。そして、同じ地名に建つ、異質な建物。点と点が、脳内で恐るべき一つの線を結んだ。
「……まさか」
ありえぬ。あってはならぬ。だが、それ以外に、この怪異を説明する術はなかった。
己は、死んだのではない。時を、越えたのだ。己の知らぬ、遥か未来の日本へと。
その途方もない事実に思い至った瞬間、清十郎の膝は、ついに地面に折れた。武士としてのプライドも、死を恐れぬ覚悟も、すべてが無意味と化した。仲間はどうなった。主君の運命は。揺らぐ日本は、一体どうなってしまったのか。何も知る術はなく、ただ一人、文明の流れがもたらす轟音の中で、彼は取り残された。
ガラスの巨塔が見下ろす下で、黒い地面に額をこすりつけ、橘清十郎は声を殺して嗚咽した。それは、主君を失った悲しみでも、傷の痛みでもない。己が存在するべき場所を、在り処となる時代そのものを、永遠に失ってしまったことへの、底知れぬ絶望の叫びであった。