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第1話:揺らぐ日本

安政7年、3月3日。上巳の節句を祝うには、あまりに陰鬱な空であった。江戸の天は厚い雲に覆われ、夜来の雨は夜半から湿雪へと変わり、やがて牡丹雪となってしんしんと降り積もっていた。白く塗り込められた世界は音を吸い、常ならば人の往来で賑わう桜田門外も、今はただ静まり返っている。


幕府(ばくふ)徒目付(かちめつけ)橘清十郎たちばなせいじゅうろうは、馬上から吐く息の白さを見つめていた。供廻りの列に連なり、主君たる大老・井伊直弼の登城を警護する。それが、今日の己に課せられた務めであった。降りしきる雪が、差料(さしりょう)(こしら)えや羽織の肩を濡らしていく。冷たさが肌を刺すが、清十郎の心を占めるのは、それとは質の異なる、もっと芯から凍えるような寒気であった。


「清十郎殿、難儀な天候ですな。これでは桜も咲きあぐねましょう」

隣を進む同輩が、退屈まぎれに声をかけてくる。悪気のない、泰平の世に慣れきった男の声であった。幕臣としての務めに誇りはあろうが、その魂のどこかはこの二百年以上続いた徳川の安寧に、すっかりと寝ぼけている。


「……油断召されるな。雪は、かえって人の気配を消すもの」

清十郎は短く応え、視線を鋭く左右に配った。他の者たちは、この雪をただの厄介な天候としか見ていない。だが、清十郎には違って見えた。この白一色の世界は、何かを隠すための、巨大なとばりのように思えてならなかった。

脳裏をよぎるのは、ひと月前に薩摩藩邸に勤める旧友、坂崎から受け取った密書の一節であった。多くは語られず、ただ一言、こう記されていた。


『――時が、動く』

坂崎は剣の腕も立つが、それ以上に時勢を読む目に長けた男だ。その彼が、わざわざ危険を冒してまで寄越した警告である。攘夷(じょうい)の気運が高まり、幕政を強引に進める大老への反感が、沸点に達しつつあることは清十郎も感じていた。だが、この江戸城の目と鼻の先で、白昼堂々と事を起こす者がいるだろうか。いや、だからこそ、この悪天候は絶好の機会となりうるのだ。


「考えすぎですよ。この桜田門外で騒ぎを起こせば、それこそ犬死に。水戸の連中とて、そこまで愚かではありますまい」

同輩は肩をすくめて笑った。その、あまりに呑気な言葉が、まるで不吉な予言のように清十郎の耳に響いた。


その時である。

行列が桜田門外の杵築(きつき)藩邸前に差し掛かった、まさにその刹那。供先から駕籠訴(かごそ)を装った一人の男が躍り出た。警護の者が制止しようと駆け寄る。ありふれた、日常の光景。誰もがそう思った、次の瞬間であった。

乾いた破裂音が、雪の静寂を無慈悲に引き裂いた。

短筒(たんづつ)、それは合図だ。男が懐から放った一発の銃声が、始まりを告げた。


「敵襲! 大老をお守りしろ!」

誰かの絶叫が響き渡る。だが、それはもう遅かった。銃声を合図に、雪の帳のあちこちから、鯉口を切る音と共に黒い人影が十数名、雪崩を打って行列になだれ込んできた。覆面や鉢金で顔を隠し、その目は尋常ならざる殺意に爛々と輝いている。水戸脱藩の浪士たちであった。


「うぬら、幕府を何と心得るか!」

清十郎は鞘走(さやばし)る刀と共に馬を降り、眼前の敵に斬りかかった。泰平に慣れた供侍たちが次々と斬り伏せられていく。血飛沫が純白の雪を汚し、断末魔の叫びが牡丹雪に吸い込まれて消える。そこは、地獄であった。


「退け、勅勘(ちょっかん)の輩が!」

清十郎の愛刀「村正」が、鈍い銀光を放って宙を舞う。一人、二人と斬り捨てるが、敵の数は多い。浪士たちの狙いはただ一つ、井伊大老の乗る駕籠(かご)。彼らは死を覚悟しており、その太刀筋には一切の迷いがなかった。


日下部(くさかべ)殿!」

清十郎は、上司である徒目付組頭・日下部三郎右衛門くさかべさぶろうえもんの名を叫んだ。彼は駕籠(かご)(かたわ)らで奮戦していたが、数人の浪士に囲まれ、苦戦を強いられていた。清十郎は加勢すべく、敵中を駆け抜けようとする。

だが、その背中に、焼け火箸を突き立てられたような激痛が走った。


「ぐっ……!」

振り返る間もなく、脇腹を深く斬りつけられる。視界の端で、白刃がきらめいたのを認めた。返す刀で相手の喉を突くが、傷は深い。膝が折れ、雪の上に片膝をついた。どくどくと、己の血が袴を濡らしていくのが分かった。


「日下部殿……!」

霞む視線の先で、信じられぬ光景が繰り広げられていた。歴戦の武士であるはずの日下部が、ついに力尽き、敵刃の前に崩れ落ちたのだ。その首は、無情にも高く掲げられた。

ああ、何たる不覚。何たる無様。主君を守るべき武士が、この様は何だ。旧友の警告を受けながら、これを防げなかった。己の無力さが、骨の髄まで染み渡る。


浪士の一人が、拙者にとどめを刺そうと刀を振りかぶるのが見える。もはや、これまでか。だが、死ぬわけにはいかぬ。この者らを一人でも道連れにせねば、武士の面目が立たぬ。

最後の力を振り絞り、刀を握り直し、立ち上がろうとした。

その瞬間であった。


――ピカッ!!

天が裂けたかと思うほどの、凄まじい閃光が世界を白く染め上げた。それは雷光ではない。もっと、人工的で、冷たい光。

ゴウッ、と耳をつんざく爆発音が鼓膜を揺るがした。それは短筒の音とは比較にならぬ、腹の底まで震わせるような轟音であった。


「な、何だ……!?」

浪士も、供侍も、誰もが天を仰ぎ、動きを止めた。何が起きているのか、誰にも理解できなかった。清十郎の身体が、ふわりと宙に浮くような奇妙な感覚に襲われる。傷の痛みも、雪の冷たさも、遠のいていく。視界が歪み、桜田門の景色がぐにゃりと溶けていく。


まだ、死ねぬ。

まだ、戦える。

我が主君、日本は……。

無念の思いだけを胸に、橘清十郎の意識は、底なしの闇へと呑み込まれていった。雪は、なおも降り続いていた。

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