4.失えない人
あの後、俺は衛兵に暴行を加えたことにより、王国から処罰を受けたが、今ではちゃんと働くことが出来ている。
「……」
『なに、ボーっとしたんだ? 兄ちゃん』
労働が終わり、現場で休んでいる時に、体格の良いおじさんに声をかけられる。
「なんでもない」
あれ以降、俺は“死んで”いない。レイシェルを買った家で匿い、普通の生活を送っている。
『なんだよ? 教えろよ?』
目を細めてにやけるおじさんは、俺のことをからかい始める。
『なんだぁ? 女か?』
「違ぇよ」
俺は、その場から離れる。おじさんはにやけた顔をしながら、俺を見送った。
* * * * * * * * *
『おかえりなさい』
家へ帰ると、レイシェルが迎え出てくれる。
「ただいま」
微笑む彼女の顔を見ると、あの世界の喧騒が遠のく気がした。そんな気がしたんだ。
「今日は、やっと一息ついてな」
『そっか。頼んでた、お買い物行ってくれた?』
「……」
――忘れた。ヤバイと思いつつ、視線を彼女から逸らす。
『もぉ、買いに行かないと、明日、お弁当作ってあげないから』
彼女と何日か一緒に過ごして、だいぶ打ち解けた気がする。
穏やかな時間のはずだった。ふとした拍子、鼻の奥にツンと来る。それは、一度は嗅いだことがあり、俺が恐れていたことであった。
『明日はいつぐらいに帰ってくる? ご飯用意しておくから』
「明日は、確か――」
俺は舞台の上に戻る。家は、血だらけで焼けこげている。
「……」
焦げた肉片が異質な匂いを放つ。キッチンに行くと、置いてあるご飯に赤黒い血がかかっている。料理の途中だったのだろう。切りかけの野菜が床に散らばり、血塗れの包丁が無造作に転がっている。
「レイシェル!! どこにいるんだ!」
俺は彼女がどこにも居ないことに焦る。まだ彼女の血と限った訳では無い。まだ生きているかもしれない。そんな小さな希望を持ち、彼女を探す。
「レイシェ――」
引きずられた跡を追うにつれ、鉄の匂いが濃くなる。跡は寝室へと続き、扉の奥には――頭のない焼きただれた身体が、無残に斬りつけられて横たわっていた。
「……レイシェル……じゃない……よな?」
焦げた皮膚に、レイシェルの面影はもうなかった。それなのに、なぜか、心が締め付けられる。
「……」
俺は、その場から逃げるようにキッチンへ行く。
――次は、絶対に、
「……このままじゃ、また、何もできない」
手が震える。それでも、俺は包丁を――首元に突き立てる。
もし、この命で最後だったらどうしよう。俺はもう、何もすることができない。だから、余計、命を手放すことが怖かった。
ーーだが、
「ぜったいに、殺してやる」
必ず誰かに殺されたはずだ。そいつを見つけ出して、地獄に堕としてやる。
「待ってろよ、必ず俺がぁ゛!!」
勢いよく、首を斬る。血が首から出ていくのがわかる。痛くて息が出来ない。うめき声を上げながら、命の灯火は消え失せるのであった。
* * * * * * * * *
馬車や、トカゲのような生き物たちが走る大通りに来る。俺は最初の地点に戻ってきたのだ。
「……」
何度見た光景だろうか、今となっては、見慣れた景色でもある。
『きゃぁ!! 魔女よ!!』
――聞き覚えのある声。
蒼い髪の毛が見える。彼女だ。
俺は手を横に出す。要は鬼ごっこってわけだろう? 逃げ切れば勝ちってことだ。
『……っ??』
この感覚。俺は手を見る。細い腕に可愛らしい手。再び俺は、彼女と入れ替わったのだ。
「今度こそ……逃げ切ってやるよ! どこまでもだ……!」
衛兵たちの怒声を聞いては、即座に人混みに向かって走り出す。
人と人の間を走り抜け奥へ奥へと逃げるが、地元の地理を知り尽くしている衛兵たちに、俺一人で勝てるはずもなかった。
(挟まれたか……)
俺は、逃げているうちに、横に逃げ場の無い道に追い込まれ、挟み撃ちを食らってしまう。
「後ろにも、前にも……敵か」
この状況に、魔女も不遇だなと同情してしまう。
どこかに逃げ場は無いかと探している時――突然、爆音が鳴り響き、衛兵たちの身体が吹き飛んだ。きっと、何かが炸裂したのだろう。
――助かったのか……?
呆然として、その場から身体が動かない。そんな時だった。
『ほら、早く行くよ』
どこからともなく現れ、俺の手を引き、倒れた衛兵達を踏み台にしていく。
そんな状況に、俺は困惑を隠せなかった。
『言ってなかったね……ボクの名前は“レイシア”』
手を引く姿に、俺はいいようの無い既視感を覚えた。けれど今は、それを確かめる余裕も無い。
『辺境の魔法使いさ』
そしてまた、世界の秒針は狂い始めた――。