89.バルト
リナの家に来てからというものノルンは一日に二度、朝と夜にバルトに薬を与えている。
しかしあくまでその薬というのも対処療法にすぎない。原因の瘴気をのり除く、または弱める作用の薬は未だ見つかっていなかった。
それでも毎日毎日検診的にノルンが治療を行うことで、バルトの体調はノルンがリナに連れてこられた日に比べてかなり回復していた。
まだまだ寝たきりの時間も長いが、食事の際にはバルトも共に食卓に座り、食事をとるようになっていた。
今日もまた食事を終えるとノルンは薬の入った小瓶をバルトの前に差し出す。
「すまねぇな」
バルトはノルンから小瓶を受け取ると一気に中の液体を飲み干した。
バルトは白くなった髪に口ひげを蓄えた凛々しい顔つきをしていた。
昔からこの森に住んでモモリコの酒を細々と作っていると言っていた。
しかしその商品を見せてもらった時にはアトラスは目を驚かせていた。
何でも都では滅多に出回ることの無い希少価値の高い酒だという。アトラスがそう言うと、
「んな大層なもんじゃねぇよ。ただの趣味だ」
とバルトは言ってのけていたが。
バルトは飲み終わった小瓶を机に置くと、その小瓶をじっと見つめながら口を開いた。
「…ありがとうよ、ノルン。まさかここまでまた動けるようになるとは思っていなかった」
「…いえ、」
バルトの言葉に反してノルンは否定しようとする。
あくまでノルンがしているのは対処療法。
今も尚、正気に効く薬は見つからず、バルトの身体の内部ではじわじわと瘴気の毒がバルトの体を蝕んでいることだろう。
けれど、ノルンが言い切る前にバルトがいや、とノルンの言葉をさえぎった。
「…瘴気のことは気にするな。仕方ねぇんだ。誰も瘴気なんて訳分からねぇもんの治療法なんざ知らねぇんだ。むしろまたこうして立つことができて食事を取れるようになったってだけでも俺にとっちゃ御の字だ。リナと過ごす時間が少しでも増えてくれるんなら俺にとってこれ以上に有難いことはねぇのさ」
バルトがそう言ってもノルンの顔は険しい。
膝の上に置いた手をノルンは黙ったままた強く握った。そんなノルンを見てバルトの凛々しい顔立ちが緩む。
「…いいのさノルン。瘴気の治療法はない。誰でも知っていることだ。それよりも、ここまで身体が楽になったんだ。お前さんは本当に腕のたつ薬師なんだろう」
「…………」
(…瘴気の治療法はない、)
そうだ。誰でも知っている事だ。
けれどノルンはここに来てからずっとそれに足掻こうとしている。
ノルンは口をぎゅ、と結んだ。
「しかし、だ。ノルン」
バルトの声色が代わりノルンは顔を上げて真正面からバルトの顔を見る。
「…お前さんらには本当に感謝している。だが、ここまでの治療をしてもらっておいてなんだが、俺はそんな大層なもんをお前さんらに返すことは出来ねぇ」
ノルンは黙ってバルトの言葉を聞く。
「ここまでこんな老いぼれに熱心に治療を施してくれたんだ。出せるものは出そう。だが、これ以上は俺に出せるもんはねぇ。それに、ノルン」
「はい」
「毎日お前さんは必死になって瘴気について調べてくれてるみてぇだが、瘴気に効く薬なんざねぇんだろう?」
「……っ…」
バルトの声色は優しい。
決してノルンを攻めている訳では無い。
ノルンの瞳が揺れる。
バルトは目元を和らげる。
「ありがとうよ。ノルン。だがもういいんだ。リナと過ごせる時間がまたこうして少しでも伸びただけで俺は…」
バルトは孫娘が眠っているベットに視線を移す。
その表情は何処までも優しかった。
バルトの言いたいことはノルンにもわかっていた。
これ以上探したところで瘴気に効く薬など見つからない。大陸の薬師で最も優れていると言って良いフローリアでさえ知らないのだ。
ノルンがそんなものを見つけ出せるわけもなければ作れるわけもない。
そんなことはノルンにも分かっていた。
ノルンが少しばかり俯く。
そして、しばしの後そっと顔を上げてバルトを見やる。
ノルンの目はもう由来ではいなかった。
そして小さく頷いた。
「…分かりました。バルト様。しかしあと数日だけ頂けませんか。リナからの私への依頼は貴方様の病気を治すことです。そのために善処するとお約束しました。ですので、あと数日だけお願いいたします」
バルトはじっと黙ってノルンの話を聞いていた。
そして、聞き終わると、皺だらけの目元を和らげてふっと息を吐いた。
「…あぁ。わかった。本当にすまねぇな。ありがとう、ノルン」
低い落ち着いた声がノルンに優しく響いた。
話は終わったかと思ったバルトだが、ノルンがそれと、と言葉を続ける。
「先程バルト様は私たちへの見返りのお話をして下さいましたが、報酬は頂きません」
バルトは小さな瞳を丸くした。
そして、驚いたようにまくしたてる。
「馬鹿を言うな。老人とはいえ恩人への義理をかくわけにはいかねぇ。俺に出来ることはするつもりだ」
しかしノルンは首を左右にふった。
そして、そこまで険しかった顔を緩めた。
女神のような美しい顔に小さく花が綻ぶ。
「お代はもうリナ様から頂いております」
「リナが…?…いや、しかし」
あの子はそんな高価なものを持っていただろうか、とノルンの言葉にバルトは頭を悩ませる。
しかしノルンは確かに頷いた。
「はい。確かに。リナ様の一番貴重なものをお譲り頂きました」
「一番貴重なもの…?」
訳が分からないと眉を顰めるバルト。
そこでノルンはふいに黙っていたアトラスの方を見る。つられてバルトもそちらを見ると、アトラスの手元には10枚の小さなくしゃくしゃな紙が握られていたのだった。
アトラスはニヤリと笑う。
それを見て、バルトは動きを止める。
しかし目の前を見れば少しだけ口角をあげて美しい瞳で真っ直ぐとバルトを見つめるノルンがいたのだった。
そこでバルトはようやく理解する。
そしてこ目の前の娘の馬鹿さ加減と心の深さを。
「…全く…。損な奴らだ」
机の上に肘を着いてその上に頭を載せる。
苦笑しか出ない。
何の得もない。
けれどそんな馬鹿な娘をバルトが気に入るのに時間はかからない事だろう。




