87.瘴気
ノルンの頷きにリナは涙を流す。
アトラスとアオイも困った顔で見つめていた。
「…何とかしてやることは出来そうにないのか?」
「…善処はします。けれど大分お身体が弱っていますし、恐らくこの方の病は膨大な瘴気に当てられたことが原因です。それとも少しずつ何年も摂取したのかは定かではありません」
強ばったノルンの表情にアトラスは目を丸くする。
「“瘴気”って…ほんとなのか?」
「はい。一度師匠に連れられて同じような症状の方を治療しました。その際に師匠は瘴気にあてられた病だと仰っていました」
「…そうか」
ノルンの言葉にアトラスも顔を強ばらせる。
そんな中アオイが少し気まづそうに口を開く。
「…えっと…瘴気って…」
「…しょうき?」
何がなにやらではらはらしていたポーラも不思議そうに聞き返す。
瘴気とは簡単にいってしまえばこの大陸に存在する悪い空気のことである。そしてそれは邪悪な魔力の溜まり場であることも意味する。
元々この大陸に瘴気というものはなかった。
しかしある時から大陸のあちこちでそれは見られるようになった。
それはイアの戦いだった。
最愛の女性を失って暴走した青年が大陸中を震撼させた大惨事。
その時の青年は国家騎士団によって取り押さえられたと言うが、その際に大きな傷を負ったという。
そして青年のとてつもない程の邪悪なる魔力が周囲に離散していったという。
それが瘴気だ。
そのため、過去の対戦が起こった北の大地ほど瘴気で溢れているという。
対して南側にはほとんど無いといっていい。
しかしイアの戦いで大陸中に膨大な瘴気が放たれたからと言って何も瘴気の根源は人だけではない。
時に魔物ですら瘴気となる事はあるという。
まだ瘴気に至っては解明されていない謎も多く、今も大陸の学者たちはその解明に一生を捧げるものも多いという。
ノルンはこの程度しか瘴気については知らない。
フローリアに教えてもらったこともあれば、ノルンが本で得た知識もある。
それをかいつまんでアオイに教える。
「えっとつまり、その悪い空気に長く触れていると身体を悪くしちゃうってこと?」
「はい。しかし個人差はあるそうで耐性がある方もいらっしゃるそうです」
「そうなんだ…」
ノルンに話を聞いてアオイはもう一度今は静かに呼吸をして眠るバルトを見た。
そこでノルンは裾が引っ張られる感覚にそちらに顔を向ける。
そこには不安げな顔をしたリナが居た。
「…おじいちゃん…なおる…?」
その切ない声にノルンは眉を顰める。
しかし口を開いたのはアトラスだった。
「さっきノルンもいってたが瘴気については解明されてないことも多い…」
その言葉にアオイは何となくアトラスの言葉の意味を汲み取ったようだった。
「つまり…治す方法が分かってないってこと…?」
アオイの呟きにノルンは申し訳なさそうに頷いた。
「そんな…」
「…え…?え?…このおじいちゃん治らないの?」
アオイは困惑したようにノルンとリナ、そしてバルトを見た。ポーラもまたみなの顔を見渡す。
アオイの困惑した表情に何かを読み取ったのかリナはノルンの手を掴んだ。
「………」
ノルンは戸惑った表情でリナを見つめる。
「…おじいちゃん…しんじゃうの…?」
その言葉にノルンは戸惑いの表情を浮かべる。
今すぐに、ということは無いが瘴気に蝕まれた身体は次第に衰弱し、年齢という事もありバルトの身体が耐えられなくなるのも時間の問題だろう。
唇を薄くかんで苦悶の表情を浮かべるノルンにリナは震えた。
しかしその瞬間、ノルンの手をぱっと離すと2階のロフトに繋がる階段を駆け上がってぃた。
「リナちゃん…!?」
アオイが驚きながら名を呼ぶ。
2階で何やら探し物をしているのか時折、物が落ちる音がする。
そしてリナが戻ってくるのはすぐだった。
戻ってきたリナは変わらず涙を瞳いっぱいにためていた。
「…これ…っ…」
そんなリナからノルンに手が差し出される。
その手にはノルンが見たことがある紙切れが握られていた。
「それは…」
「…どんぐりのクッキーの…」
そう。リナの手に握られていたのはノルン達も食べたどんぐりクッキーの当たりくじ。そしてそれは1枚ではなかった。
差し出されたくじは10枚ほど。
ノルンは困惑した表情でリナを見る。
リナは懇願するように涙をぼたぼたと落としながら言った。
「…おねがいします…、これで…、これで…おじいちゃんのことなおして…っ…」
「…っ…」
ノルンは目を見開く。
正直に言って瘴気が原因の病を治すことができる薬はまだ確約されていない。
ここでリナの願いを形だけ受け入れても本当にバルトが回復するかは定かではない。
ノルンは必死に縋るようにノルンを見つめるリナを見つめる。そして横たわるバルトに視線を移す。
(…私に出来るの…?…師匠にでさえ、完全に治すことは出来なかったのに…)
ノルンの瞳が揺らぐ。
しかし。
もう一度リナに目を落とす。
差し出された手は震えている。
ノルンは唇を噛んだ。
そして、リナの前に膝を着く。
「…分かりました。リナ様。善処致します」
今度は揺るぎない瞳で、幼い少女のる震える手を握って、いつもの様に淡々と、感情の籠らない声でそう言ったのだった。




