69.過ち
レオの悲痛な叫び声に街の人々は言葉も出なかった。
しんとした静寂が落ち、誰もが何かを言うのを躊躇った。
少しの沈黙の後、その静寂を破ったのは落ち着いた老人の声だった。
「…レオ。…ノルンは…あの子は何処にいる?…姿が見えないが」
それはフォーゲルというフォーリオの老人だった。
杖をつき、腰は少し曲がっている。
いつもは穏やかな柔らかい表情をしているが、今はその目に静かな不安が宿っていた。
レオは口を結んで、その手は微かに震える。
「…っ…」
しかし、レオが口を開こうとした瞬間、レオの肩に優しく手が置かれた。
レオが目を見開いて、隣を見ればそこにはアランが立っていて真っ直ぐとフォーゲルの方を見つめていた。
「ノルンは昨夜のうちにこの街を出ました」
街の人々が息を呑む。
そして、それは目の前にいたレンもだった。
「…ぇ…?」
まるで時間が止まったかのように、レンは目を見開いて動きを止める。
「…そうか。…そうか」
街の人々が驚いている中、フォーゲルだけは静かに頷いた。
まるでそれをどこかで理解していたかのように。
「…そうか。ノルンは私たちを守るためにここを出たんだね」
「…はい」
フォーゲルは静かに呟く。
アランも静かに頷いた。
「…フローリア。ノルンが、あの子がこの街に結界をはってくれていたというのは本当なんだね」
フォーゲルが問うように皺だらけの顔の中、透き通った瞳をフローリアに向ける。
フローリアもまた小さく頷いた。
「…はい」
「そうか」
フォーゲルはため息混じりに呟く。
「…私たちはあの子が来た時に…ひどい扱いをしたね。…私たちはあの子の心に傷しかつけてくることはしなかった。…それなのに」
街の人々が顔を俯かせる。
フォーゲルの独り言のような呟きに、皆気まずそうに顔を背けた。フォーゲルは空を見上げる。まだ微かに星が輝きつつも、明るく照らされた空を。
「…あの子は私たちを護ってくれていたんだね。…そして、私たちに危害が及ぶことの無いようにとこの街を旅立った。…あぁ、本当に愚かなことだね」
街の人の中には静かに口を手で押え、涙を流す者もいた。そんな中、放心していたレンが、よろけながらも立ち上がる。そしてレオとアランを見る。
「…なぁ…そんな…嘘だろ…?…ノルンは…もう…ここに居ないのか…?」
レンの言葉にレオは眉を寄せ視線を外した。
「…居ないって言っただろ」
そして、そう言ったあとで、きつくレンを睨みつけた。
「…もう今後二度とお前はノルンに会うな」
レンはその言葉に、俯き、歯をかみ締めると、突如勢いよくその場を後にした。
「レンッ…!!」
レンの母の声が響く。
しかしレンは振り返ることはなく走った。
無我夢中でとにかく走った。
途中何度も地面に躓いて転びそうになった。
レンはひたすら、ただひらすらある場所に向かって走った。
息遣いは荒く、頬は濡れて、表情はひどく崩れている。
「はぁッ…はぁッ…はぁッ…!!」
走りながら、レンの脳内には先程のレオの憎しみの籠った目と、言葉が繰り返されていた。
初めてノルンを見た時、驚いた。
余りにノルンが自分達と違って。
神様の子と言われたら納得していたと思う。
けれど、そんなノルンがこの街に来て、大人達は怯えた。
それでも本当はそんなことどうでもよかった。
ただノルンと話してみたかった。
声が聞きたかった。
だから、近づいた。
けれど、子どもだったレンは虐めることでしかノルンとの接し方が分からなかった。
ノルンは石のような表情を崩すことはなかった。
それから、思春期になり、街の人たちもノルンのことを疎ましく思うことはなくなった。
ノルンも度々街に降りてくるようになり、街の人々は初めてまともにノルンと接した。
そしてすぐにノルンを好意的に思うようになった。
街の人々はよくノルンのことを話していた。
昔のように陰口を叩くのではなく、ノルンが何かを手伝ってくれたとか、優しい言葉をかけてくれたとか。
「はぁッ…はぁッ……っ…!?」
木の根が足先に引っかかり、思わず地面に倒れ込む。
顔からいったことで、身体中土まみれになり、顔にも土がつき、擦り切れたように痛む。
しかし、レンははぁ、はぁ、と息を繰り返したあと、よろよろと覚束無い足で立ち上がると、ゆっくりとまた走り始めた。
うさぎの話もよく覚えている。
思春期で、あの時だってノルンとの接し方が分かっていなかった。
幼い頃、人目見た時からずっと、レンがノルンに抱き続ける気持ちは変わらなかったように思う。
ただ接し方がわからなかった。
あの日だってそうだ。
ノルンを見かけて、思わず立ち止まった。急に身体が固くなってなんて声をかけたらいいかわからなかった。
しかしノルンの腕の中にいるうさぎを見た瞬間、つい言葉が溢れて。
焦って。
随分酷いことを言った。
ノルンの傷ついたような顔を今でも覚えている。
思えば、ノルンの笑った顔なんて見たことがない。
いつだって、無表情か、それか…。
傷ついたような顔だけだった。
「…はぁッ…っ…」
レンの頬にとめどなく涙が流れては、落ちていく。
ノルンが背を向けたあと、すぐにはっとして手を伸ばした。でも掴めるはずなんかなくて。
あとになってどれ程悔やんだことだろう。
ノルンがそんなことするはずないって、分かっていたのに。
走りながら口を噛み締める。
走り続けて、走り続けて。
朝の森を駆け抜けて、ある所でぱっと視界が開ける。
その場所に出るとレンは一瞬立ち止まって、すぐに走りよって、そこに静かに聳え立つ家の戸を叩いた。
随分年季の入った、それでいて美しく手入れが行き届いている美しいレンガの家を。
「ノルンっ…!!…ノルン!!!!」
なんども。何度も、その名を呼んだ。
ノルンの前では何度名を呼べただろうか。
きっとその比にならないほど名前を呼んだ。
しかし幾ら名を呼んでも、家主である少女が出てくることはなかった。
「…っ…ノルン、」
レンは静かに崩れ落ちるように座り込んだ。
そして、堰を切ったように涙を流した。
今、ようやく、理解した。
自分がしてしまった過ちの大きさを___。
旅立って行った少女を思って1人の青年は静かなる朝の森で長く涙を流し続けた。




