65.月道の餞
ノルンが家を出ると、そこにはノルンを待つようにフローリア、アラン、レオ、ソフィア、そしてアトラスにアオイが揃っていた。
「お待たせしました」
ノルンがそう言えばフローリアは優しく微笑んだ。
そして愛しいわが子を見るような慈愛に満ちた眼差しでノルンを見つめたあと、その頬に手を置いて、優しく撫でた。
「本当に行くのね。ふふ、寂しくなるわ」
「…師匠。勝手ばかりで本当に申し訳ありません」
ここまで大切に育ててきてもらっておきながら、フローリアを置いて、旅に出ることに罪悪感が募り、ノルンの瞼が少しばかり伏せられる。
そんなノルンにフローリアはゆっくりと左右に首を振った。
「いいえ。ノルン。貴方の人生だもの。貴方はいつだって自由で、貴方の好きに生きていいのよ」
フローリアの言葉にノルンは顔を上げる。
そこにはいつだって優しく導き、守り育ててくれた師匠であり、また母親の暖かな眼差しがあった。
ノルンはなんと言ったらいいのかわからず、思わず口を噤む。
「けれど、どうか無茶だけはしないでね。それと、ノルン。これだけは覚えていて欲しいわ。貴方の帰ってくる場所はいつでも此処にあるのだということを。私たちはいつでもあなたの帰りを待っているということをね」
フローリアが優しく目を細める。
その言葉にノルンの胸が締め付けられる。
フローリアはいつだってノルンにとって欲しい言葉を、必要な言葉をくれた。
今だってそう。
どこかノルン自身が隠そうとしている不安を見抜いて、優しく肯定してくれる。
本当にこの人が居なければきっとここまで生きてくることなんて出来なかった。
「…はい。師匠」
微かに震えるノルンの声にフローリアは優しく頷くと、最後にもう一度優しく頬を撫でそっと手を離すのだった。
フローリアとの会話が終わったのを見計らってアランとレオがノルンに近づいた。
アランはノルンと向かい合うとそっと優しく、ノルンを抱きしめた。存在を確かめるような抱擁にノルンは静かに身体を委ねる。
少しして身体がゆっくりと離される。
「…ノルン。本音を言えばやはり心配で仕方がない。しかし、ノルンが一度決めたら曲がらないという事もよく知っている。…だから、どうか気をつけて行ってきてくれ」
それは嘘をつくことが出来ないアランらしい見送りの言葉だった。
「はい。アラン。ありがとうございます」
「あぁ」
ノルンはアランの言葉に小さく頷き、いつでも真っ直ぐなエメラルドの瞳を見つめ返した。
微笑んでいたアランだったが、ノルンを見つめているうちに眉が次第に寄せられたかと思えば、アランは急に前のめりになってノルンの両肩に手を置いた。
そして…
「………ノルン、もし魔物に襲われたらすぐに逃げるんだぞ?…魔物退治はアトラスとアオイに任せてノルンはブランとすぐに逃げるんだ。あと、変なやつらにもし絡まれたらすぐに魔法で攻撃するんだぞ?それと1週間に1度は手紙を送ってくれ!もちろん俺からも送る!あぁ、そうだ。手紙を送れるように俺から鷹を一羽プレゼントしよう!それから…」
「………」
急に普段の心配性なアランに戻り、とてつもない速さで会話を始めた。一同は呆れたようにアランを見つめる。ノルンはいつも通り真顔でアランを見つめ、フローリアはあらあら、と言った様子で微笑みながら傍観している。
そんなアランを制したのは、アランの同期でもある頼もしい女騎士、ソフィアだった。
アランの頭に軽く拳骨を食らわせ、鈍い音が響いた。
「ぐ…何するんだソフィア…」
「…はぁ。それくらいにしろ。ノルンが困っているだろう」
呆れた視線をアランに送っていたソフィアだが、ノルンに向き直るとその端正で凛々しい顔を少し和らげた。
「ノルン。気をつけて行って来るんだぞ。…あぁ、そうだ。何れ私はまた元いた場所に戻る。そろそろアランも復帰できそうだからな。そうなれば、また再び会う日も来るだろう」
「はい。ソフィア様。またお会い出来る日を楽しみにしています」
ソフィアはノルンの返事に頷いたあと、その視線をアトラスに向けた。
「アトラス。しっかりノルンを護るんだぞ?いいな?」
「おう!任せとけ」
夜だと言うのに相変わらず眩しい笑顔でアトラスは笑う。その返事に満足したようにソフィアは口の端を持ち上げる。
そうして最後に、ノルンは未だ口を開かないもう一人の兄であるレオに視線を送る。
レオはノルンと視線が合うと、口を結んだ仏頂面のまま、ノルンにゆっくり近づいた。
お互い無言の時間がしばし続く。
風が2人の頬を撫で、葉のこすれる微かな音だけが静寂に響いていた。
先に動いたのはレオだった。
レオは片手を持ち上げると、ゆっくりとノルンの頭に手を下ろした。
ノルンは少し目を瞬かせて、驚いているようだった。
普段アランがノルンに突撃することは日常茶飯事だが、レオがノルンに触れることは少ない。
レオの手が優しくノルンの頭を撫でた。
初めての優しい手つきにノルンは少し息を呑んでレオを見つめた。
その真意を図るように___。
レオがそっと口を開く。
レオから告げられた言葉は___
「…気をつけて、行ってきて」
たった、それだけだった。
しかしその言葉にノルンはどれだけの葛藤があって、どれだけの愛情が込められているのかを悟った気がした。
それは人一倍不器用なレオの精一杯の言葉だったように思えた。
ノルンはレオの瞳を真っ直ぐ見つめたまま、頷いた。
「はい。ありがとうございます。レオ。行ってきます」
「うん」
そっとノルンの頭上の手が離される。
そしてそれが出発の合図だったかのように、ノルンの傍らにはゆっくりとブランがやってきて、またその反対側にはアトラス。そして、ブランの横にはアオイが並んだ。
ノルンは改めて、フローリア、アラン、ソフィア、レオを見つめ、そして最後にまた視線をフローリアに戻す。フローリアはノルンを見つめ、優しく頷き、ノルンもフローリアに返すように頷いた。
「それでは、行ってきます」
「ええ。行ってらっしゃいノルン」
「アトラス、アオイ!ブラン!ノルンをくれぐれもよろしく頼む!」
「おーう!任せとけ!」
フローリアとアランの言葉を聞き終えるとノルンはフローリア達に背を向ける。
月光が照らす道を歩み始める。
それはまるでノルンの門出を静かに照らす天からの餞のようだった。




