58.幻想世界
森の中をしばらく歩き、寝静まったフォーリオの街へと足を踏み入れる。
普段賑わっている石畳の道には誰一人とおらず、街は静寂に包まれている。
ノルンの持つランタンだけを頼りにアオイはノルンの背について行った。
「…静かだね。昼間とは雰囲気が違って、まるで別の場所みたいだ」
「…アオイさんはこの時間に外に出るのは初めてですか?」
少しだけ振り返って問うノルンはランタンの明かりに淡く照らされているものの、その姿はいつにも増して神秘的でアオイは目を見張る。
「うん。いつもアランさんの稽古で疲れて、気づいたら寝ちゃっていることが多くて」
「相当厳しくされてんのか?」
アトラスがからかうように聞くと、アオイは笑って首を振った。
「あはは。いや、そんな事ないよ。むしろ僕に合わせてくれて。教え方もすごく丁寧に教えてくれるんだ」
「あいつは面倒見いいもんなぁ」
アトラスとアオイの会話に耳を傾けながら、ノルンはゆっくりと歩みを進める。
昼間より気温が下がった涼しい夜風が気持ち良い。
「それでは、アオイさんはこの景色を見るのは初めてなのですね」
「この景色?」
前を歩くノルンの表情は見えないのに、その声はどこか夜に溶けるように、いつもより柔らかく聞こえた。
ノルンがゆっくりと振り返る。
そして「はい」と小さく言うと、柔らかな表情で空を見上げたのだった。
不思議に思いながらも、ノルンの視線をおってアオイも空を見上げる。
「…………わぁ」
思わず感嘆の声が盛れる。
見上げれば夜の闇の中、視界いっぱいに星が煌めき、瞬いていた。
果てしない夜空に無数に散りばめられた星々はそれぞれが太陽を反射して美しく夜空を彩る。
広大な星空の美しさにアオイは息を呑んで言葉を失っていた。
「まさに“星の降る街”だよな」
アトラスも同じく空を見上げながら言う。
アオイは声も出せないまま小さく頷いた。
からん、と小さくノルンのランタンの音がなり、吸い込まれそうな夜空から視線を落としてアオイはノルンを見る。
「もう少しで湖です。行きましょうか」
そう言ってゆっくりとまた歩を進めるノルンに着いていけば、あっという間に湖に着いた。
昼間は太陽の光を受けて透き通って輝く湖面も、今は静かにまるで眠りについているようだ。
湖面に面した家々の前をとおりすぎ、森に面した場所まで歩いてくると、ノルンがふと足を止める。
そして、ふっ、とランタンの火に息をふきかけて灯火を消すと、当たりは本当に夜の闇に包まれた。
夜の帳の中、しばらくノルンは湖を見つめたあと、小さくアオイを呼んだ。
「…アオイさん。いました」
「え?」
「あそこです」
ノルンの細いしなやかな指がある場所を指さす。
アオイがそこを凝視するように目を凝らせば小さな淡い光りを捉えた。
それは大きくなったり、小さくなったりと光量を変えて、光を灯す。
淡い緑に輝くそれこそ、蛍の光だった。
「…わ、ぁ…」
ひとつ、またひとつ。気づけば無数の淡い光が、湖面を漂う。
湖は空高く輝く月明かりを反射して、まるで月へと続く道のように湖面を照らし、無数の星々を散りばめている。
そして、地上では小さな命が儚くも美しく悠々と舞う。
その光景は余りにも、綺麗で、アオイは言葉を発することもなく、ただ息を呑んで魅入っていた。
美しい幻想世界が視界一面に広がっていた。
「…綺麗なもんだな」
「はい」
アトラスとノルンの声がアオイの耳に入る。
その言葉に、心から賛同するように、アオイはぽつりと呟いた。
「…本当に、綺麗だ」
アオイのその言葉に、静かにノルンがアオイの横顔を見つめる。
月明かりに照らされたアオイの瞳は美しく揺れて、この景色に感動しているようだった。
その様子にノルンは密かに小さな微笑みを漏らし、また視線を前に向けた。
「いやぁ、綺麗だったなぁ」
「うん。本当に。ありがとうノルンちゃん。アトラス。こんな綺麗な景色を見せてくれて」
しばらく満点の星空と蛍を堪能したあと、ノルン達は来た道を戻り、帰路についていた。
改めて礼を言うアオイにアトラスとノルンは小さく微笑んだ。
「俺も見られて良かったぜ」
機嫌が良さそうに鼻を鳴らすアトラスを見たあとアオイはそっともう一度視線を空にやった。
(…本当に、綺麗だなぁ)
この景色を一生忘れることは無いだろう。
視線を落として、アオイを伺うように見つめていたノルンと視線を交えて、改めてアオイはそう思った。
「わざわざ送ってくれてありがとう」
「いえ。こちらこそ付き合っていただきありがとうございました」
「だな!ゆっくり休めよ」
宿屋の前に到着すると、軽く挨拶を交わしてノルンとアトラス、アオイは別れた。
そして、ノルンはアトラスとブランと共に、自身の家への道を歩く。
何ら変わりないいつもの道。
しかしノルンの家までもうそれほどかからないといった場所で、ノルンは突如として足を止める。
それはアトラスとブランも同じくだった。
「…アル」
「…あぁ」
アトラスとブランは目を鋭くし、ノルンの前に立ちはだかる。ブランは前方を見て、低く唸り声をあげた。
「…誰だ」
アトラスの低い声が闇に溶ける。
「…よぅ。初めまして、だな。さて、突然で悪いが、そこの嬢ちゃんが聞いた魔法使いか?」
闇の中から、葉を避けるように音を立てて、ぬっと黒い影が立ちはだかる。
先程の穏やかな夜の空気は一変して、これから起こる不吉な出来事を予期するように葉が音を立てて激しく揺れるのだった。




