48.終焉の吐息
騎士が魔物にとどめを刺した。
静寂に風切り音だけが響いた。
魔物が崩れ落ちる。
「はぁッ……はぁ…」
その光景をただ一人、目の当たりにした女騎士はソフィアであった。
肩で息をするソフィアは一瞬の間を置いて、重苦しい兜をかなぐり捨てた。そしてすぐに辺りを見渡す。
しかし自分以外に立っているものは他に居ない。
「…っ…おいッ…返事をしろ…ッ…!…おいッ…死ぬな、まだ、死ぬな…っ…」
ソフィアはすぐ様近くに倒れている二人の兵士の元へと駆け寄った。
そして二人の肩を強く揺する。
ソフィアはまた近くの他の兵士の元へと駆け寄る。
「頼む…まだ…まだ…」
しかし誰一人としてその声に答えるものはいない。
雪原にソフィアの切迫した縋るような声だけが響いた。
その時、何か崩れ落ちるような音がソフィアの耳に届いた。
ハッとしてソフィアは振り向く。
そこには魔物の残骸の前に膝から崩れ落ちた騎士がいた。
「…っ…!」
ソフィアは急いでその騎士の元へと駆け寄る。
刺された足に突如激痛が走り、顔を歪める。
それでも、一歩、一歩とその人物の元へと駆け寄った。
そして今にも倒れ込む騎士の前に回り、身体を支えた。あまりの体格差と重量に思わず崩れ落ちそうになるも、ソフィアは必死で支えた。
「…………………何故…此処に…」
ソフィアの顔が酷く歪む。
よく、知っていた。
その大きくて逞しい背中を。
剣の振り方も。
勇ましい姿も。
___誰より、知っていた。
ソフィアが震える声で告げれば、くぐもった小さな声が兜の中から聞こえた。
「……あぁ。……良かった。…ソフィア。無事なんだな」
「…っ…」
その瞬間、胸の内で何かが切れたようにソフィアの美しい瞳に膜がはる。美しい透き通る青の瞳が揺れる。そしてそれは静かに音もなくソフィアの頬を滑り落ちた。
騎士は一瞬の間を置いて、兜を外した。
そこには中年程の年嵩の凛々しい顔立ちの男がいた。
ソフィアと同じ瞳を持った男が。
彼の名前はウォルド・エヴァンズと言った。
鷹の総長である。
彼は名前の通りソフィアの父親だった。
ソフィアは言葉が出ない。
本来、戦いの場になど出向かない父が何故この場にいるのか分からなかった。
仲間を失った喪失感と、父が居ることへの安心感と感情に収集がつかなかった。
しかしふと腕に生暖かい感触を感じて、視線を下に向けた。
そこには視界一面の白い世界には不釣り合いな赤が流れていた。ソフィアの瞳が揺れる。赤を追えば分厚い父の胸板には矢が深く刺さっていた。更には胸以外の太ももにも同じく矢を受けていた。
ドクンッ、と激しく心臓が低くなり、突如息が浅くなる。身体が雪原の寒さを思い出したように芯から指先の毛細血管まで凍らせていくようだった。
「……ッ…総長、移動しましょう。昨日野営をしていた場所まで戻れば手当をできるものがあります」
「…いや。私に構うな。お前も、傷を…受けているだろう」
ウォルドはどこか揺らぐ瞳でソフィアの目を見て言った。
「…いえ。…いいえ…。失礼します」
ソフィアはウォルドに貫通している矢を見て、怯えるように小さく首を振る。そして一言断りを入れると、ウォルドの片腕を自身の肩に回した。
そして今にも崩れ落ちそうな足に力を入れて立ち上がる。
「…ソフィア。…私のことはいい」
「……いいえ。…いいえ。すぐ着きます。…少しだけ辛抱を…」
真っ白な銀世界の中をウォルドを担いで一歩ずつ歩く。二人の足跡と共に、来た道を示すように雪原に鮮やかな赤が残る。
ソフィアの荒い息遣いと雪を踏み進む音だけが静寂に響く。
「はぁっ…!!はぁっ…!!」
雪がまるで、全ての音を奪ってしまったように。
___自分の吐息以外何も聞こえない。
全ての色を奪ってしまったように。
___視界には白しか映らない。
それが、恐くて仕方がない。
覇気のない、父の声も。
上手く感じとれない父の息遣いも。その鼓動も。
全て。全て。恐くて仕方がない。
「…ソフィア」
「……はい」
___そんな、呼び方をしないでください。
貴方らしくもない。
思い出す貴方の声は私の名を怒号混じりに呼んでいた。
それもいつからか呼ばれなくなった。
あぁ、違う。父が呼ばなくなったのでは無い。
私が父を避け出したのだ。
柔らかく、名を呼ばれ前を向いていた視線を父に向ける。思わず息を呑んだ。
(…どうして…どうしてそんな顔をなさっているのですか)
どうしてそんなに穏やかな顔で。
ウォルドはとても優しい顔でソフィアを見ていた。
「…ソフィア。…お前に…ずっと…私は…辛く、厳しく…あたってきた」
話し出した父は苦しげに少し眉を顰める。
「…父親らしいことなど何一つ…出来なかった…。…私はお前に…、剣の振り方しか…教えてやることは出来なかった」
___何故今そんな話をするのですか。
やめてください。そんな。まるで。
「…すまなかった。…けれど」
苦しげに謝罪の言葉が父から漏れて。
そして、何かを言いかけて、口を噤む。
胸が締め付けられる。
そして少しの間を置いて、父は口を開いた。
「…ソフィア___立派な、騎士になったんだな」
「…っ…」
そう、言った。
それは久しぶりに聞いた父の声だった。
いつだって愛情に溢れていた頃の優しい、優しい慈しみに溢れた父の声。
思わず視界が歪む。足が止まる。
勝手に流れ落ちるそれに唇をきつく噛み締める。
口内に鉄の味がする。
再び気力だけで足を動かす。
___嬉しい、はずなのに。
誰よりも、誰よりも、父からのその言葉を望んでいた、はずなのに。
(…そんなこと、言わないで…)
ソフィアの嗚咽が漏れる。
こんなの、まるで。
「……っ…やめて…、お父さんっ……」
こんな風に、その言葉を聞くくらいなら。
私は一生貴方に認めて貰えなくたっていいのに。
ソフィアの涙声が雪に溶ける。
ウォルドは逸らすことなくソフィアの顔を見つめていた。
その瞳はどこまでも優しい。
「…もうすぐだから…もうすぐ、…手当ができるから、…だから…だから…っ…」
止まらぬ大粒の雫がソフィアの頬を流れる。
「…死なないで…っ…、………お父さん…っ………!!」
雪原にソフィアの悲痛な叫びだけが響く。
静かにウォルドは苦しげに、微笑った。
「…ソフィア…」
ソフィアは血が流れ続ける自身の足に構いもせず歩みを止めない。
「…いつだってお前は…私の…誇りだ」
「…っ…」
ウォルドは歩みを止める。
それに困惑したようにソフィアがウォルドを振り返る。
「…ソフィア」
真っ直ぐその力強い瞳が注がれる。
嫌。やめて。
ソフィアの瞳が怯えた幼子のように、ひどく揺れる。ウォルドの震える片手がゆっくりと上げられると、その手はソフィアの頬に触れた。
そしてウォルドは同じ色の瞳をしっかりと合わせると___告げた。
「生きろ」
「……っ……」
そして静かに___ゆっくりと、ウォルドはその瞳を閉じた。ただ唯一その一言だけを遺して。
ソフィアの肩に回っていた腕が力を失って解かれる。その身体が雪に倒れ込む。
「…………やだ……………やめて………ねぇ、………おとうさん……、」
ソフィアの震える声だけが、それだけが響く。
ウォルドの表情は穏やかだった。
ただ目を瞑っているだけのよう。
「…いや……………嫌……………お父さん……」
ウォルドの身体に触れる。
その身体は急速に温度を失っていって。
「…あ…あ…ぁ……ぁ……あ"あ"あ"あ"ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!!!」
静寂な音のない世界には一人の女騎士の慟哭がいつまでも轟いていた。




