43.記憶の残像
風呂上がりにリビングへ向かえば、ノルンはいつものように分厚い本を真剣な眼差しで眺めていた。
薪がくべられた暖炉で火の粉が爆ぜる音だけが心地よく響いている。
この一週間世話になり、短い時間ではあったもののノルンを見てきた。そこでソフィアが見たのはノルンが大半の時間を魔法に費やしている姿だった。
夜はいつも暖炉の前で本に向き合い、昼間は魔法薬を作り、魔法を練習する。
それは兵士が鍛錬をするものとなんら変わりない。
ノルンはいつもひたむきに魔法と向き合っていた。
今日も風呂上がり一言二言ノルンと言葉を交わして部屋に向かう。どことなく明日からこの日々を送れないのだと思うと物寂しい。
(…本当に、贅沢な事だ)
そんなことを思いながら部屋に向かう。
そして、ふと思う。
(…ノルンは…何も、聞いては来なかったな)
昼間に聞いた出来事はノルンにとっても衝撃的な話であっただろう。それなのに、ノルンは至って平然で、いつもとなんら変わり無かった。
あの青年の話を思い出す。
(…“父親を見殺しにした女”か)
ランタンの火がソフィアの瞳をそっと揺らした。
◇◇◇
辺り一面真っ白な平原の中激しい戦闘音が鳴り響く。
空を切る銃弾の音。刀が力強く肉を斬る音。
そして魔物の叫び声。兵士の掛け声。
「ソフィア様!こいつらまるでッ…何も効いていないみたいです…!」
「怯むな…!そんなことは無い!必ず今迄の攻撃は蓄積されている!そのまま攻撃を続けろッ…!!」
1つの軍隊が魔物と対峙している。
その魔物はゆうに人の2倍はあって、まるで小人と巨人だ。それも3体をソフィア達は相手にしていた。必死に兵士達が食らいつくも、怪力をもつ魔物に薙ぎ払われてしまう。その拍子に兵士が吹き飛ばされる。
「くッ…立て!!…急いで体勢を立て直せ!!」
「うっ…はッ…はい!!」
すぐさまソフィアが倒れた仲間のもとに駆け寄りサポートをする。しかし仲間のカバーをしているということもあってうまく立ち回ることが出来ない。また足場の悪さも相まって分が悪い。
そんな時だった。魔物の一体が倒れた兵士の傍に落ちていた弓を拾った。
そしてまるで人が射る様に弓矢を構えたのは。
「なッ…!?危ないッ…!!」
「うわぁ…!!!!!」
魔物が一人の兵士に矢を向ける。
咄嗟に仲間を庇うようにソフィアが前に出る。
魔物と兵士の距離は10メートルもない。
真上から覗き込むように魔物が矢を構えている。
ソフィアの瞳に鏃の先端が間近で捉えられ、その瞬間ソフィアは時が止まったように感じた。
(………っ…)
…死ぬ。そう、思った。
鷹で使用している弓は殺傷能力が高く、この距離ならば鎧をつけていたとしても間違いなくソフィアの脳を貫通する。
一瞬の間際、死を覚悟した瞬間だった。
スローモーションの視界の中で、魔物から矢が放たれる。それは真っ直ぐソフィアに向かってくる。ソフィアがその美しい海のように深く美しい瞳を見開いた時だった。突如どこからともなく大柄の鎧を着た者が現れソフィアの視界をさえぎったかと思うと、その人物の胸を鏃が貫いたのだった___。
(…………っ…!!!!!)
「はぁっ…!!…はぁっ…!!…はぁっ……!!!!!」
勢いよくソフィアが飛び起きる。
身体には冷や汗が伝っていて、呼吸がひどく早い。
身体中が心臓になってしまったのではないかと言うほど鼓動が鮮明に大きく聞こえる。
血流は脈打ち、その美しい瞳も瞳孔が開いている。
ソフィアは胸元に手をおいて、動揺を落ち着けるように、まるで荒ぶる心臓を止めるように、服を強く握った。
「はぁ…っ……はぁっ…」
深く息をついて、また吐いて。
少しずつ動揺を落ち着ける。
当たりを見渡せば、そこは眠りにつく前に自分がいた場所。ノルンの家の一室だった。
窓からは月明かりが漏れていて、その一筋がソフィアの雪のように白い肌を照らし出していた。
その光に導かれるようにそっと視線を外へ向ける。
月が出ているのに、外ははらはらと綿雪が舞っていた。
まるで、あの日のように___。
この夢を見たのは、やはり昼間の青年の言葉が原因だろうか。いや、そんなことは言い訳に過ぎない。きっかけはそうであったのだとしても。
(…恐らく私の心はまだ…)
そっと胸から手を離してその手をゆっくりと、握りしめる。傷だらけの、それでいて細くしなやかな女性の手。月光に照らされる美しい白い肌も、今のソフィアにはあの夜の血濡れた自身の拳が、鮮明に浮かび上がっていた。