42.噂
話の中心人物が背後にいるとは露知らず、青年はその後も話続けた。
「これで分かっただろ?その女を泊めるなんて…。馬鹿にも程がある。だから早くその女を…」
青年がそう言いかけた時、青年の言葉を遮るようにして、澄んだ声が響いた。
「何故、ソフィア様が苦しんでいないと分かるのですか」
鮮明にノルンの声が森に静かに響いた。
いつものように抑揚のない、けれどどこか凛とした意志を持った透き通る声が。
「…っはぁ?だから、父親の葬儀の後から一度も休むことなく働いてんだよ!」
「それが、どうしてソフィア様が苦しんでいないという証明になるのですか。…もしかしたら、ご自分の気持ちを抑え込んで、職務を全うしてくださっているのかもしれないとは、考えもしないのですか」
ゆっくりと、その声はソフィアの脳内に入ってきた。その声はいつもの様に淡々としたものではなかった。どこか揺れる感情を抑え込むような声だった。
にわかには信じ難いノルンから紡がれた言葉。
咄嗟には理解できなくて時が止まったように感じられる。ソフィアはただ動揺して瞳を揺らした。
冷たい空気が肺に入って呼吸が浅くなる。
「何言ってんだよ…。ていうかんなこといいからさっさと…!」
「誰に何を言われようと私の家にソフィア様に泊まるようにお伝えしたのは私自身です。…それに」
どこかノルンの言葉に気圧されたものの、再び大きな声を張りあげる青年。
しかし再びその言葉をノルンは遮った。
そして、再び口を開く。
「…ソフィア様はそんな方ではありません。…私たち市民のことを大切に思ってくださる、心優しい騎士様です」
息を___呑む。
それはいつも自分では無い誰かに贈られる言葉だった。
何をしようと、魔物を討伐しようと、悪人を捕らえようとその言葉が冷酷無慈悲な無愛想な女に向けられることはなかった。
いつだってその言葉は他の誰かに向けられていて。
だから、まるでその言葉が自分に向けられているだなんて思わなくて。
胸が、詰まるように苦しい。
息を、止めていないと今にも何かが崩れ落ちそうで。零れ、落ちそうで。
「…本当に馬鹿だな。騙されてんだよ。本当にお気楽だなお前は」
冷たく突き放すような言葉を青年はノルンに向ける。
その言葉に今すぐ間に入ってノルンを背に庇いたかったが情けないことに足は動かない。
「そうは思いませんが。では、もし…もし、そうだったのだとしても」
ゆっくりと、丁寧に、大切に紡がれる。
「…私は…私と過ごしてくださったソフィア様を信じています」
抑揚のない声ではなく。
それは、しっかりとしたノルンの確固たる意志の現れだった。
音にならない声が小さな呼吸とともに口から漏れる。
思わずその場にしゃがみこむ。
爪がくい込んでいた掌がゆっくりと、開かれて、ソフィアはそっと顔を覆うようにそっと両手を顔に当てた。
一筋。音もなくそれはソフィアの頬を流れ落ちた。
ソフィアは言いようのない自身の感情に、荒ぶる感情に戸惑っていた。
地面に膝を着いて、顔を両手で覆う。
その肩は小刻みに震えている。
ノルンには___知られたくなかった。
聞かれたくなかった。
どうして。何故。
そう考えるも理由はどこかで解っていた。
それはここ一週間でソフィアがノルンという少女を好意的に感じ、知らぬうちに心を許してしまっていたからである。
家族以外の他人と生活を共にしたことなどなかったのに。仕事以外での人との関わり方、距離感なんてわからなかったのに。
ノルンと過ごす時間はとても暖かくて、居心地が良くて。扉を開けて出迎えるノルンはいつも労いの言葉をかけてくれて。
食事の際も、入浴の際も、寝床に入る前も、いつも小さな気遣いが散りばめられていて。苦手なものはないか、寒くはないか。寝心地はどうか。そんな些細なものが、どうしようもなく嬉しかった。
だからこそ、自分が“鉄の女”だと、冷酷無慈悲の女騎士だということを___父を見捨てた罪人だと言うことを知られたく、なかった。
けれど。
ノルンは受け入れなかった。全て。
それ所か、自分のことを庇ってくれた。
こんな、一人身体を抑え込む、不甲斐ない騎士を。
小さく音にならない声がソフィアから漏れる。
哀しいのか。嬉しいのか。喜びか。安堵か。
一口に名をつけられないほどの感情が押し寄せる。
ただ一人。静かな森の中でいくら時が過ぎようとソフィアは長い間顔を覆っていた。
◇◇◇
気づけば太陽は落ち始め、空は淡いパステルカラーのグラデーションに美しく染め上げられていた。
どうやらかなりの時間が過ぎ去っていたようだ。
空をぼんやりと眺めながらふとそんなことを思う。
(…そろそろ帰らねば心配させてしまう。しかし…)
ゆっくりとした動作で背後の木を支えに何とか立ち上がる。
そしてそっと手を目元にやる。
(…腫れていないだろうか。…顔は、大丈夫だろうか)
二人に勘づかれることは無いだろうか。
そんなことを思いながら小さくため息を着く。
(…情けないな)
苦笑が漏れる。
鉄の女と呼ばれる女がこの様なザマとは。なんとも情けないな。自虐的な笑みを零してソフィアは顔を上げた。
どちらにしてもそろそろ帰らねばなるまい。
ノルンを心配させてしまうだろうから。
そう思うとソフィアはゆっくりと歩を進めた。
ソフィアがノルンの家の戸を叩けば、いつもと変わらずノルンが戸を開けて労いの言葉をかけた。
そのうちアトラスも帰ってきて3人の食卓が始まった。アトラスが今日行ったギルドでの話や狩りの話をするのを相槌をうって聞く。
途中、話が一段落したところでアトラスがそう言えば、とソフィアに向き直った。
「やっと宿舎の空き部屋の巨大タランチュラを倒したみたいだぜ?それで掃除もほぼほぼ今日中に終わったからソフィアは明日から宿舎に泊まれるらしい」
よかったな!、と笑うアトラスに思わずソフィアは呆然とする。どうやら帰り道にアランとすれ違いソフィアへと伝言を頼まれたそうだ。ソフィアはそうだったのか、と静かに頷く。
「そうか。それは助かる」
「おう!てことはソフィア泊まるのも今日が最後になるのか」
「…あぁ。そうだな。本当に世話になった。ノルン、アトラス」
アトラスの言葉にどこか名残惜しさを覚える。
この一週間でいつの間にかすっかり暖かい出迎えと食事に安心感を覚えてしまっていたようだ。
(…仮に住まわせてもらっていただけなのだが…贅沢な話だ)
思わずそんな自分に苦笑する。
ノルンは表情を変えることなく、アトラスの話に少し反応しただけだった。
そしてソフィアに目を合わせる。
「いえ、私は本当に何もしていません。良かったですねソフィア様」
「あぁ。そうだな」
最後に少しだけ声色を柔らかくして。
そんなノルンに静かに眉を下げてソフィアも頷いた。
名残惜しいなどという馬鹿げた感情を押し殺して。
それから夕食を終え、軽い雑談をして寝床に入るまで結局ノルンがソフィアに昼間聞いたことを口にすることは一切なかった。




