29.“白狼と少女”後日譚
ノルンがブランをフォーリオの街へ連れ帰ってから数ヶ月の時が過ぎ去り、肌を撫でる風は少し暑いものに変わっていた。
そんなある日、ノルンはいつもの様に朝起きて、育てている薬草、花々に水を上げたあとに軽く身支度をすると街の外れに位置する秘密の隠れ家の様な家をそっと後にした。
ノルンの後ろからは主が家を出ていくことを察したのか大きな白い狼がゆっくりと着いてくる。
ノルンもそれを確認すると燦燦と降り注ぐ太陽に一度眩しそうに目をやってからそっとフードを被って歩き始めた。
太陽の熱から逃れるようにノルンはすぐに森の木陰に入る。木々の間を通り抜ける風はどこか温度が低く、水の音、鳥のさえずりが暑さを和らげる。
慣れたように道を歩くノルンがやってきた場所は、ノルンの育ての親であり、魔法の恩師でもあるフローリアの自宅だった。こじんまりとしていて、それでいて趣のある家だ。
ノルンは軽くノックをする。
すると中から笑顔のフローリアがまるで訪れる人物をわかっていたというように招き入れるのだった。
「おはようございます。師匠。お約束していたものを渡しにきました」
「ふふ。おはようノルン。えぇ、ありがとう。昨日お願いしていたロリアの葉ね」
「はい」
家の中に入ると一気に気温が落ち、暑さが和らぐ。
ノルンは持っていたトランクの収納のひとつからひとつの瓶を取り出す。その中には青々しい葉が数枚重ねて入れられていた。
ノルンはそれをフローリアに手渡す。
魔法使いであり、薬師でもあるフローリアはいつも魔法薬を調合している。しかし現在調合している魔法薬の原料が無くなってしまったらしく、それを昨日ノルンにふと零したところ、ノルンが育てているものが余っていたため持ってくることになったのだった。
「本当にありがとう。助かるわ」
フローリアの柔らかい笑みにノルンは少し表情を和らげて緩く首を振る。
「…他にも必要なものはありますか?」
ノルンが聞けば、フローリアは少し考える素振りをしたあと、何か思い当たることがあるようだったが、口を開きかけては閉じ、ノルンに伝えるかを迷っているようだった。
「…師匠、月夜草が足りませんか。それとも雪花でしょうか?」
そんなフローリアにノルンはそっと問いかける。
するとフローリアは少し目を丸くした。
そして申し訳なさそうに眉を下げた。
「…えぇ。そうなの。月夜草が少し…。でもノルン、貴方も余りがある訳ではないでしょう?」
フローリアの言葉にノルンは頷く。残念ながらノルンも今は手持ちに月夜草を持っていなかった。
月夜草とはその名の通りその花弁にはとても貴重な成分が含まれており、魔法薬にも頻繁に用いられる。
しかしこの辺りで月夜草が咲く場所はフォーリオを西に少し行った場所にある。
以前もノルンは月夜草をフローリアに頼まれ、採りに行ったことがあった。
フローリアはノルンに薬草採取を頼む際、いつも決まって申し訳なさそうな顔をする。それはフローリアが片足を不自由にしている為だ。フローリアが自分ではもう薬草を採取しに行くことが難しくなってしまったから。
ノルンはそっと口を開く。
「師匠。私が行ってきます。丁度私も他に採取したい薬草がありますから」
フローリアは眉を下げたまま、ノルンの言葉を聞いて小さく頷いた。
「…それじゃあお願いしようかしら。いつもごめんなさいね。ノルン」
「いいえ。師匠。私、いつも楽しいです」
ノルンが素直にそう言えばフローリアは柔らかく微笑んでノルンを送り出すのだった。
月夜草はフォーリオを西に進んだ森によく咲いている。ブランと共に数時間歩いて、森に着くと早速いくつもの月夜草が目に入り、ノルンは丁寧に月夜草を採取した。
そんな時、静寂な森に乾いた発砲音が鳴り響いた。
ノルンの隣にいたブランの耳がピンと立ちある方向を見つめていた。ノルンは急いでフードを被り直すと音のした方向に足を向けた。
すると誰かが魔物と戦闘しているようだった。
少し目を見開いて、木々を盾にして様子を見守る。
そしてノルンはその人物を見ているうちにハッとして目を見開いた。
魔物と戦っているものは鮮やかな身のこなしで次々と魔物を倒していく。しかし目の前の魔物と対峙している間に、狡猾な魔物が一匹背後に回り込んで飛びつこうとしていた。
その瞬間、ノルンはグランディディエライトの瞳を見開き、手を広げると一瞬で魔法の杖を掴み、その先端から攻撃を繰り出すのだった。
大きな音を立ててその人物の背後の魔物をノルンの魔法が撃ち抜いた。
その音に驚きその人物が振り返るも、
「…えっ……うわっ…!?」
その拍子にその人物は少し段差のある後ろの地面に転がり落ちていってしまった。
どうやら魔物は全て倒したようだ。
ノルンが仕留めたのは最後の一匹だけ。他は全てあの者が倒したようだ。
ノルンはその人物の元に向かう途中で、そっと眉を下げた。その人物が落ちたところを覗き込めば、鮮やかな黄色の花の絨毯に座り込み、落下した際に打ったのか、頭を抑える人物がいた。
ノルンは無意識に口元を緩めると静かに地面を降りて、少し屈んでその人物にそっと手を差し伸べてこう言った。
「大丈夫ですか。アトラス」
と。
その声に、柔らかい毛並みを持ち、金色の瞳を持つ彼はそっと顔を上げて眩しそうに目を細めた。
そしてその大きな瞳を細めて笑うのだった。
「また助けられちまったな。ノルン」
久しぶりに見た太陽のような微笑みに懐かしさが込上げる。たった数ヶ月前のことだと言うのに。
ノルンの手を取りアトラスが立ち上がる。
「…いいえ。それより、どうしてアトラスが此処にいるのですか?騎士団に戻ったのではないのですか?」
アトラスと目を合わせて不思議そうに聞くノルン。
アトラスはその言葉を待っていたかのようにニッと笑った。
「辞職願いを出してきたんだ」
ノルンの表情を伺うように、少し慎重に。
そして最後にはいたずらっ子の様に笑った。
「…え」
ノルンの声が漏れる。
いつも無表情のその顔には驚きが滲む。
その顔にアトラスは満足したように笑った。
「…ノルン。前言ってたろ?今度は父親を探しに行くって」
「…はい」
状況についていけないままノルンはアトラスの質問に頷く。
「それ、俺も一緒に行っていいか?」
「…え」
そしてまた次の言葉に目を丸くする。
驚き続けるノルンにアトラスはどこか面白そうに笑う。
「…出会っちまったからな」
「…?」
そう言ったアトラスの表情は前よりもどこか清々しくて、一層眩しく感じられた。アトラスの言葉にノルンは首を傾げていた。
風が花弁を揺らす中、ノルンはアトラスの言葉の意味を理解できないまましばらく目を瞬いて放心していたのだった。
___本気なのですか?アトラス。
___あぁ。オレがお前の騎士になってやる。
それが夏のとある日の出来事だった__。