26.君になら
幸せな時間を堪能していると、ふとノルンが口を開く。
「このケーキはアオイさんが作られたのですか?」
「…えっ」
ノルンの顔はケーキから上げられアオイを見つめていた。アオイは頬杖をついていた手から思わず顎をかくん、と落としてしまいそうになった。
慌てていつもの様に反射的に否定する。
「う、ううん。これは僕の母さんが作ったんだ」
ズキン。自分で否定をしているくせに胸が痛む。
「そうなのですか」
ノルンが疑う様子は無い。
しかしアオイはノルンの次の言葉にまた戸惑ってしまった。
「とても、すごい方なのですね」
「……」
その言葉にノルンから逸らしてしまった視線をノルンに向ける。
「…すごい、のかな」
ノルンはケーキを見つめ頷いた。
「はい。私にはできません。とても、すごいことです。現に今、私はこのケーキをいただいてとても幸せなのですから」
ノルンの言葉に息を呑む。その顔は本当に幸せそうで。先程もノルンはビルの前でお菓子を作ることができるのはすごいことだと真っ直ぐに肯定してくれた。
今まで人目を気にして、お菓子を作ることが好きだと言ったことは無かった。また女みたいだと言われてしまうのがどこか怖くて。
でも、もしノルンに言ったら。ノルンは自分が作ったと言っても肯定してくれるだろうか。
そう思った時には震えそうになる声で自分の膝の上に置いてある手元を見つめてノルンの名前を呼んでいた。
「…ノルンちゃん」
「はい」
心臓が音を立てる。身体が強ばる。冷や汗が出る。口が乾く。手先が冷たく震えそうになる。
それでも、今日見た限りの優しい彼女を信じて言葉を紡いだ。
「ノルンちゃん。そのケーキ本当は僕が作ったんだ」
口にし終えた瞬間、静寂が訪れる。思わず拳を握る。自分で話しておいてノルンの返答を聞くことが怖った。耳がノルンの言葉を拾うまでの時間がとても長く感じられた。しかしノルンは声色を変えることなくサラリと言ってのけた。
「そうなのですか。アオイさんは本当にすごい方なのですね」
そこには本人は気にしていないかもしれないけれど、絶対的な優しさを纏って。アオイはその声を、言葉を耳が拾った瞬間、脳が言葉を理解した瞬間、ゆるりと手の力を抜いた。全身の力を抜いた。ゆっくりと息が吸えた。
ゆっくりと顔を上げれば先程と何ら変わりないノルンがいた。あまりにノルンの態度が変わらないから思わず聞いてしまった。
「…変だと、思わないの?」
「何故ですか」
「…お菓子作りをするなんて、女みたいとか」
ノルンはアオイの言葉に口を開きかけて閉じる。
まるで言葉の意味の真意を考えるように。
「…申し訳ありませんが、アオイさんのおっしゃっている言葉の意味を理解できません。私はアオイさんがこのケーキを作ったと聞いて、とてもすごいと、とても素敵な方だと思いました」
黙ってノルンの言葉に耳を傾ける。
「もし一般的に、というお話をしているのでしたら…それでもお菓子を作ることが女性らしい、と私は思いませんが…」
「うん」
「こうして旅をしている最中、魔物を倒している私は男性らしい、のかもしれません」
「えっ」
何ともない顔で言ってのける目の前の少女。
正直、自分を肯定してくれたこととは別にノルンが魔物を倒している、ということに驚いた。こんなに細い女の子の身体で魔物を倒しているのか、と。にわかには信じられない。しかし彼女の言葉は疑うという疑問も湧かないほど淡々としていた。
大きなお世話だと思うけれど、勝手に心配になってしまう。
「魔物を倒してるの?」
「はい」
「えっと…ノルンちゃんが?」
「はい」
困惑するアオイにノルンは淡々と答える。
「大丈夫?怪我とかしない?」
「はい。旅には慣れているので。それにアトラスとブランもいますから」
「そっか」
ブランというのが狼の名前なのだろう。
確かにアトラスは戦い慣れしていそうだ。
ブランと呼ばれた狼はおそらくウルガルフだ。
ウルガルフの戦闘能力の高さはもちろんアオイも知っている。
ノルンの言葉を聞いてほっとアオイは胸をなでおろした。そして、改めて先程のノルンの言葉を思い出した。するとノルンがアオイを見つめてそっと口を開く。
「…どうかしましたか?」
「え?」
「…いえ。とても、優しい顔をされていたので」
恥ずかしい様子もなくノルンは言う。
その言葉にアオイはそんな顔してたんだ、と思いつつ、やはり頬を緩める。
「…ありがとう。ノルンちゃん」
眉を下げ、礼の言葉を述べるアオイにノルンは言葉の意図が分からないようだったが、ノルンは静かにアオイの言葉の続きを待った。
「…本当は誰かにお菓子を作ることができる、っていうのもお菓子作りが好きっていうのも怖かったんだ。女みたいだって、昔言われたことがあって」
「……」
「でも、なんだかノルンちゃんを見ていたら言いたくなって。僕の作ったお菓子で笑顔になってくれたのが…嬉しかったんだ」
ノルンは真っ直ぐアオイを見つめている。
「昔君にあげたのは母さんが作ったケーキだった。…でも今度は僕が作ったケーキでノルンちゃんは幸せそうにしてくれた。ありがとう。すごく嬉しいんだ」
そういったアオイの顔は何か吹っ切れたような清々しい顔をしていた。ノルンは何を言うでもなく、ただアオイの表情を見て、改めてアオイの瞳を見つめ返して、ほんの少しだけその瞳にの弧を描くと頷いた。
 




