230.昔話
カタン、とアトラスが力なく椅子に腰を下ろす。
その瞳は未だ信じられないと言う様に揺らぎ、呆然とアランを見つめていた。
(………ノクス…)
その言葉はどこかで聞いたことがある気がして、しかしその言葉が何を指し示すのか思い出すことが出来ない。
重苦しい静寂が落ちる。
ノルンは静かにアランから視線を逸らして、アランの横に座るレオ、それからフローリアを見た。
レオは普段から無愛想な表情を更に顰めており、フローリアに至っては珍しく眉をひそめ、冷や汗を流し、口を噤んでいた。
膝に視線を落とすその顔色は青白く、ノルンは思わず口を開いた。
「…師匠」
ノルンが呼びかけるもフローリアは顔をあげない。
否、聞こえていないようだ。
フローリアはただ視線を落とし、スカートの裾を震える手で強く握っていた。
「……………」
ノルンは思わず薄く目を見開く。
それから、もう一度、今度は先程よりもはっきりと、少し声量をあげて、その名を呼んだ。
「…フローリア様」
「…っ」
その瞬間、はっとフローリアが纏っていた空気が解ける。フローリアはゆっくりと、恐る恐ると言ったように顔を上げた。
ノルンの表情は至って普段と何ら変わりない。
彫刻の様に整った顔立ちだけがそこにはあった。
「…大丈夫ですか。師匠」
「…ノルン」
ノルンがフローリアを案じる言葉をかければ、フローリアは揺らぐ瞳でノルンを捉え、それから胸に手を当て、自身を落ち着けるように小さく息をついた。
「…師匠」
レオも同様に心配げにフローリアに声をかける。
フローリアは顔を上げると、ノルン、それからレオを見て安心させるように微笑んだ。
「ごめんなさい。二人とも。大丈夫、平気よ」
にこりと普段のように笑ってみせるフローリア。
その表情は既に普段通りの優しげな笑みで、先程のような何かに怯える様子では無かった。
その事に少し心の中で安堵しながらも、ノルンは先程のようなフローリアの様子が頭から離れなかった。
そこで、あの、とどこか気まずそうにアオイが小さく声を発した。
「…“ノクス”って…一体何なんですか?…すみません、無知で…僕、知らなくて」
「…私もです。アラン、アル。どういう意味なのですか」
アオイの言葉に続けてノルンは言う。
それから難しい顔を浮かべるアランを見た。
ポーラも何とか話について行こうと体制を立て直すと、椅子の上に立ち、頭を机の上に覗かせると同調するように何度も頷いた。
ノルン達の言葉にアランとアトラスは更に表情を険しくさせた。
そして、どこかその説明をノルン達にすることに戸惑っているように見えた。
「…話せない内容なのですか」
ノルンが変わらない声色で問う。
するとアランは少し眉尻を下げてそれから小さく首を横に振った。
「…いや。違うんだノルン」
そしてアトラスがアランの言葉を引き継ぐように頭に手を置いて言う。
「…あぁ。少なくとも俺は…まだ信じられていない。…アランもそうだろ」
「…あぁ」
二人の様子にノルンは言葉を噤む。
二人がここまで、頭を抱える問題とは一体何なのだろうか。知りたいという探究心と共に、どこかで、触れてはならない一線のような気もする。
アオイも目の前の二人の様子に困惑を浮かべていた。
「…そうね。それじゃあ私から話しましょう」
「…師匠」
その時、優しげな声でそう言ったのはフローリアだった。柔らかな口調と優しげな微笑み。
しかしやはり、その瞳の奥は揺らめいて、悲しげな影が漂っているような気がして、ノルンにはならなかった。
「…少し昔話をしましょうか」
ふとそう言ったフローリアの言葉にノルン、そしてアオイは首を傾げる。
しかし恐らくフローリアの話そうとしていることは“ノクス”という何かに関係があるのだろうと察し、ノルンは静かにフローリアの言葉を待った。
フローリアは静かにノルン、アオイ、それから他の席につく者たちの表情を伺うと満足したように頷き、それからまつ毛を伏せてゆっくりと口を開いた。
「…これは今から役20数年前に起こった出来事のお話___」
そこから語られたのは近年で最も大きなハルジア大陸で起こったとある大戦の話だった___。




