203.踊って。
エルガーは心を整えるように小さくふぅ、と息を吐く。それからヴァイオリンを挟み込むようにして肩と首の間に置く。
そして片方の手で掴んでいる弓を静かに弦の上に乗せた。
弓を持つ手がゆっくりと左右に動かされ、弓は弦の上を滑らかにすべる。
そこから奏でられたのはどこか艶めきのある、それでいて僅かの切なさが滲む音だった。
その瞬間広間にいた者達が息を呑んだ。
少しずつ音色は音程を変えてまるで物語を紡ぐように繋がっていく。
ゆっくり、ゆっくりと____。
夜の街にその音色は際立って美しく響く。
街の街頭に灯る橙色の炎が揺らめく。
広間に飾り付けられたキャンドルも相まってエルガーの奏でる演奏はどこか切なくも美しく人々の心の旋律を震わせた。
ノルンは静かに目の前でただ一心にヴァイオリンに身を預けるようにして音を奏でるエルガーを見つめていた。
最初は恐る恐るといった様子でごくりと生唾を飲み込み、震える指先で弓を傾けていたエルガー。
しかし今はもう怯える様子などはなく、ただその瞳には美しい艶やかなヴァイオリンのみを映して。
伸びやかに切れ目なく連なる旋律は美しい。
よく晴れた星空に吸い込まれていく。
その音色にノルンは静かに美しい宝石目を伏せた。
ただ、美しい音色に酔いしれる。
それは周辺に佇む街の人々も同じようだった。
自分たちでエルガーに演奏を強請っていたというのに今ではエルガーが奏でる演奏にぽかんと口を開けて目を丸くしている。
エルガーの奏でる音はエルガーの心情そのもののようだった。
始めは遠慮気味に、慎重に始められた演奏。
しかし次第に曲のテンポは速くなってエルガー自身のヴァイオリンに重ねる弓の動きも滑らかに変化する。
「…すごい」
「…あぁ。いい音だな」
不意をつかれたのはアオイも同じようだった。
思わずその美しい音色に耳を奪われ、視線をそらすこともできなかった。
皆がエルガーの奏でる旋律に耳を傾ける。
そこでエルガーのヴァイオリンに合わせるようにして、何かを叩く音が重なる。
同時に、柔らかな風の通る音が吹き抜ける。
そこでは先程まで広間で演奏をしていた人物がそれぞれエルガーの近くに歩み寄って楽器を構えていた。
エルガーが奏でるヴァイオリンの音に加えて、まるで太鼓でも叩いているかのようなリズミカルに木箱をたたく音。
柔らかな息が通り抜けるフルートの音。
そして弦を指で弾くギターの音。
それらは重なり合っていつしか美しい四重奏が奏でられていた。
エルガーはその事に気づくと一瞬瞳を丸くしてから、思わず頬を緩ませる。
そして一層ヴァイオリンを奏でる。
演奏は次第に軽快になっていく。
人々も手拍子をして、足踏みをしてリズムをとる。
そこでエルガーの視線がふとノルンに向いた。
「…なぁノルン」
「__はい。エルガー様」
「踊ってよ」
エルガーは笑顔でそう言った。
それは目を細めて、弾けんばかりの輝かしい笑顔だった。
その途中もヴァイオリンを演奏する手は止まらない。
ノルンは思わず言葉の意味が理解できず、数回瞬きを繰り返す。
そして考えたあとで正直に結論を伝える。
「…申し訳ありません。エルガー様。ご期待に添えることは出来かねます。…私は踊りを踊ったことがないのです」
「うん。でも、踊って」
申し訳なさげにノルンが伝える。
しかしエルガーは優しく頷いて、柔らかに細められた視線をノルンに向ける。
僅かにノルンが戸惑う。
その時だった。
一人の店番をしていた女性が広間の中央に出たかと思いきや、足元までのスカートを両手でたくし上げてくるくると踊り出したのだ。
手で、足でリズムをとってヒールの靴でステップを鳴らして。
そして気づけば街の広間を中心としてたくさんの人々が手を取り合い、エルガー達の演奏に合わせて踊り始めたのだ。
音楽に合わせて人々は手を取り合い踊る。
皆、笑顔で本当に楽しそうに___。
その様子をノルンは静かに眺める。
そして視線をエルガーにこっそり向ける。
エルガーは気づけば満面の笑みでヴァイオリンを弾いていた。もうそこには不安や恐れは全く無くて。
僅かにノルンの表情が和らぎ口角が上がる。
そんな時ノルンの目の前にふと手が差し出された。
ノルンは首を傾げながら頭をあげる。
そこには少し照れたように微笑むアオイが居てしなやかな片手をノルンに向けて差し出していた。
「ノルンちゃん、良かったら僕たちも踊らない?」
ノルンは少し驚いたように目を見開いてそれから迷う。本当に踊ったことは今まで生きてきて全くない。ノルンは逆光のアオイの顔をちらりと見る。
少し頬が染まっている気もするけれど暗くてあまりよく見えない。
ノルンたちの目の前では華麗に皆がリズムに合わせて踊りを繰り広げている。
ノルンは少し迷うように考え込んでからゆっくりとアオイの手のひらの上に自分の手のひらを重ねる。
アオイは自分で誘っておきながら、ノルンが手を重ねると少し驚いた表情をした。
そしてその後で嬉しそうに目元を和らげてノルンの華奢な手を優しく握り返した。
アオイにエスコートされるがまま少し先に歩いてアオイと向かい合う。
アオイは踊りを踊った経験があるのだろうか。
アオイにリードをしてもらいながらノルンは周囲の人の踊りを見よう見まねで真似る。
金糸の髪が柔らかに舞い、髪につけた金花草が角度を変えてきらりと黄金に輝く。
ブーツを鳴らす度に応じてスカートがふわりと揺れる。
夜空を映し出す幾重にも深い色を重ね合わせたようなグランディディエライトは少し自分よりも高い位置にあるアオイの顔を見つめ、それからヴァイオリンを傾けるエルガーにそっと視線を移した。
少しの距離を持って、静かに瞳が交わる。
その瞬間、彼は、それは___言いようのないほど歓喜に満ちた表情で花が咲いたように笑った。
「お。いいな!俺らも踊るか?ポーラ」
「うん!」
街の人々に混ざって何度も、何度もステップを重ねる。
暖かな炎が充満する広場で人々は笑い歌い踊った。
踊りを踊りながらふとアオイの奥に人だかりから離れて立つロバートを見つけた。
ロバートは静かに一人で煙草を吹かしていた。
しかしその視線はある一点から微動だにしない。
その視線の先を見なくともノルンには何となく想像が着いた。
きっとその先には彼の愛しく思う家族がいる事であろう。
ノルンはロバートの表情を思い出して少し瞳を伏せた。美しいグランディディエライトに影がさす。
ノルンの瞳に映ったロバートは分厚いレンズの奥の瞳を細め、豊かな口髭に囲われた口を少しだけ上げていた。
皺の中にある小さな瞳には優しげな熱が籠っていて。ノルンはそっと瞳を閉じて視線をロバートから目の前のアオイに移すと、再び彼の孫が奏でる軽快な演奏に身体を委ねたのだった。
___どうか、彼の夢が叶いますように、と願いを込めて。




