202.報酬
気づけば広間に集まっている人々の視線はエルガーに向いていて、皆期待に満ちた表情を浮かべている。
突如注目の的になってしまったエルガーは動揺し、辺りを見渡した。
「エルガー弾いてくれよ!」
「一曲弾いてみてよエルガー」
「…だから無理だって言ってるだろっ…!」
街の人々は朗らかに笑い、酒瓶を掲げる。
そこに悪意などは全く感じられず、ただみんながエルガーがヴァイオリンを奏でることだけを期待していた。
エルガーは今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。
こんな大勢の人の前で演奏などしたことは無い。
そもそもエルガーが人前で演奏をしたことなどなく、それこそ意図せず練習中の演奏を聞かれてしまったのがノルンだったのだ。
エルガーは思わず周りの視線を逃れるように俯いて自身の足元に視線を落とす。
ヴァイオリンを握る手に力が籠る。
ノルンが小さくエルガーの名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
しかしそれでも顔をあげられないほどエルガーは動揺していた。
その時ふぅー、という声が目の前から聞こえエルガーは思わずゆっくりと顔をあげる。
そこには煙草を指にひっかけ白い吐息を吐き出すロバートがいた。
「…俺の前であんな啖呵をきってたじゃねぇか。エルガー」
「…っ…」
ロバートの言葉にエルガーはぐっと喉を詰まらせる。
情けなかった。
ヴァイオリンの奏者になると言いながら人前で演奏をすることを怖がっている自分が。
ロバートに図星をつかれたことでより、エルガーの胸の内は苦しくなる。
そしてエルガーはロバートに見栄を張るように顔をきっと顰めるとその肩に艶やかなヴァイオリンを構えた。
街の人のどよめきが聞こえる。
ふぅーっとゆっくり息を吐き出して弓を弦の上にのせる。
しかしそこからはまるで手が動かなかった。
腕は小刻みに震えて、緊張からなのか冷えきった手先ではうまく弦を弾けそうにない。
エルガーはどうしたらいいのか分からず、瞳孔を開いたまま冷や汗を流す。
「…エルガー様」
そんな時、その声は聞こえた。
決して大きくはないけれど透き通った耳によく通る声。
エルガーはその人物に顔を向ける。
困惑の最中、ノルンを見つめたエルガーはまるで幼い子どもが縋るような瞳をしていた。
ノルンは出会った時と同じように澄ました美しい顔でその薄い唇を開く。
「…エルガー様。エルガー様の演奏はとても…とても、心地の良い演奏でした。エルガー様の演奏を初めてお聞きしたとき、私はとても満たされた心持ちになりました」
ノルンは不安げに瞳を揺らすエルガーに言葉をかける。伝えたいことがうまく伝わっているかはわからないけれど。それでも慎重に言葉を選んで、声にする。
「…ですからご安心ください。エルガー様の演奏はきっとここに居る皆様を幸せにします。それでも、もし今ここでエルガー様がご不安に感じる様でしたら…」
そう、だとしたら…?
エルガーは心の中で問いかける。
ノルンはそこで橙色の街の街頭に照らされた顔で薄く瞳を和らげた。
「…逃げてしまいますか?」
「え…?」
「一緒にここから逃げてしまいますか?」
思わずエルガーは予想だにしていなかった言葉に聞き返してしまう。
それでも、ノルンの答えは先程自分が耳にして、疑った言葉と変わらなかった。
エルガーはノルンの真意を図るようにその瞳を真っ直ぐ見つめる。
美しい夜空を映し出す瞳の中には、不安げに戸惑いを浮かべるエルガーが映っていた。
おおよそ冗談を言っているようには聞こえない。
そしてまだ出会ったばかりではあるものの、エルガーにはノルンが冗談を言うタイプではないような気がしていた。
逃げるって一体どうやって。
自分が今ノルンの言葉に頷いたならばノルンは一緒に走って此処を抜けてくれるのだろうか。
それを頭で想像した時、思わずふっと口から笑いが漏れた。
「本気か…?」
「勿論です」
「ぷっ。そうか」
エルガーは再び念を押され思わず吹き出してしまった。そして軽く笑ってから大きく息を吸う。
酸素が肺いっぱいに入り、気持ちが落ち着く。
先程まで今すぐにでもこの場から逃げ出したかったというのに。
不思議と今は心が落ち着いていた。
逃げてもいいと言って貰えたからだろうか。
エルガーはもう一度笑みをこぼすエルガーを不思議そうに見つめるノルンに視線をやる。
「なぁ…ノルン。演奏が上手くいかなかったら一緒に走って逃げてくれよ」
「承知致しました。エルガー様」
「おいおい」
「その時は僕たちも一緒だね」
ノルンはただ静かに頷いて見せた。
ただそれだけのことに背中をおされ、気づけばエルガーは再び肩にヴァイオリンをのせて、もう片方の手で弓を弦に置く。
そしてエルガーはゆっくりと弓を掴んでいる片手を引いて、秋の夜空に美しい艶やかな高音を響かせたのだった。




