194.親心
突如聞こえてきた怒声。
ノルンの足元にいたポーラはかなり驚いたらしく身体中の毛を逆立てて目を見開いて、ノルンの足に掴まる。
すると次の瞬間勢いよくアトラスが立っていた目の前の扉が大きな音を立てて開く。
アトラスも思わず目を見開くが、そこから飛び出てきた人物も扉の先に誰かがいるとは思っていなかったのか、少し動揺を見せる。
しかし、それも束の間。
飛び出してきた人物は一瞬の間を置いて、ノルンの横をすり抜けてどこかへ走っていってしまった。
「………………エルガー様」
その人物にノルンは見覚えがあった。
それは昨日ロバートの頼みで探しに行ったエルガーだった。
状況は掴めないながらも、ここで引き返すこともできずアトラスは申し訳なさそうに扉の奥をのぞき込むように顔を出した。
「あー…爺さん。悪いな。取り込み中だったか?」
アトラスの視線の先には呆然と立ち尽くしたロバートが居た。ロバートはアトラスの姿を見るなり、はっとしてそれから眉間によった皺を解すように指で抑えると深いため息を吐いた。
「…すまなかった。聞こえたか」
「あぁ」
「はぁ…。そうか」
ロバートはそう言うとどこか疲弊した表情でゆっくりと椅子に腰をおろす。
「…靴を受け取りに来たんだろう」
「あぁ」
「情けないところを見せたな。靴ならほれ。出来ている。持っていけ」
ロバートはすぐ側の作業台の上に置かれた一足の靴を手に持つとそれをアトラスに手渡した。
アトラスは礼を言って靴を受け取り、その場で履き替える。
「お、なんか前よりすげぇ歩きやすくなってる。ありがとな。爺さん!」
「あぁ」
アトラスが礼を言うとほんの少しだけどこか落ち込んでいる様子のロバートの表情が和らいだ気がした。
靴紐をきゅっと結んでアトラスが満足そうに頷いて顔をあげる。
そして意味ありげな瞳でロバートを見つめると余裕をうかべた笑みで口を開く。
「んで?一体どうしたんだ?喧嘩か?」
「…はぁ。お前さん等には関係のない事だ」
アトラスがそう聞けばロバートは難しい顔を浮かべこれ以上踏み込むなと言わんばかりに首を振った。
ノルンは部屋の入口でなんとも言えぬ空気にアオイと視線を合わせる。
「まぁまぁ。そう言うなって。聞いちまったんだからほっとく訳には行かねぇだろ?」
しかしアトラスは理解をして尚、引く様子は見せなかった。ただ口角を上げて真っ直ぐロバートを見つめる。
ロバートは眉間の皺を更に深めてもう一度ため息をこぼした。
「…お人好しな奴らだ」
「まぁな」
ロバートはフッと笑みをこぼすと、再び難しい顔をしてちらりと部屋の隅にあるものに視線を移した。
そこには昨日エルガーが手にしていたヴァイオリンのケースが壁に立てかけられていた。
「あいつは…あいつの両親はあいつが小さい時に死んじまってな。それからは俺が今まで面倒を見てきた」
幼い頃からエルガーはロバートの靴職人としての仕事を傍で見続けていた。
大きくなると自分もやってみたいとロバートに懇願し、ロバートも丁寧に一つ一つの作業をエルガーに教えてやったという。
「あいつは手先が器用だった。あっという間に工程を覚えて自分でも靴を作るようになった」
ぽつりぽつりとロバートは思い出を振り返るように、記憶を辿る。過去の話をするロバートの表情は穏やかだった。
「俺ももう…こんな老いぼれだ。だからこそ、あいつには早く一人前になってあいつ一人で仕事をこなせる様になってもらわなきゃならん」
「あぁ」
「なのに、それなのに…あいつときたら…最近はもっぱらあのヴァイオリンとかいう楽器にのめり込んで全く仕事をせんのだ」
ロバートの語気が強まる。
鼻息を荒くしてロバートは奥歯を噛み締めると机の上に置いた拳を強く握りしめた。
「…去年、この街に宮廷の楽師とかいう奴が現れた。それ以降だ。エルガーは自らあの楽器を作り、仕事を放り出して演奏をするようになった」
ロバートはそこまで言うと、自身を落ち着けるようにゆっくりと息を吐き出して拳の力を抜いて肩を落とした。
アオイはロバートの言葉に薄く目を見開く。
「ヴァイオリンを自分で…」
ノルンも同感だった。
いくら手先が器用だとはいえ、一から自分で作り上げてしまうとは。
エルガーは本当に物作りの才能に長けた人物なのだろう。
「なるほどな」
「…あぁ」
そして今朝。
ロバートはエルガーに釘を刺すために、いい加減にヴァイオリンを手放して仕事をしろ、とエルガーに伝えたのだそうだ。
「だがあいつは楽師になりたいなどと抜かした」
眉間を寄せるロバート。
ノルンはようやく全てが繋がったような気がした。
ノルンは静かに深く息をつくロバートを眺める。
そしてロバートが先程言っていた言葉を思い出す。
(…早く、1人前になる)
ロバートはそう言っていた。
エルガーを早く一人前の職人にさせたいと。
しかし何故ロバートはエルガーに早く自立して欲しいのだろうか。
そこでノルンは瞳を閉じる。
(…それは、恐らく…)
こんなものはノルンの想像でしかない。
けれど、ノルンは何処かで確信していた。
ロバートがエルガーにそう願う理由は恐らく。
自身の年齢故に先は長くは無いと悟り、それ故に大切な家族であるエルガーに一人前になって一人で生きていける力を身につけて欲しいと願う。
そう。それはきっとただの大切な孫であるエルガーを思う親心ならぬ祖父心なのだろう。
ゆっくりと伏せていたまつ毛をあげ、その瞳にロバートをおさめた時には、ノルンの瞳は優しげに細められ、美しく弧を描いていたのだった。




