190.森の音楽家
柔らかな風が木々の間を通り抜け、葉が重なり合う音が心地よく響く。
そんな音に混じって風が鼓膜に運ぶのはのは滑らかな旋律。
ノルンは恐らく道案内をしてくれているのであろうブランの背について森の中を歩いていた。
進む度に初めは微かだった音が段々と大きくなる。
今でははっきりと高音の艶やかな音色が響いていた。
そして、ようやくノルンはその音色を奏でている人物を視界に入れることができた。
鮮やかな木々に覆われた森の一角。
そこでは1つの切り株に腰を掛けた人物が片手で楽器を持ち、それを肩に乗せるともう片方の手で弓のようなものをひいて音を奏でていた。
ノルンは静かに少し先にあるその背中を眺める。
髪は肩の少し上程度でくせ毛なのか、明るい金色の髪がくるくると踊っている。
男性か女性かは分からないが、自分よりも少し大きいか程度の背中を見るに、もしかしたら自分と同じくらいの年齢なのかもしれない。
「…………」
声をかけようとしたが、美しい音色を遮って声をかける気にもなれず、ノルンはしばし目の前の人物が奏でるどこか少しぎこちなくも優しげな音色に耳を傾けたのだった。
しばらくして最後の余韻を残して目の前の人物はゆっくりと息をつくように肩を下ろすと、楽器から弓を外した。
それを合図にノルンはその背中に向かって声をかける。
「___初めまして」
「うわあぁっ…!?」
しかしノルンが言い終わる前に目の前の人物はびくっと大きく肩を震わせて驚きの声を上げた。
危うく切り株からずり落ちそうになっていたが、楽器を守るように上にあげて何とか足で踏ん張って身体を支えた。
「だっ…誰っ…!?」
その人物が身体を固くしたまま、勢いよく振り返る。
ノルンは振り返った人物を瞳に捉えてから、小さく丁寧に頭を下げた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。ノルンと申します。失礼ですが、貴方はロバート様のお孫様で間違いありませんか」
顔をあげてからいつもと変わらぬ調子でノルンは淡々と告げる。
目の前の人物は目を見開きしばし放心していた様子だったが、ノルンがそう言い終えるとはっとしてどこか都合が悪そうに眉を寄せた。
「……………あんた、爺ちゃんに頼まれたのか…?」
「いえ。ロバート様が仲間の靴を修理してくださったのでお礼に私から進言致しました」
「………はぁ。そっか」
少し高めではあるものの、ノルンよりも低い声。
目の前の少年は小さくため息を着くと少し俯いてぼそりと零した。
「はい。それでは貴方がロバートののお孫様という事で間違いないのですね」
「………あぁ。俺だ。俺は…エルガー。よろしく」
「エルガー様。はい。よろしくお願いいたします」
エルガーは顔をあげると少し眉尻を下げてノルンを見つめ、名前を告げる。
ノルンもまたエルガーの名を繰り返すと、小さく頷いた。
「エルガー様。ロバート様が心配しておられました。今朝森に行ったっきり中々帰ってこられないと」
「あー………」
「何か問題でも御座いましたか。何か問題がおありなのでしたらできる範囲でお手伝いいたします」
ノルンがロバートの様子を思い出し、ここへ来た理由を話すとエドガーは再び気まづそうにノルンから視線を逸らし、人差し指で頬を少しかいた。
「…いや。違うんだ。ただ…………これの練習をしていただけなんだ」
そしてエルガーはそう言うなり、視線を手元の木製の楽器に向けた。
その楽器はノルンも初めてみるものだった。
しかし知識としては知っている。
美しい滑らかな曲線がうねって作り出されたその造形。中心に張られたぴんと張り詰めた数本の糸。艶やかな色合いに比較的小さな造形。
この楽器は確か。
「…ヴァイオリン、というものでしょうか」
「うん」
ノルンが伝え聞いた記憶を手探りで思い出し、尋ねるとエルガーはこの時初めて表情を柔らかくして頷いた。
「知ってるんだ」
「いえ。お話に聞いたことがあるだけで。実物は初めて拝見致しました」
「そっか」
エルガーは優しげな眼差しでヴァイオリンを眺め、嬉しそうに微笑む。
その表情を見て少しばかり影響されたのか、ノルンも頬を緩める。
そして納得する。
エルガーはヴァイオリンの練習をしていたために、帰りが遅くなっていたのだ。
一言二言交わしただけでも彼がヴァイオリンを愛してやまないことは理解できた。
恐らく時間も忘れ夢中で弓を引いていたのだろう。
「初めてヴァイオリンの奏でる演奏をお聞きしました。…とても、美しい音なのですね」
ノルンが瞳を和らげて言えば、ノルンの言葉にはっと顔を上げたエルガーは目を見開いて少し口を開けて、頬を染めた。
「…ぅ…そ…そっか。聴いてたのか、」
「……勝手に申し訳ありません。気分を害されたようでしたら謝罪いたします」
「い…いや!ち…違う!そうじゃない。…ただ、俺、下手だからさ」
今度は自信なさげに、エルガーの表情が暗くなる。
その様子にノルンは先程の演奏を思い出して、静かに首を小さく横に振る。
「…私は初めてヴァイオリンという楽器の演奏を聞いたため、本来のことは分かり兼ねますが、ですが…。とても心地よい素敵な演奏でした」
「………………」
素直に先程聴いて思ったことを口にする。
実際に音楽のことはノルンにはわからない。
しかしそれでもノルンの心からの賛美にエルガーは俯かせていた顔をあげると、眉を寄せ口を結び、じっとノルンの姿を見つめたのだった。
 




