17.記憶
席に着くと母はパンを口に運ぶ前に口を開いた。
「そうだ。アオイ。今日は私が店番をやるからゆっくりしていて大丈夫よ」
「え、いいよ。どっちかはやるよ」
どっちか、というのは午前か午後のどちらか、という意味だ。
僕の家は洋菓子屋をやっている。普通は家の手伝いである店番をしなくていい、と言われたら喜ぶかもしれない。
けれど僕は別にこの仕事が嫌いな訳ではなかった。むしろ作ったものを直接買ってもらえるお客さんの顔を見ることが出来る店番は幸せな一時だった。
「ありがとう。でも昨日の夜遅くまで作業してくれていたでしょう?だから今日はゆっくり休んで大丈夫よ」
母は柔らかく微笑んだ。
それは母さんもでしょ、と思ったものの、その言葉は飲み込んだ。
洋菓子屋は母さんの店だ。母が作り、販売する。けれど幼い頃からこの家で育って、見事にお菓子を作ることが好きになってしまった。
初めは母の手伝いで、少しの興味と、少しでも母に喜んで欲しくてお菓子作り。
しかしそれはすぐに自分の興味となり、趣味となった。今ならある程度のものならば一人で作ることが出来るほどに。
そのため、お菓子作りの手伝いも、店番も、アオイにとっては全く苦ではなかった。
しかしせっかく母が気を使って自分に休息をくれたことも理解していた。
だから、それ以上は何を言うでもなく素直に頷いた。
「うん。ありがとう。それなら今日はゆっくりさせてもらうよ」
そう言うと母は微笑んで頷いた。
朝食の後片付けをしながら、休みを貰ったにはいいけど何をしよう、と考えていた。
特にやりたいことがある訳では無いし、特別身体が疲れている訳でもない。
うーん。どうしようか。少し散歩にでも出てみようか。うん、そうしよう。
予定とは言えないほどの予定を立てたところで洗い物が終わった。
そろそろ店を開けようと母が支度をしている横で「ちょっと出てくるね」とだけ言って母の了承を得ると家を出た。
村をぶらぶらと歩く。村にある他の店もそろそろ店を開けようと準備をしているようだった。すでに開けている店もある。時刻は朝の十時。妥当な時間だ。
さて、どうしたものか。歩いていると村の人達から声をかけられる。「おはよう」、「お使いかい?」、「アオイ!昨日のケーキ美味しかった!」などなど。それぞれに返事をしながらアオイはゆっくりと歩く。最後のは特に嬉しい。
ぶらぶらと目的もなく歩いている内に村の入口辺りまで来てしまった。
どうしようか。特に村の中ではもう見て回るところは無い。少し近くの森まで足を伸ばしてみようか。
そう決めると、足を森の方向へとシフトチェンジした。森に近付くにつれて爽やかな風が頬を抜けていく。頭上では鳥が舞っている。
森に入ると少し暑いと感じていた気温が下がる。頬に影がさす。葉がサワサワと揺れ、葉の隙間から太陽の光が合間を縫うようにして漏れ出ている。
青々しい葉の葉脈が透き通っている。
サク。サク。パキッ。
ゆっくりと歩きながらアオイはふと今朝見た夢のことを考える。
幼い頃の自分の夢。何度も繰り返し見る夢。
幼い頃、僕は村の入口である女の子と出会った。
白いワンピースを来ていた。
流れるようなホワイトブロンドが美しかった。振り向いた女の子の瞳に吸い込まれた。宝石のような、でもどこまでも澄んでいる様な。青とも緑とも言えないあの美しい瞳に。
本当に可愛らしい女の子だった。可愛らしい、という言葉で済ませていいのかも正直わからない。幼い女の子相手に美しいと言うのも違う気がするけれど、そう言っていいような神秘さも女の子は持ち合わせていたように思う。多分。
正直なところはわからない。もうずっと前の話で自分の記憶も曖昧だ。本当はもっと違うところがあったかもしれない。それどころか、これは自分の妄想で本当はなかったことなのかもしれない、とさえ思ってしまう。
けれどただの妄想が何度も夢に出てくることもないだろうと、やはりあの夢は現実にあったことなのだと自分で思うことにしている。
そしてあの夢には続きがある。
女の子はあの後、口を開いてこう言った。
「白い狼を探している」
と。正確にはその様な内容のことを。
泣きそうな顔をしていた、と思う。今にも泣きそうだけれど何かを必死に堰き止めているような。
そして僕はその言葉に驚いた。どう返したかは覚えていない。
けれど、泣きそうな女の子の話を聞いて、ずっと一緒にいた狼とはぐれてしまった、という話を聞いた。狼と聞いて僕は少し怖くなった。狼というのは大きくて凶暴なイメージがあったからだ。もちろん今でもそれはそうだけれど。
でも女の子は少し挙動不審になってしまった僕にまだ小さな狼だ、と少し焦って訂正してくれた気がする。
結局、その小さな狼に心当たりはなくて、村の人にも聞いたけれど見た人はいなかった。