170.炎の吐息
ワイバーンが封印から解かれ石化していた身体は鮮やかに本来の姿を取り戻していく。
山のような巨躯に鋭利で引き裂かれたら一瞬で胴体が真っ二つになってしまいそうな爪。見え隠れする巨大な牙。鮮やかな真紅の鱗の中に輝く金色の瞳。背中に折りたたまれた巨大な翼。
正にその姿は強者に相応しい風格だった。
封印から放たれた瞬間ワイバーンが放った咆哮は正に天災で、鼓膜はドオンッというような爆音に震え、それは脳内で鳴り響くと同時に電流を走らせるが如く全身をびりびりと痺れさせた。全身が泡立ち呼吸さえままならない。
咆哮を受けて未だ痺れる身体に一瞬思考を放棄していた。
しかし次の瞬間肌を刺されるような感覚にはっとしてノルンは顔を上げる。
高く上空にあったはずのワイバーンの顔は足元に佇むノルンを覗き込んでいた。
その余りの近さに目を見開き、呼吸が止まる。
ノルンをその視界に捉えた瞬間ワイバーンの瞳孔が細められた。
「逃げろォーーーッ…!!!!」
アトラスが遠くで叫んでいるのが聞こえる。
でも、どうしたって___間に合わない。
既にワイバーンは鋭い牙が見え隠れする大きな口で開閉を繰り返している。
死、という文字が脳内に浮かぶ。
恐怖の中、眉を寄せノルンはそれでもワイバーンから目をそらさなかった。
無意識にポーラを抱く腕に力を込める。
「…ノルンちゃん…っ…………!!!!」
「…っ…」
まばたきをする事も許されない一秒。
その一秒後にはワイバーンはその口元から山一つ程焼き払ってしまうような炎の吐息を吐き出した。
激しい熱波に当てられる。
じりじりと肌が焼かれるような感覚。
しかし一秒後のノルンが居たのはワイバーンの炎の吐息の中ではなかった。
アオイの切羽詰まった声が聞こえたと同時に吐き出されたワイバーンの吐息と、感じた浮遊感。
「…アオイさん」
「…っ…」
気づいた時にはノルンはアオイの腕に抱き抱えられていた。
思わず驚いて目を丸くする。
アオイは必死な形相で奥歯をかみ締め、ノルンをその腕に強く抱きワイバーンの吐息から逃れるよう駆け抜けた。
ワイバーンの炎から逃れると、はぁっはぁっ、と少し俯いて激しい呼吸を繰り返しす。そしてばっと勢いよく顔をあげた。
「ノルンちゃんっ…無事…っ…!?」
余りの近さとアオイの勢いにノルンは思わず目を瞬かせる。
至近距離で透き通るアクアマリンとグランディデイエライトが交わる。
「_____はい。アオイさんのおかげで私もポーラも傷一つありません」
ノルンは未だアオイに抱えられた腕の中で頷いてみせる。
するとアオイは釣り上げていた眉をへなへなと下げるとよかったぁぁ、と心からの安堵をもらしてみせた。
ノルンはそんなアオイの様子にきょとんとした顔を浮かべたあとゆっくりと瞳の輪郭に弧を描く。アオイはそこで漸く未だノルンを抱えていること、現在のノルンとの距離の近さに気づいたようだった。こんな状況であるにも関わらず一気に首から額を染め上げる。
「ごっ………ごごごごごめんね……!?いっ…今降ろすね………!」
まるで蒸気でも出しそうなほど顔を染め上げたアオイはノルンから視線を外しあたふたとしながら言う。
それでもゆっくりとノルンを降ろす腕は優しく丁寧でノルンは礼を言って地面に足を下ろした。
その時ノルンとアオイの元に軽やかにアトラスが降り立った。
「ノルンっ…!!無事か!?」
アトラスもまた珍しく顔を険しくしてノルンに詰め寄る。
「はい。アオイさんのおかげで私もポーラも無事です。傷一つありません」
ノルンが頷いて見せればアトラスはほっと息をついて険しい表情から力を抜いた。
「そうか…!………はぁ。焦った。………アオイ、助かった」
「うん。僕もよかった」
アトラスはふぅ、と息を吐き出すと未だ薄らと頬を赤らめているアオイに礼を告げた。
「…無事で良かった。ポーラも無事なんだな。…ん?ポーラ?」
アトラスが安堵の笑みを浮かべてノルンの腕の中のポーラに声をかける。
しかしポーラはぴくりとも反応する様子がない。
ノルンが腕を少し離してポーラを除きこめば既にポーラは白目を向いて口から泡をふいて気絶していた。
「…気絶してしまったようです」
「…うん」
「…そうみたいだな」
ノルンがそう言えばアオイとアトラスが同情の眼差しで頷いた。
しかしポーラが目を覚ますのを待つ余裕など勿論無く。
既に炎の吐息を吐き出し終えワイバーンがノルンの姿を探していた。
ワイバーンの身体が反転しゆっくりとノルン達の正面に向くと再びその瞳にノルンを捉える。
低く喉を鳴らすワイバーンにアトラスとアオイも向き合う。
「ブラン。ポーラをお願いします」
ノルンはブランを呼ぶと再びポーラを預けブランはポーラの首根っこを咥える。
「さて、どう倒したもんかな」
ブランが離れていくのを確認するとアトラスは二丁拳銃を構える。
ノルンも無言で杖を出現させると杖の柄を握りしめた。
恐らくワイバーンが相手ではほとんどの攻撃魔法も通じないだろう。
相対して間もなく死の恐怖に晒された。
それでも。
(___倒すしか…道は無い)
もう後には引けなかった。
今までの自分の人生全てを賭けて、突破するしかない。
(___必ず、倒さなくては)
倒して、そして___父に会いたい。
そんなノルンの覚悟をアトラスとアオイも感じたようだった。一層三人の空気が引き締まり、迷宮最後の戦闘が今、幕を開けた。