169.開戦の合図
アオイは顔を俯かせ、その脳裏には泣き崩れた少女が映し出されていた。
嗚咽を漏らし、華奢な肩を震わせる彼女。
震える肩を抱いた感触が鮮やかに蘇る。
それと同時に張り裂けそうな、呼吸が苦しくなるような切ない胸の痛みも蘇る。
その瞬間アオイはぐっ、と手のひらに爪痕が残るほど拳を強く握った。
数秒後、顔を上げたアオイの表情はもう恐怖に怯える剣士の顔ではなかった。
表情は緊張からか強ばってはいるものの、もう狼狽える様子は無い。
真っ直ぐと正面から石化した今にでも動き出しそうなワイバーンを捉えるとふぅー、とゆっくり呼吸を落ち着かせるように息を吐いた。
確かにアオイは今、戦う意思を持っていた。
そんなアオイを見守っていた者が一人。
横目でアオイの様子を窺っていたアトラスは俯かせていた顔を上げたアオイの表情を見るなりピクリと眉を動かし、それから満足そうに口角をあげた。
「…大丈夫そう、だな。覚悟はいいか?」
アトラスが両脇の二人に問いかければ二人は同時に同調の意を返す。
「___はい」
「___うん」
「よし。んじゃ行くか」
三人の間には糸が張りつめたような緊張感が走る。
二人の返事を聞き終え、足を踏み出したアトラスに続いてノルンとアオイも片足を地面からあげる。
目の前には石化したワイバーン。
その時だった。
「わあぁぁぁ…!」
そんな声がふと聞こえたかと思えば、小さな毛玉が足元から飛び出した。
思わずそれには肝が座っているアトラスもぎょっとして狼狽える。アオイもまた目を見開いて困惑する。
「…なッ…!」
「…ええっ…!?」
走り出していった小さな毛玉というのはもちろんノルン達の旅仲間であるポーラのことだ。
ポーラは視界いっぱいに開けた舞踏会でも行うかのような大広間に興奮したようだった。
歓声をあげると素早い走りで瞳を輝かせて、広間に突入して行く。
余りに一瞬のことで誰もポーラを止めることなど出来なかった。
ポーラの背を見つめるアトラス、アオイ、ノルンは戸惑いの表情を浮かべる。
しかし当の本人であるポーラはそんな事は意に介していない様子でノルン達の思惑とは反対に石化したワイバーンに突っ込んでいく。
「まずい…!」
「ポーラ…!!待って…!!」
「えぇ?」
取り乱したアトラスとアオイがすぐさま声を上げる。
アオイが目を見開き、緊迫した表情でポーラに制止の声をかければポーラは走りながら頭だけでアオイに振り向き、こてんと首を傾げる。
しかしそこで正面から目を逸らしてしまったがためにポーラは進む先に障害物があるなど知らず、つい走り続けるがまま衝突してしまった。
「ポーラ…!?!?」
アオイが困惑に顔を青ざめさせる。
ポーラはぴぎゃ、という悲鳴をもらしたあとで衝撃で尻もちを着く。
いてててて、と呟きながら打ったおでこを押さえながら、それから何にぶつかったのかを確認するためにポーラはそっと視界を上にあげる。
数秒、思わず呆気にとられる。
ただの石像かと思った。
しかし石像を全て視界に入れてからポーラはまるでポーラが石化でもしたように固まる。
信じられなかった。
そのあまりにも非現実的な生物に。
けれど何度目を擦っても現実が変わることは無い。
ポーラの目の前には山ほどの大きさもある石化したワイバーンがポーラを見下していた。
「あ…あ…あぅ……」
気づいた瞬間、ポーラは尻もちをついたままずりずりと震える身体を動かし後退する。
「ポーラ…!」
アオイはすぐさまポーラの元へと向かおうとしたが、その瞬間ぎゅ、と手のひらを掴まれる。
「…っ…ノルン、ちゃん?」
アオイは驚き振り返る。そこにはアオイの手を握るノルンがいた。
アオイは思わず薄らと赤面してしどろもどろになってしまう。
しかし困惑するアオイとは他所にノルンはワイバーンを見つめていない。
ノルンが見ていたのはワイバーンの足元に描かれた大きな魔法陣だった。
(…古代文字)
魔法陣に描かれた文字は現代のハルジア文字ではない。ノルンの予想した通り古代文字だった。
ワイバーンの周囲をぐるりと囲うようにして魔法陣は描かれていた。
ノルンは魔導書を読み漁るに当たって古代文字を幼い頃フローリアに教わった事がある。
そして今、ノルンは瞬時に魔法陣に刻まれた古代文字に視線を滑らせる。その中で一つ知っている単語を目にして止まる。それを脳内で変換する。
それが示す言葉は___。
(___守護者……)
そしてまさか、とノルンははっとすると顔を勢いよくあげる。
その瞬間、魔法陣が息を吹き返したかのように黄金色に光を放ち、ワイバーンを包み込む。
輝いた魔法陣はまるでワイバーンを解放するサークルだった。暴風が吹き荒れポーラの姿が見えなくなる。
「…ポーラ…っ…」
「ノルンちゃん…!!」
気づけばノルンは走り出していた。
勢いよく地面を蹴り魔法陣の中へと飛び込む。
アオイが自身の名を呼ぶ声を聴きながら、ワイバーンの足元で涙を流すポーラを発見すると素早く両腕に抱える。
目を開けていられないほどの風に思わず視界をとざす。すると数秒後、吹き荒れていた風はやみ、眩く視界を眩ませた光は落ち着いた。
ノルンは状況を窺うために薄らと震える瞼を開く。
しかし目の前に広がっていた光景にノルンは思わずはっとして目を見開く。
数秒前まで石像と化していたはずのワイバーンの足が、艷めく赤い鱗に覆われている。
高く上空からは喉を唸らせるような低い唸り声が聞こえる。
呼吸が浅くなり、顔を上げることが出来ない。
「…ノルンちゃんっ…!!!!」
アオイの切羽詰まった声が聞こえる。
冷や汗が首筋を滑り落ち、ノルンは無意識にポーラを抱く腕に力を込める。
そして次の瞬間、空気がひび割れ、大地は揺れた。
猛獣が咆哮をあげたのだ。その轟は正に雷鳴だった。鼓膜が破れんばかりの激しい咆哮。
その圧倒的強者に身体は危険信号を鳴らす。
ノルンは思わず目を見開いて表情を強ばらせ、呼吸を止める。
引き裂かれた空気の振動で少女のまつ毛は震え、ワイバーンの息によりノルンの髪がふわりと持ち上げられた。
それは正に開戦の合図だった。