168.覚悟の時間
ノルンは目の前の見るからに頑丈で重厚な蔦の絡まり合う扉を見つめた。
高く高く聳え立つ見上げるほどの大扉。
その扉には先程ノルンが触れた際に発動した魔法陣が描かれている。
また扉にはここにも繊細な美しい彫刻が彫られており、古代の技術の高さを窺わせる。
ノルンは彫刻の凸凹を手で撫でる。
そんなノルンを見てアトラスは口角をあげると問いかける。
「…よし。準備はいいか?」
「はい」
「う…うん」
ノルンは迷うことなく即答する。
アオイは一瞬ごくりと喉を鳴らしたが、ノルンが返事をするとすぐに続くように返事をした。
アトラスは満足そうに頷く。
「そうか。じゃあ行くか。ノルン、開けられそうか?」
ノルンは隣に並んで此方を見上げるアトラスと視線を交わすと無言で頷いた。
扉と触れていた手のひらに魔力を集中させる。
ノルンは一瞬目を閉じてから扉を見据えるようにゆっくりと瞼を持ち上げ、そして薄い唇を開いた。
「扉よ解錠せよ」
ノルンの口から短い呪文がもれる。
その瞬間ノルンの手のひらから発された光にまるで扉が呼応するかのように魔法陣が金色にいっそう眩く輝いた。
一瞬の後、魔法陣はさらさらと砂の粒となって消えていく。
そして魔法陣が消えたかと思えば重厚な扉はゴゴゴゴゴ、と地響きのような音を立てノルン等を部屋の奥へと誘うのだった。
少しずつ扉が開いていく過程で扉の先の景色がノルンの視界に入る。
その光景を目にしたのるんは思わずゆっくりと、大きな瞳を一層大きく見開いた。
(____まさか、)
ノルンは目の前の光景を凝視する。
そしてそれはノルンの横に立つアトラス、アオイも同様だった。
「…おいおい、まじか」
「…っ…」
アトラスはいつもの様に口角は上げながらも眉を顰め、冷や汗を垂らす。
アオイに至っては目の前の光景を認識するなり顔を青ざめさせて呼吸を止める。
「___ワイバーン」
アトラスが呟く。
そう。ノルン等の目の前には石化した小さな山ほどもある大きさのワイバーンがいた。
ワイバーンとは魔物の竜である。
竜には二つの種類が存在する。
一つはノルン等の目の前にいる魔物として竜種。
そしてもう一つは空想上のおとぎ話の生物である龍。
古来よりハルジアでは龍は女神の遣いとされ、この大陸を守護する存在だったとされている。
これはハルジアの人間ならば赤子でさえ聞かされている話だろう。
しかし今、ノルン達の目の前にいるのは魔物としての竜種。ワイバーンだ。
その牙は肉を引き裂き、鉄でさえも打ち砕く。
皮膚を覆う鱗はその硬度故に市に出回ることなどあれば一瞬で目を疑うほどの高値で飛んでいく。
竜の出現情報はハルジアの大陸では極々稀にある。
しかし出現情報があった所で並の人間が敵う相手であるはずも無く、近づこうものなら一瞬で消し炭だ。
それは国家騎士団である鷹でも同様。
ほとんどの場合はどうすることも出来ない。
もしも、討伐に向かえるものが居たとしたらそれは鷹の中でも異質と謳われるほどの極小数の強者のみ。
そんな相手が今、目の前にいた。
ノルンは真正面から石化していても尚、その圧倒的な威圧感のみで人間を卒倒させてしまいそうなワイバーンを捉える。
目の前にいるのはもはや生物であるという次元を超えた化け物だ。
その大きさはもはや人間が対峙する相手では無い。
弱肉強食。
言葉通り強者が弱者を喰らって生き残ることが生の道理だとするならば、体格と力はその最たるもの。
誰が見ても、引き返すべきだ。
年端もゆかない少女が対峙するには無謀どころの話では無い。
無駄死にだ。
しかし少女であるノルンが背を向ける様子はない。
足を後ろへ引き返す様子もない。
少女は片手に杖を出現させると、まるで立ち向かう意志を固めるかのように杖の柄を力強く握りしめた。
無理だ。
そう、アオイは思った。
その姿を見た瞬間に感じた絶望。
圧倒的恐怖。
足がすくんで腰が抜けそうになる。
手足は温度を失って氷のように冷たくなる。
無理に決まっている。
いや、それ以前の問題だ。
戦いにすらならない。
_____確実に、死ぬ。
そう、思った。
今までにないほどの恐怖心で呼吸が出来ず、顔は血の気が引き、瞳はぐらぐらと揺れる。
そんな中、アオイは一瞬斜め前に立つノルンを捉える。
「…っ…」
そしてノルンの表情を見て思わず、息を呑んだ。
ノルンは恐怖で震える訳でもなく、動揺を浮かべる訳でもなく、ただ、ただ、目の前の相手を見据えていた。何時だって真っ直ぐな瞳は今だって揺れることなくワイバーンに注がれていた。
(…………どうして、)
_____どうして、君は何時だって、そんなにも揺らがないで居られるの。
アオイの心中に困惑が広がる。
しかしそう自分で唱えた瞬間思わず迷宮に入る前の出来事を思い出してはっとする。
(___いや、違う、)
揺らいでいない訳じゃない。
彼女は、ノルンちゃんは。
(…泣いて、いたじゃないか)
あんなにも肩を震わせて。
声を押し殺して。
地面に膝をつけて、泣き崩れていたじゃないか。
その光景が脳裏に焼き付いていたように鮮明に思い返される。アオイはその瞬間無意識に強く、爪が食い込むほど拳を握りしめたのだった。