153.過去と救い
数年前。
突如として大陸中の魔物の活動が活発になると魔物は人々を襲い始めた。いくつもの村が滅び、街は壊滅した。恐ろしい魔物は大他の形すらも変化させた。
しかし最も恐ろしかったのはそんな脅威の渦の中、中心に居たのは人間だったということだ。
魔物達を従え、集落を襲い人々を襲ったのはかつてイアの戦いと呼ばれた戦いで力の限り暴れ回り、大陸を震撼させた一人の青年だった。
ノルンの住んでいた場所にもやがて魔の手は訪れた。
朧気な幼い頃の記憶がある。
幼い自分は誰かに抱えられていて、その人物は夜の中を必死に馬で駆ける。
馬の蹄の音と息遣いだけが聞こえる夜だった。
大切そうに自分を抱え込むその女性が母であったという事をノルンは直感している。
自分の同じ色の瞳。
夜空を水面にうつしたように深い青。
その中で星が瞬いていた。
次にノルンがその女性を見たのは翌日のことだった。
フローリアは早朝から森へ入って行った。そして帰ってきたフローリアにノルンは呼ばれ、部屋に入った。
ノルンは部屋の中のベッドに横たわる女性に釘付けになった。ダークブラウンの柔らかな絹のように流れる髪に真っ白な肌。
間違いなくノルンの母親であるベルだった。
しかしその顔色はまるで血が通っていないように青白く、瞳は閉じられ、ノルンが愛していた星は瞬いていない。
ベルの身体には覆うように白いシーツがかけられていた。ベルの胸の当たりにかけられたシーツが中央が赤黒く変色している。
恐る恐るノルンが小さな手を伸ばしてベルの頬に触れれば、まるで氷のように冷たくて。
縋るように何度も身体を揺すった。
母の名を呼んだ。
暖かい温度を求めた。
けれど、ノルンの求めるものは既に何一つ、なくなっていて。
___その日、ノルンは初めて絶望を知った。
ベルの埋葬はフローリア、アラン、レオが行ってくれた。
涙は出なかった。
ただ冷たくなった石に触れた時、漸く母はもうこの世に居ないのだと理解できた気がした。
*****
それから数日後。
ノルンの元に一通の手紙が届いた。
真っ白な封筒には封はされていない。
その手紙は湖の上に浮いていたらしい。
少しよれてはいるものの、封筒が破けている様子はない。
フローリアによると手紙には防護魔法と開封封じの魔法が掛けられているという。
そしてその手紙からはノルンの母であるベルの魔力が感じられるのだと。
誰が触れてもぴったりとくっついて開く事のなかった封はノルンが手に触れた瞬間暖かな光に包まれた。
そしてノルンが封を開封しようとすればいとも簡単に開いた。
封の中には折りたたまれた一枚の紙が入っていた。
書きなぐったかのような筆跡に薄汚れた便箋。
宛先には___シリウスへ、と書かれていた。
その後に続いた言葉はフォーリオの隠れ家へ向かうという事だけ。そしてただ一言の愛の言葉のみだった。
そして最後にベルの名と共に手紙は終わる。
シリウスはノルンの父だ。
手紙には父の居場所も、情報も、何も、書かれてはいなかった。
元住んでいた場所の地名もノルンには分からなかった。
八方塞がりだった。
それからはベルが連れてくるつもりだったであろう家にノルンはフローリアの手助けも借りながら一人で住むことにした。
毎日母の墓に花を供え、父の無事を祈った。
ただ、生きてさえいけてくれればいいと、毎日___毎日、祈り続けた。
*****
そして現在。
長い月日を経て、漸く今、ノルンは父を知っているという人物と出会った。
その人物は父が生きていると、そう、間違いなく、そう告げた。
その言葉をグレイから聞いた瞬間、言いようのない感情に襲われて。
足から力が抜けて、立っていられなくなった。
目の奥が熱を持って、目の前が霞んだ。
呼吸が乱れて上手く息が出来なかった。
忙しく収縮を繰り返す肺に呼吸が追いつかず、苦しい。
(……………………………父が、生きている)
この広い大陸の何処かで生きてくれている。
___父は、生きている。
「……………ふっ………っ……ぅぅっ…………」
ただ、それだけをこの数年、ずっと願ってきた。
ただ、貴方がこの大陸の何処かで息をしてくれてはいないかと願っていた。
ただ、それだけだった。
(………お父様……お父様。…お父様、生きて、本当に、…生きて、いらっしゃるのですか、)
この世界の何処かにいらっしゃるのですか。
お元気ですか。
ご不便なく暮らしていらっしゃいますか。
今、何処にいらっしゃるのですか。
何をされているのですか。
私はまだ、貴方を探してもいいですか。
貴方に会いたい。
そう、願ってもいいですか。
貴方が生きてくれている、そう知っただけで胸が熱を持って苦しい。胸がきつく締め付けられるほど、痛いほど、嬉しい。
貴方が無事にこの世界のどこかにいる、そう思っただけでこれ程までに___。
その事実に、涙が止まらない。
果てしない安堵に、涙が止まらない。
貴方が、生きてくれていて、本当に___
「……………よかった…っ………お父様、」
少女が小さく呟いた声はくぐもって、掠れて、音にすらならない。その声を聞き届けた人物はただ、少女を抱きしめる腕に力を込めたのだった。




