14.白狼と少女
アトラスの話を聞いてまた少し歩いた頃。
急激に洞窟の温度が下がった様に感じられる。
それは実際に温度が下がったからなのか、この先にいる“何か”の気配がそう感じさせるのか。
「…ふぅ。ようやくか」
「…はい」
二人は立ち止まって真っ暗で何も見えない洞窟の先を見る。
その瞬間グルルルルルル…という喉を鳴らす低い唸り声が聞こえてきた。威嚇するような低い低い声が。
「…威嚇されてるな。…あのばあさんの孫とやらが洞窟に入って物を取っていったんだ。そりゃ警戒されるか。ノルン、気を抜くなよ」
「はい」
ノルンに注意を促すアトラスの目は、もう頼もしい騎士の目だった。
低い唸り声は途切れることなく、その威圧感は凄まじい。肌でビリビリと感じるほど。
通路の少し先。そこがどうやら行き止まりで、ウルガルフの住処の様だった。
少し広くなったその場所にウルガルフが立ち上がり、こちらを見ている気配がした。
ウルガルフはかなり気が立っている様だ。また何かを盗まれると警戒しているのかもしれない。一歩間違えれば、一瞬で食いちぎられるだろう。
ノルンはウルガルフの住処の入口で足を止めた。
杖の光は小さくウルガルフの姿までは見えていない。けれど気配で確かにウルガルフが警戒態勢に入っているのはわかった。
ノルンは距離をとって、その場に停止するとそっと声を出した。
「貴方がキオンの村へ訪れたウルガルフですか」
その瞬間、ウルガルフがとてつもない声で咆哮する。音が反響して洞窟内を震わせる。
その迫力にアトラスの毛並みが逆立つ。アトラスも目を見張ってノルンの前に立ち、様子を見る。
「無理だ。ノルン。今すぐ殺されてもおかしくない」
アトラスの瞳孔を開いたその鋭い瞳に鋭い牙が光って見えた。
ウルガルフは唸り声をあげるのをやめない。
しかしノルンはなにかに気づくとはっと目を開いた。そしてアトラスの前に出ようとする。
「待て!!何してんだ!!」
アトラスがノルンの腕を強く引く。
しかしノルンの瞳には怯えなど一切映っていなかった。それにアトラスが目を見張る。
「…血の匂いがします。怪我をしているのですか」
ノルンが少し表情を崩しながら、声をかける。
鼻の良いアトラスもそのことには気づいていた。
恐らく村を訪れた際に村人に発砲されたのだろう。
ノルンが近づくと凄まじい勢いでもう一度ウルガルフは吠える。その際にノルンは綺麗な透き通るアクアマリンの瞳を見た。血走って鋭く今にも射抜かれてしまいそうな瞳と。
ノルンはその瞳に息を呑んで立ち止まる。
「ノルン…!!!!」
アトラスがひどく焦ったようにハンドガンを構える。
するとウルガルフの目が光り、アトラスを捉える。
「アトラス…!やめてください…!!」
ノルンが振り返って焦って叫び声をあげた時にはもう遅く。ウルガルフは闇の中、アトラス目掛けて鋭い爪を地につけ、駆け出していた。
「…ッ…!」
アトラスが覚悟を決めたように照準を定める。アトラスの瞳とウルガルフの瞳が交わる。ウルガルフが地面を蹴って飛びかかる。
その際だった。
「やめて…!!!!ブランッ…!!!!!」
ノルンの叫び声が洞窟に反響して響くのだった。
「ブラン!?」
その瞬間アトラスはこちらに飛びかかってくるウルガルフを間一髪で横に避けた。
そしてウルガルフはアトラスに避けられた場所に着地しながらも、荒い息遣いをして、また頭を低くして戦闘態勢に入ったようだった。
そんなウルガルフに、ノルンは薄い唇を噛み締める。手にしていた杖を地面に突き立てる。そしてマントの内側に手を入れて何かを探るようにした後、そっとまたウルガルフに近づいた。
「ノルン…!!」
後ろでアトラスが焦ったように声を上げるがノルンは振り返らない。
そして低く唸るウルガルフの手前にくるとそっと手を差し出した。
そこにはロベルから預かった今にも切れてしまいそうなリボンがあった。
ウルガルフはそれに気づいた様だった。
未だ唸り声を上げながら、ノルンの様子を伺っている。
「…思い出しました。このリボン。…私のリボンですよね」
「…ぇ?」
ノルンの震えるような絞り出した声にアトラスが反応する。
「幼い頃、母が私によく付けてくれていた…」
思えばあの夜の日も、私はきっとこのリボンで髪を結っていた。
そして恐らく何かの手違いで離れ離れになってしまったブランはきっと、このリボンだけを夜の森の中でひとり、見つけた。
十年もの間。ひとりでそれを護り続けて。
目の奥が熱を持つ。ぴんと張った糸が今にも緩んでしまいそうだった。ノルンのグランディディエライトの瞳が潤み、縁に透明な雫が溜まる。そして堪えきれず、それはぽろぽろと落ちていく。
「ずっと…ずっと…持っていてくれたのですか。ブラン…。十年もの間…ずっと…」
ノルンの声が掠れていく。その胸を切るような声にアトラスはぐっと口を噛んで拳を握った。
ノルンが噛み締めるようにゆっくりと言葉を紡ぐと静かに、目の前のウルガルフから戦意が消えた。少しの沈黙が訪れる。ノルンの息遣いだけが響く。
そして頬を濡らし続けるノルンの元に一歩ずつ、一歩ずつ。ウルガルフが前足を片方引きずりながらやってきた。
杖の淡い光にウルガルフの姿がようやく照らされる。
それは所々汚れてはいるものの、真っ白い毛並みに、美しいアクアマリンの瞳を持つ美しいウルガルフだった。
「…っ…」
ノルンがその姿を見て唇を噛み締めて息を呑む。
呼吸が苦しい。酸素を肺に吹き込む度に、何かが零れ落ちそうだった。
ウルガルフはノルンに近づくと確認するように匂いを嗅いだ。
そしてノルンの手元にあるリボンに鼻をつけた後、真正面からノルンと瞳を合わせた。
するとその途端、クゥン…という先程とは違う切ない声色をあげた後ノルンを囲うように擦り寄った。
「…っ…、…ブランっ…」
ノルンはその真っ白な毛並みに顔を埋めた。
ノルンの縋るような声に共鳴するようにブランも顔を目一杯擦り付けた。その瞳はどこか潤んでいるように見えた。
切ない声を上げ、ノルンに顔を押し当てている。
「…ごめんなさい…。ごめんなさい…。…貴方を、置いていってしまって……。ブラン…。ずっと、ずっと…探していました…」
この十年。片時も忘れたことは無い。
どんな日も…ノルンはブランと父を想っていた。
その声にはノルンの十年全てが詰まっているようだった。静かに…鳴き声を押し殺すように…声をくぐもらせて涙を流す少女。出会ってから、フォーリオへ訪れ、旅をしてきて、ここまでノルンの崩れた様子は見たことがなかった。
不器用で無口で感情が読めない少女。
しかしその姿はどこかいつもアトラスに孤独を感じさせた。
お互いの存在を確かめるように抱き合うノルンとブランを見つめたあと、アトラスは優しい瞳で、小さく息をついた。
「…よかったな。ノルン」
…それはとても優しい声で。
その声は涙を流し続けるノルンには聞こえず静かに闇の中に溶けていった。




