130.思い出のティータイム
少し目を見開いて揺れる瞳がノルンに映る。
「今、なんて…。あの人の…約束のもの?」
震えるサナエの声に目の前の少女は初めから少しも表情を変えることなく頷いた。
「はい。マサト様とのお約束を果たしに来ました」
少女はただ真っ直ぐ揺らぐことの無い瞳でそう、答えた。
サナエは動揺を隠しきれないながらも、目の前の人物を一度家に招き入れた。
亡き夫にこの様な美しい少女の知り合いがいたとは全くもって知らなかった。
ノルンを長らく使用していなかったこの家で一番大きなテーブルの椅子に案内したあとで、サナエはキッチンに向かい、紅茶の茶葉を缶から取り出していた。
紅茶など長らく飲んでいなかった。
ふわりとサナエの鼻腔を久しく嗅いでいなかった芳醇な香りが擽る。
サナエは湯を沸かすと湯をポットとティーカップに注いで温める。
少ししてポットからお湯を取り出すとスプーンで茶葉を二杯掬ってポットの中へ入れる。
そして再度沸騰したお湯をカップ二杯分ほどポットに流し入れた。
少し蒸らしている間にサナエはキッチンのカウンターから静かにテーブルに着くノルンに視線を移す。
少女はただ一言も発することなく、静かにそこに居て窓の外を眺めているようだった。
砂時計の砂が落ちきるとサナエはポットから茶葉をこしてふたつのカップに半分程紅茶を注ぐ。
そしてまた繰り返しカップの八分目程まで紅茶を注いだ。
家中にベルガモットの爽やかな香りが広がる。
久しぶりに触れたその匂いは懐かしく、そして少しあの人との日々を思い出させた。
サナエは二つのカップをトレーに載せるとノルンの元へ向かう。
カチャカチャと茶器が音を立てるとノルンは窓の外を見ていた視線を外してサナエに向き直った。
「お待たせしてごめんなさいね。よかったらこれ。どうぞ。お口に合うといいのだけれど」
サナエはソーサーとカップをノルンの手前に置く。
ノルンは揺れる琥珀色の液体にその美しい顔を覗かせたあとサナエに瞳を向けた。
「…いえ。ありがとうございます。いただきます」
「ええ。どうぞ」
少女はカップに両の手を丁寧に添えると小さな唇を少し開いてこくん、と一口紅茶を口に含んで嚥下した。
全ての動作が絵になる少女だった。
上等と思われる黒地のマントには美しい細い金銀の糸で植物の刺繍が施されている。
白いシャツには大きなリボンが綺麗に結ばれている。
ダークブラウンのスカートに華奢な足には黒いタイツ。そして足元にはスカートと同じくダークブラウンの編み上げブーツ。
その少女はまるで幼い頃繰り返し読んだ童話の中の登場人物のようだった。
少女を静かに見つめるサナエの心臓が再び音を立てた。
それは果たして目の前に座る美しい少女によるものなのか、久方ぶりに人に紅茶を入れた緊張感からか、サナエには検討もつかなかった。
紅茶を一口飲んだ少女が静かにカップから口を離す。
そして小さく息を吐き出す。
その様子に思わずサナエは不安になる。
「…ごめんなさい、お口に合わなかったかしら」
サナエが眉を下げてそう言えば少女は顔を上げてサナエと瞳を合わせるとカップを手に持ったまま緩く首を左右に揺らした。
そして琥珀色に輝く紅茶を見つめたあとサナエの瞳と視線を合わせると口を開いた。
「…とても…とても、美味しいです」
その言葉はすっとサナエの胸に入ってきて不安になった心を落ち着けた。
その言葉に安堵してサナエは表情を緩める。
そして少女は続ける。
「…マサト様の仰っていた通りでした」
「…え?」
その言葉に安堵した胸の内に再び小さな波紋が広がるようだった。
困惑するサナエに答えるようにノルンはカップを静かにソーサーに戻すとほんの少しだけ___本当に数ミリ程度口角を上げて表情を和らげた。
胸の内に動揺が広がっているにも関わらず思わず見蕩れてしまう。
「…以前マサト様は仰っていました。奥様の入れられる紅茶は…それは本当に美味しく、心を癒してくれるのだと」
「…………マサトさんが…?」
はい、とノルンは頷く。
一瞬、鼻の奥がツンとする。
そして瞳の奥が熱くなった。
久方ぶりに夫の名を聞いたからだろうか。
無口な夫が自分の入れた紅茶をそんな風に思って、誰かに伝えてくれていたからだろうか。
夫が生きていた時間に触れたからだろうか。
わからない。
わからない、けれど。
サナエの皺の刻まれた優しげな目尻から雫が零れそうになって、サナエはそれを静かに拭う。
そして静かにサナエを見つめる少女を見つめ返した。
「…ノルンさん」
「…はい」
透き通るその声は心地よく耳に響いてすぐに雪が熱に触れた時のように柔らかく空間に溶ける。
「…聞かせてくれませんか。貴方が夫と過ごした時間を。そして___」
___夫と交わした約束を。
サナエが切なく、懐かしく、どこか嬉しそうに微笑んだ。
少女は静かに頷いた。
そしてサナエの夫であるマサトとの思い出を語り始めた。




