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norn.  作者: 羽衣あかり
“未亡人と少女”
129/198

128.追憶

 雨が降っている。

 あぁ、今日は雨ですね。

 あ、でも見てください。ほらあそこ。

 紅葉がとても綺麗に咲いていますよ。

 隣の銀杏の木もほら。

 ねぇ、あなた。


 後ろを振り返る。

 しかしそこには誰もいない。

 ただ静かな空間があるだけだ。

 ポツンと周りには何も無い家で一人女性はそのことを思い出すと、一瞬動きを止めて、それから視線を落とした。


 女性の名前はサナエと言った。

 サナエは数ヶ月前に亡くなった夫と二人でこの家に暮らしていた。


 彼と出会ったのはもう随分前のことだった。

 それはもう何十年も。

 真面目な人だった。

 口数の少ない人だった。

 周囲の人からはそんな性格だったものだから、少し恐がられたり、気難しいと思われる人だった。

 私は元はここからしばらく歩いた街で暮らしていた。

 そこで花屋をして働いていた。

 彼は研究者だった。

 彼は毎日、この家から街まで通っているようだった。

 毎日、朝と夕に彼を見かけていた。

 しかし彼と話す機会はなく、ただ店の前を通り過ぎる横顔を見送る日々だった。


 そんなある日。

 何時もより数刻遅い時間に彼は現れた。

 急いでいたのか、焦った様子で走っていく。

 彼はたくさんの資料を小脇に抱えていた。

 そこで曲がり角に差し掛かった時、突然走ってきた子供を避けるために彼はよろけてしまった。

 彼の小脇からばさばさと資料が地面に落ちる。

 サナエの前にも青い空に映える一枚の白い紙がヒューと飛んで舞った。

 ぼうっと思わずそれを見ていたけれど、視界の端で彼が地面に膝を着いて急いで紙を拾い集める姿を見るとハッとして急いで私も拾った。

 二人して中々掴まらない紙を追いかけて空に向かってぴょんぴょんと跳ねたりして。

 拾い集めた時には二人とも肩で息をしていた。


「あの 、どうぞ」

「…どうも。ありがとうございます」


 きっかけはそんなものだった。

 それから彼は朝夕と私の店の前を通る度に頭を下げて挨拶をしてくれるようになった。

 たまに彼は花を買ってくれるようになって、そこで少し会話をする日もあったりして。

 それが気づけば堪らなく嬉しくなっていて。


 彼は優しい人だった。

 静かに私の話に耳を傾けて、たまに微笑んでくれる。

 相槌を打つばかりで彼からあまり話題を振られることはなかったけれど。

 それでも数分の時間が楽しかった。

 次第に気づけば私は彼に心を寄せるようになっていた。そして彼も私も想ってくれるように。


 しばらくの逢瀬を重ねたあと、彼に結婚の申し出をされて、私は頷いた。

 それから私は花屋をやめて街を出て、彼の住むこの家に二人で暮らすようになった。

 子どもはいない。ただ二人で雪がふりつもるように優しくとても幸せで穏やかな日々を送った。


 しかしそれは十年ほど前から少しずつ終わりを告げていた。

 私たちは六十の代になっていた。

 ある時から彼は小さな咳を繰り返すようになった。

 初めは風邪でもひいたのかと二人して思っていた。

 けれど幾月が過ぎても咳が治まる気配は無い。

 それどころか激しく咳き込む日も増えた。

 彼の調子が良くない日が続いた。


 私は何度もお医者様に伺うように、と彼に進言した。

 けれど彼は少し首を捻っては、そんな大したことでは無い、大丈夫だ、といつもの様に躱してしまう。

 そんな時ばかり貴方が薄く微笑むものだから私、何も言えなかった。上手く丸め込まれていると気づいていたのに。


 もしかしたら彼が拒む理由はお金を気にしてのことだったのかもしれない。

 たった二人きり。静かに穏やかに暮らす私達にとってお金は有り余っている訳ではなかった。

 しかし二人とも浪費家な性格でもなく、むしろあまり自分たちにお金をかける方ではなかったため、お金に関して苦労したことはなかった。

 けれどお医者様にかかってそれなりのお金を払うことを彼は気にしていたのでは。

 それとももし入院することになってしまったら、それこそどれだけのお金がいるのか分からない。


 けれど、そんなこと私は気にしていなかった。

 こういう時に使わねば他に使うこともない。

 そんなに多くは無いとはいえ、彼がよろしくないのでは残していても意味が無い。


 サナエは本当に何度もお医者様にかかるように、と切実に訴えた。

 しかし最後まで彼がお医者様にかかることはなかった。

 最期は生まれ育ったこの家でサナエに看取られて静かに息を引き取った。

 彼の最期は穏やかだった。咳を少しするだけで、それ程苦しまずに最期を迎えたように思う。

 それが今から一年と少し前のことだった。

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