112.貴方の軌跡
ホーラスの口から発せられたその名にノルンは小さく戸惑いの言声を漏らす。
今、ホーラスは確かにベルという名を口にした。
「ベル…ってだあれ?」
「ベル…?聞いた事ねぇなぁ。…ってどうしたノルン」
ポーラがホーラスが口にした名を繰り返す。アトラスも聞き馴染みが無い名前だったようで首を傾げるが、ぴたりと動きを止めて動揺したように瞳を揺らすノルンに気づくと大丈夫か?、とノルンを伺うように声をかけた。
「…ノルンちゃん。その人のこと知ってるの…?」
アオイもまたノルンを気遣うように優しく問うが、ノルンは未だ少し動揺しているようで無言でホーラスを見つめている。
「…爺さん。ベルって誰なんだ?人間…だよな?そんな名前のやつがこの島に居たことあったか?」
アトラスがホーラスに向き直ればホーラスはどこか懐かしむようにノルンを見つめ口を開いた。
「ほっほっほ。あぁ。居たとも。お嬢さんの様に綺麗な瞳をもった娘だった。忘れるはずもない」
ホーラスは自分に向けられた宝石眼を見返して目を細めて嬉しそうに笑う。
「…ベル様はのう。数年前の大陸であった大きな戦いの前にここを訪れてくださった方じゃ」
「………」
ホーラスの言葉にノルンがぴくりと反応する。
「へぇそうだったのか。それでノルンはその人と知り合いなのか?」
アトラスの瞳が再びノルンに向けられて、ノルンはやっと落ち着きを取り戻したのか静かに頷いた。
一度視線を手に握ったリングに落としてからノルンは静かに言葉を紡いだ。
「…母です」
「………え」
ノルンの小さくつぶやくように発せられた言葉にアトラス、アオイは目を見張る。
母と口にしたノルンは慣れない単語を口にしたように少しぎこちなく、まるでその言葉だけ借りてきたようにその音には現実味がなかった。
「ベルは私の………母の名前です」
そう言ったノルンは少し寂しげに手元に握られたひとつのリングを大切そうに弱い力で握った。
そのシルバーの美しいリングの内側には確かにシリウス、そしてベルという名が小さく彫られていた。
「…やはりそうでしたか」
ノルンが顔を上げればホーラスは納得したように頷く。
そんなホーラスとは反対にアトラスとアオイは驚いたように目を丸くしていた。
「母って…まじか。ノルンの母親はここに来たことがあったのか」
「え!ノルンのおかあさん。ここに来てたの?」
アトラスの言葉にポーラもそこだけを理解したように目を輝かせる。
それについてはノルンもアトラスと同じことを思った。船でしか訪れることの出来ないこの地に母は訪れていたのかと。
そしてもしそうならば母は何故この地を訪れたのだろうかと。
観光だろうか。はたまた何か別の目的があったのか。
突如明かされた母の訪問にノルンの胸は静かに高鳴っていた。
「そっかぁ。すごいね。ノルンちゃんのお母さんも旅をしてる人だったのかな?」
アトラスに続き感心したようにアオイは言う。
しかしアオイの疑問に関してノルンは少し寂しげにゆるく首を振った。
「…すみません。私には…分かりません。母との思い出も…私にはほとんど残っていなくて。母がどのような人生を歩んで何をしていたのか。本当に私は…母や父について何も知らないのです」
いつもの様にノルンはあくまで淡々と述べた。
けれどその空気はどことなく寂しげでアオイは何も考えずに聞いてしまったことを後悔した。
家族と当たり前のように過ごしてきた日々が、誰にでも当てはまる訳ではないということはノルンの生い立ちから知っていたのに。
またノルンもアオイが申し訳なさそうな顔をしたことに返答を間違えたのかもしれないと、はっと気づく。アオイは心優しい人だ。
今のような返事を聞けば聞いた自分を責めてしまうのではないか、と。
(…失敗、してしまった)
眉を下げたアオイを目に映したノルンは謝ろうと口を開こうとする。けれどどうにもアオイに責任を感じさせないような謝罪の言葉が思いつかない。
ノルンは気まずそうに視線を下にずらす。
そんな中、響いたのはノルンでもアオイの声でもなかった。
「んじゃこれから知っていけばいいな」
アオイとノルンが同時にアトラスの声に顔を上げる。
そこにはいつもと変わらぬ様子で太陽のように笑うアトラスが居た。
(…これから)
アトラスの言葉をノルンは無意識に胸の内で繰り返す。
そして一瞬の沈黙の後ノルンは少しだけ雰囲気を和らげてアトラスの言葉に頷いたのだった。
「…はい」
顔を上げたノルンにアトラスは満足そうに頷き、アオイもまたほっと胸をなでおろした。
そんなノルンたちの様子をホーラスはただじっと微笑んでみていた。
「よし。んじゃそういうことだから爺さん。教えてくれ。ノルンの母親はここへは何しに来たんだ?観光か?」
アトラスがホーラスに尋ねるとホーラスはいいや、そうではないと首を振った。
観光ではない。それならばここへは何かしらの目的があって母は訪れたのだろうか。
今まで感じたことの無い初めての感情がノルンに湧き上がった気がした。
母を亡くして以降人伝でも初めて、今、母に触れた。
___知りたい。少しでも。
気づけば亡き母の面影を追うようにノルンは口を開いていた。
「…ホーラス様。良ければお聞かせください。母について…少しでもご存知のことがありましたら…」
ノルンが控えめにそう言えば「もちろんですとも」とホーラスは大きな目を細めて優しく微笑んで頷いた。
「ベル様がこの地を訪れてくださったのは今から十数年前のことでした」
ホーラスの瞳は当時を思い出しているかのようにゆっくりと閉じられた。
「…当時ハルジアの大陸では突如して各地に出現した瘴気にみな怯えていました。魔物は活発化し、病にかかる者も出たそうです」
ノルンは脳内でここに来る前に出会ったバルトを思い出していた。
「…そしてその規模は大陸に比べ小さいまでも気づけばここコラルにも…瘴気は出現したのです。みな禍々しいその邪の空気にそれは恐れ戦いたものです」
どうやらこの話はアトラスも初めて知るものだったのか真剣な表情で黙ってホーラスの話に耳を傾けていた。
「私達にはどうすることも出来なかった。近づきすぎれば病にかかり、触れることも出来ない。それでも魔物は活発になり、次第に魔物に襲われる仲間が出始めました」
ホーラスは悲しげに声を落として呟く。
「けれどそんなある日島の外からある女性が訪れました。それがベル様でした」
ホーラスは悲しい顔から一転して懐かしむようにもう一度ノルンを見つめては頷いた。
そしてベルがこの島に訪れたことにより島の状況が一変することとなったのだとホーラスは嬉しそうに語るのだった。




