106.別れ
足元に軽い衝撃を感じて、ノルンは足元に視線を移す。
そこには走ってきたのか少し息を弾ませているリナがいた。リナと共にポーラも走ってきた。
ノルンはノルンを見上げるようにして視線を高くするリナに合わせて、いつもの様にしゃがみ込んだ。
「…ノルンっ…!」
「はい」
頬を少し赤らめて汗ばむリナにノルンは頷く。
リナはノルンと瞳を合わせるとその瞬間小さく背伸びをした。
そして、ぱさりと何かがノルンの頭の上に乗せられる。
突然の出来事にノルンは驚きながらそっと頭に手をやった。指先に触れたのは柔らかい花の感触。
リナからノルンに贈られたのは鮮やかな色とりどりの花を編み込んだ花冠だった。
「…リナ様。これは…」
リナの意図が掴めずノルンは首を傾げる。
リナは花冠をノルンに乗せ終わると背伸びをやめて、満足気にノルンを見た。
「あのね、花冠、ポーラと作ったの…ノルンにあげるね!」
そしてもじもじとしてた後でとびきりの弾けんばかりの笑顔をノルンに向ける。
「…………」
ノルンは先程のバルトからマントを受け取った時と同様、どうしていいか分からず、何かを言おうとして少し口を開いては口を閉じた。
「…ノルン、ありがとう。ほんとうに…ほんとうに、おじいちゃんをなおしてくれて」
リナはゆっくりと両手を白いワンピースの胸元で握りながら大きな瞳をノルンに向ける。
話しながら次第にリナの目元が潤んでいく。
「…うぅ〜…」
そして遂にはぽろぽろと雫が溢れ出す。
ノルンの肩が揺れる。
そして今度は困ったように少し眉を下げた。
その姿は大人びた普段の様子とは正反対の年相応か…寧ろ実年齢より幼く見えた。
リナが突如泣き始めてしまい、オロオロとしていたノルンだが、戸惑いつつゆっくりと恐る恐る指先をリナに伸ばした。そして、そっと目元に触れてその涙を拭った。
リナはそれに気づくとまた目を細めて大粒の涙を零す。ノルンは幾度も幾度も涙を拭おうとするが、リナの涙の方が先に溢れて追いつかない。
「…ノルン…ノルン〜…」
「…はい」
泣きながら幼い少女は縋るようにノルンの名を呼び続けた。
ノルンはその度に頷く。
「…あり…がとぅ…ありがとうぅぅ…」
泣きながらリナは何度も何度もその言葉を零した。
何度も繰り返し呟かれるその言葉にノルンの涙を拭っていた手が止まる。
まただ。先程のバルトとのやり取りが思い浮かぶ。感謝の言葉を向けられた時どうすればいいのだろうか。どう返すのが正解なのだろうか。なんて言えばいいのだろうか。
いくら考えても言葉は出てこない。
だから、せめて目の前の幼い少女が泣きながら必死に伝えてくれるこの気持ちを受け取りたいと思った。
上手くいえなくても、言葉に出来なくても。
「…はい」
それは幼い少女の耳に、ひどく優しい音が響いた。
いつもの様に心地よい音だった。
けれどいつもと違ってひどく柔らかい声だった。
幼い少女は滲んで歪む視界で頑張って目を開けて目の前の声を出した人物を見た。
初めて会った時から今まで出会ってきた誰よりも綺麗だと、まるでお姫様のようだと思ったその人は微笑っていた。
眉は少し下がり、美しい宝石の瞳は柔らかく細められて、口の両の端を少しだけ持ち上げて。
小さく…本当に小さく蕾が少しだけ花開くように。
彼女は笑っていた。
初めて見た。その人の笑う姿。
まるで花の妖精みたいだった。
きっとこの時を少女は一生忘れることは無い。
少女は寂しかった。
そして同時に伝えきれないほどの感謝を目の前の人物に感じていた。
祖父であるバルトが随分前から少しずつ体調を崩していたのをリナは知っていた。
段々と寝込む日々が増えて、リナは一番近い村に行っては村人に助けて欲しいと懇願した。
けれどその村に薬草使いは居らず、皆不憫そうにリナを見るだけで家に訪れてくれることなどなかった。
それなのに、誰かも分からない偶然会った目の前の人物はリナの話を真摯に聞いて、家まで来てくれた。
本来であれば、とても高いたくさんのお金が必要になるということはリナにも分かっていた。
だからバルトも薬草使いの元へ行かなかったのだろう。
けれど、もうあとのことを考えている余裕もなく、とにかくノルンを家に連れてきた。
そしてノルンはリナが手渡したただのクッキーのおまけクジで治療を引き受けてくれた___。
ノルンだけだった。こんな小さな子供に向き合ってくれたのは。疑うことなく信じて、手を差し伸べてくれたのは。
ありがとうという言葉しか知らない。
この言葉で自分の感謝の思い全てが伝わるのかすら分からない。
けれど、それしか知らないから___。
幼い少女は必死に伝えた。
伝えきれないけれど出来るだけ多く伝えたくて。
けれどそれと同時にやはり別れがちらついて寂しい気持ちが溢れて、感謝と寂しさがぐちゃぐちゃになって涙が溢れてしまった。
泣きじゃくるリナの頭にバルトの大きな手のひらがぽんと乗せられる。
「泣くな。リナ。ノルンが困っている」
「ぅぅぅ…」
リナは赤い目元でノルンを見つめ返すと一度頷いた。そして最後にノルンと距離を詰めると小さな体でノルンに抱きついた。
ぎゅ、と無言のまま弱く力を込められ、ノルンは小さく目を見開く。
数秒戸惑いで固まってしまう。
けれど小さな女の子の身体が温かくてその事に安堵する。そして導かれるようにノルンもまたそっと小さな身体を包むように、壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめたのだった。




