ざざざざざささささささ
雪の降る景色はせかいを白く染める。
空から舞う雪の冷たさと温かさ
すべてを白く染めあげても
降り続ける雪は
感情のない空の写し絵のような気がした。
日常的な風景で生きる自分に
いつしか飽き飽きしていた。
日常の中で非日常を渇望する自身の姿は
鏡の中の自分に笑われた。
人によく言われるものだ。
「本気でやりなさい。そうすれば自ずと未来は開けるから」
わかってる。そんなのわかってる。
でも・・・・
わかってないと言われる。
「わかったわかったって言って、結局なにもやってないじゃない!」
・・・なにもやってないわけじゃない。
「そろそろ結果を出しなさいよ!結果を!」
・・・自分自身だってそうしたい。そろそろ結果がほしい。
「ほんとに・・・悲しいよ。どうしたいのよ?」
・・・悲しいのはこっちだし、どうしたいのかは自分が一番しりたい。
そうやっているうちに何年もの時が過ぎた。
過ぎて残るは後悔。
ただ、後悔。
あのとき、こうすればよかったとか。
あのとき、こうしなければよかったとか。
でも、事実はそうはいかない。
その後悔の上に今がある。
今生きている。
今が今であるのは今が過去でないからだ。
過去はどこまでいっても過去だ。
そんなのわかりきっている。
けど・・・本当は願ってるんじゃないかな?
過去に戻れる可能性があることを。
そして、やりなおすことができる可能性があることを。
結局、今の自分が過去に戻って
違う選択をしたとしても
未来は変わらないのかもしれないのに
自分=自分だから
自分≠他人であって
でも、人間は他人のものをほしがるんだ
わかってるけどね
自分は自分だから他人になれないってことぐらい
自分は自分
他人は他人
よく聞く言葉だけど
そのことを本当に理解して
そのことを本当に受け入れている人が
いったいこの世界に何人いるのだろうか?
言葉としてはとても簡単だが
受け入れるのは難しいだろう
人は自分にないものを
本能的に求めてしまうから
それが与えられた罪なのかもしれないし
罰なのかもしれない
罪にしろ罰にしろ
与えられているそれは
とてもつらいものだ
例えば仮に
自分が望むものになれたとしよう
自分が望む人に
自分が望むものに
自由になれたとしよう
それでも人を満足できないだろう
新しい自分に
また新しい他人ができてしまうから
そしてその他人を今度は求めるかもしれない
すなわち繰り返すということだ
なにも変わらない
結局満足できる自分なんていない
だから・・・・
満足できる他人もいない
オリジナルであるいじょうオリジナルだから
他人に自分を100%理解してもらうのは無理
自分が他人を100%理解するのも無理
では、どうすればいいのか?
無理なのだからあきらめるのか?
だって無理なら無駄だ。
何をやっても無駄だ。
でも、それはちがう。
無理でも
無理だとわかっていても
人を、自分を、理解しようとするのは無駄ではない。
無理≠無駄なのだ
そのことに気がついたのは最近の事だ。
それまでは自分は
自分を失うことで生きようとした
自分がなければ
他人を望まない
自分がなければ
オリジナルじゃない
そうやっていけばいつか
Aとかいう記号になれると思ってた。
匿名であり
願望もなく
そこにあるだけで
そこにあるのかはわからない
Aというモノ
傍観者かもしれないし
行為者かもしれない
そこには理由がない
結果のみで埋め尽くされる
ただあるだけだから
だが、それも無理で
そしてなによりこっちは
無駄だった。
本当に無駄だった。
ただ逃げているだけだった。
誰もいなかった。
だから誰も関わらなかった。
だからいなくても変わらなかった。
そう
すでに存在の意義もなくなっていたんだ。
これこそ
・・・・・真に無意味。
無駄とか越えたモノ
無意味。
意味がない。
そしてそれは
価値がない
気付いたんだ。
だから
これからは
真に意味のある。
生き方をしよう