武蔵と伊織 玄米の干し飯
宮本武蔵には、親戚から貰い受けた伊織という養子がいた。
伊織は武蔵を慕っていた。
有名すぎて説明不要の大剣豪である。稽古を見せてもらえば、その苛烈さに憧れ、共にいるだけで誇らしく、人の多い場所に共に行けば自分が特別になったように思える。
いつか自分もそうなりたい。子供心にそう思っていた。養子縁組の話が来たら小躍りしたものである。
対称的に武蔵は、深く考えずに養子にしてしまった伊織を煩わしく思っていた。何せ自分が容易くできた事が、伊織にはできないのだから。
山を歩けばすぐにバテる。
木刀を振らせれば手から離れて放物線を描き、武蔵の頭上に落ちる。
キチンと握らせて再度振らせれば、五十を数える前に疲れたとほざく。
それでも振らせたら……手にマメができたと言う。
更に振らせれば、マメが破れたと泣く。
猪に遭遇したら腰を抜かす。
優れた自分が、若いうちから伊織を鍛えれば超絶凄い剣士になると思っていたのに。養子にして二十四時間経つ前に、武蔵はげんなりしてしまった。
よし縁組解消だ!
思い立ったが吉日、と親戚の家に戻ろうとしたがすでに夕暮れ。
腹が鳴り、朝から何も食べていないのを思い出した。
武蔵は風呂敷からパンパンに膨らんだ袋を取り出し、中身を出す。
干し飯である。
炊いた米を乾燥させた物だ。服に付いたご飯が乾燥したやつを想像してほしい。
普通はこれを水で戻したり煮たりして食べるが、……武蔵はこれをそのまま食べたという。それも白米ではなく玄米で。
ボリッ、ゴキッ、ボキッ、と格闘漫画とかで頻繁に使われる擬音が武蔵の口から響く。
ドン引きする伊織に、武蔵は干し飯を手渡してニッコリ。腹が膨れて機嫌が良くなったのだ。
えっ、あっ、はい。伊織は狼狽しながらもそれを受け取り、一粒だけ口に含んだ。
硬い。前歯で噛むと歯が折れそうになった。
やはり硬い。奥歯で噛んでも武蔵特製干し飯は潰れない。それどころか奥歯が割れそうだ。
犬歯で挟め、と武蔵は助言した。
何言ってんだコイツ。もう武蔵への憧れを枯らしてしまった伊織だったが、武蔵の笑顔の奥に煩わしさが染まっていくのを感じた。
米では食中毒くらいでしか死なないが、武蔵への反抗は死に等しい。少なくとも伊織にはそうとしか思えなかった。
えいやっ、と特に意味の無いかけ声で干し飯を犬歯で挟む………………が上手く挟まらない。
口の中でもぞもぞ干し飯を転がすうちに、徐々に唾が染み込んで柔らかくなっていつの間にか口の中から消えた。
なるほど。食べるのにも工夫をして機知を磨くのですね。まさに常在戦場とはこの事ですね。
憧れを取り戻した伊織は、キラキラ光る眼差しで武蔵を見た。
何を言ってんだコイツ?
武蔵は戸惑った。伊織の純粋さを、意味不明と解釈したのだ。
稽古を再開します、と結構な量の干し飯を平らげた伊織は木刀を振り始めた。マメが潰れているせいでぎこちなさはあるが、午前中よりも振りが鋭い。
何が違うのか武蔵はしばらく考えた。
なんだ。腹が減ってたからだ。
まあ………………当たり前なのだが、キツい状況に慣れきった武蔵にはこの時まで思い至らなかった。
武蔵は自分の若い頃を思い出した。父親からのシゴキ。郷里を飛び出してから思い知らされた世の中の厳しさ。よそ者への風当たりの強さ。掴んだ名声への嫉妬。
改めて伊織を見る。郷里を出た頃の自分より華奢で頼りない。
違うのか。俺とは。いや、みんな俺とは違った。
これまで戦った相手を思い浮かべる。みんな強かった。
きっと誰も最初は柔くて脆かった。伊織のように。なのに武蔵の前に立ち塞がるほど強くなった。
いつも紙一重だった。明らかに強い相手には卑怯な真似もした。大勢が相手の時には逃げた事。敵方はいつだって強かった。
そうか。
強くなる方法は一つでは無いのだ。武蔵のようにできぬのなら、別のやり方を考えてやれば良いのだ。
例えば。
先ほどの助言は、硬い干し飯を犬歯で砕けと言ったつもりだった。
しかし伊織はそれが上手くできず、口の中で干し飯を転がしていた。その結果、唾で湿って溶けた。
過程が異なっても、食べる事はできたではないか。
武蔵は、生き生きと素振りする伊織を見た。
そして仕留めた後に木に吊るして血抜きしている猪を見た。伊織を返してから独りで消費するつもりだった。
「なんだか楽しくなって来たのう」
伊織が振り向いた。