04.侮蔑と偏見
げ、と思わず零れそうになった下品な声を、エリーゼは慌てて呑み込んだ。
なぜ、と聞きたいのはこちらのほうだ。つい最近グレイフィールドへ来たばかりの彼が、なぜ自分の正体を知っているのか。
(もしかして、昨日の夜会に参加してた?)
そうとしか考えられない。
オーエン子爵との婚約破棄で忙しく、誰が参加しているのか確認する暇もなかったけれど、きっと彼も広間であの婚約破棄劇を見ていたのだろう。
そこで彼がどんな感想を抱いたのか。あるいは親切な誰かがエルドラン男爵令嬢のどんな噂を吹き込んだか――あまり考えたくはない。
(で、でも! 昨晩のわたしは着飾ってたしお化粧もしてたし……。今ならまだ、ごまかせるかも!)
夜会などに参加する際、エリーゼはできるだけ派手に見えるよう、華やかな色のドレスや濃い化粧で装うことにしている。その上、仕事中は変装のため、珍しい薔薇色の髪を栗色のかつらで隠しているのだ。
そうすれば、よもや領主の館で働いている『エリー』と、エルドラン男爵令嬢を結びつける人間などいないだろうと考えてのことである。
主にきつい化粧のせいで『悪女』という印象により拍車をかけてしまったわけだが、今はそんなことはどうでもいい。
「えぇーっ!? 何言ってるんですかぁ、公爵さま! エリーゼ・プロム……? 誰それ?」
危機を逃れるため、なるだけ平民のアクセントに寄せて、身振り手振りを交えて少し下品に振る舞ってみる。
公爵がかすかに眉間に皺を寄せたのを見て、もう一押しとばかりにケタケタと笑ってみせた。
「やだーもうー! あたしが男爵令嬢だなんて、嬉しいけど早とちりにもほどがありますぅ! 公爵さまっておもしろーい!」
我ながら、中々の役者ではないか。
これならどこからどう見ても、礼儀知らずで少し考えが足りない田舎娘である。
(さあ、ノースフォード公爵! ぞんぶんに騙されてちょうだい!)
己の演技力による『勝利』を確信していると、公爵が腕組みをしながらじっと顔を見つめてきた。そして、呆れたように小さなため息をつく。
「……私は、エリーゼ・プリムローズが〝男爵令嬢〟だとは一言も言っていないのだが」
(し、しまった――――!)
実に冷静な指摘に、エリーゼの笑顔が強張った。
確かに、彼はエリーゼの名前を口にしただけで、身分については一切言及しなかった。痛恨のミスである。
「え、ええっとぉ。噂で何度か聞いたことあるっていうか……その、有名ですよね、悪女って……」
「ほう。悪女という自覚が自分であるのだな」
だめだ。全然納得してくれない。
拙い言い訳を鼻で笑った公爵だったが、すぐに笑みを消し、真顔になる。そして、温度を感じさせない低い声で言った。
「これ以上しらを切る必要はない。エリーゼ・プリムローズ。君の魂胆は分かっている」
「こ、魂胆?」
「弟は領主で、君は金持ちが好きだ。それ以上の説明は必要ないだろう」
決めつけるような物言いに、頬が熱くなる。
つまり彼は、エリーゼがグレイフィールド辺境伯に近づくため、身分と名前を偽ってメイドの仕事をしていると考えたのだ。
「わ、わたしは別に、そんなつもり――」
否定しようとした瞬間、エリーゼの顔のすぐ横に拳が叩きつけられる。
壁を殴る大きな音に身を竦ませ、言葉が途切れさせていると、眦をきつくした公爵が至近距離でエリーゼを睨みつけてきた。
怒りと侮蔑、敵意。瞳の奥には、そういった悪感情が露骨に浮かんでいる。
「君はこれまで、大勢の男性たちを籠絡してきたそうだな。だが、いいか。弟には幼い頃から将来を誓った婚約者がいる」
「し、知っています」
さすがのエリーゼも、金持ちなら誰でもいいというわけではない。
だから婚約者や既婚者など、決まった相手がいる男性には決してアプローチをかけたことはなかった。
唯一、かつてチェルシーの婚約者だった男が勝手にエリーゼのことを好きになり、言い寄ってきたことはあったが、妹を傷つける不実な男などごめんこうむると手ひどく振ったくらいだ。
「知っていながら、弟に狙いを定めたのか。さすが、噂通りの女性だな。妹の婚約者を奪うだけある」
「誤解です! わたしはそんなことしてません!」
慌てて否定したが、元より公爵はエリーゼの言葉になど耳を貸すつもりはないようだった。
「口ではなんとでも言える。これ以上、君のようなふしだらで不品行な悪女を弟に近づけるわけにはいかない。私が憲兵に訴え出る前に、即刻この館から出て行きたまえ」
わかったな、と念を押すように告げ、公爵はエリーゼの前から去って行った。
エリーゼの言い分など、何一つ聞こうともせずに。
しばらく呆然としたまま、虚空を見つめていたエリーゼだが、やがてずるずるとその場に崩れ落ちる。
お仕着せの裾が汚れることにすら思いが至らぬまま、腰をぺたんと地面につけると、布越しに冷たい土の感触が伝わってきた。
(――ふしだらで不品行な悪女? 憲兵に訴え出る?)
ひんやりとした地面に座っている内にじわじわと、公爵の言葉が蘇る。
確かに、エリーゼはこれまで何人もの男性と婚約し、婚約破棄を繰り返してきた。しかし、今朝チェルシーとも話した通り、それには相応の理由があったからこそだ。
決して、ふしだらだとか不品行などと誹られるような行為はしたことがない。
それなのに公爵は、一方的な噂を鵜呑みにしてエリーゼを侮辱した。脅すような真似までした。
なんたる理不尽。悔しすぎて、涙すら出てこない。
「上等じゃないの……」
ふつふつと腹の底から滾るような怒りが湧いてきて、その勢いのままに立ち上がる。
そして土で汚れたお仕着せの裾を軽く叩くと、先ほど彼が消えて行った方向を睨みながら叫んだ。
「わたしの雇い主はあなたじゃなくて旦那さまよ! 絶ーっ対に、出て行ってやらないんだから!!」