10.レモンメレンゲパイ
「あっ」
少年を見送った後、エリーゼはふとあることに気づいて声を上げた。
「どうした?」
「お薬代、払わずに出てきました……」
早く少年に薬を渡さねばと頭がいっぱいで、店の女性に代金を渡すことをすっかり失念していたのだ。
ギデオンが呆れたような目を向けてくる。しかしそれは、微笑ましい失敗をした子供を見るようなごく優しい眼差しであったため、エリーゼは必要以上の罪悪感に駆られずに済んだ。
「今から払いに行こう。どの店だ?」
「さっきの、ライム色の看板の……」
「またあの店か!?」
先ほどから一体、あの店に何か特別な思い入れでもあるのだろうか。突然大きくなった声に驚き、エリーゼの足が地面からほんの少しだけ浮いた。
「えっと、お財布を貸してくださったら、わたしひとりで行ってきますけど……」
「……私も行く」
仕方なさそうに、本当に仕方なさそうに呟いたギデオンが、明らかに気が進まない様子で歩き出す。よくみると奥歯を食いしばっているようだが、なぜそこまで嫌がるのかはわからない。
店のドアを開けると、先ほどと同じように、店員の女性がすりこぎで薬草をすりつぶしていた。先ほどとはまた違う薬草らしく、漂ってくる香りが微かに変化している。
「あの、すみません。先ほど、お代を渡し忘れてて……」
「ふふふ、急に飛び出していったから何事かと思ったわ。ネロリア草とアジューカの肝一包ずつで、三百ルーナよ」
女性は、エリーゼが会計を忘れたことに特に怒っているわけではないようだった。
ほっとしながら、会計台の上にある小さなトレイに銀貨を三つ乗せる。そしてふと、疑問に思った。アジューカの肝はともかく、ネロリア草の粉末を買って三百ルーナは安すぎはしないか。
「ネロリア草はこのところ、値上がりし続けていると聞きましたけど……」
「お嬢さん、薬草に詳しいのね」
「実家が薬草園だったんです。父の調薬の手伝いをしていました」
そう言うと、女性は納得したように頷く。
「私はサンティラージャの出身なの。夫が直接、故郷の畑から仕入れてくれているから、この値段に抑えられるのよ」
それを聞いて、エリーゼもまた納得した。オルテミアで流通しているネロリア草は、すべてサンティラージャ産のものだ。
女性は銀貨を小さな革袋の中にしまい、綺麗に爪紅の塗られたほっそりとした指を頬に当てながら、困ったような顔をしてみせた。
「それでも、近頃はなんだか必要以上に大量買いする人がいるらしくって……。本当に困っている人に行き渡らないと思うと、あまり良い気持ちはしないわね」
「そうですね……」
幸いにしてエリーゼは、ギデオンのおかげで母の薬の材料を手に入れることができたが、ネロリア草を買い占める誰かのせいで困っている人間は、きっと他にも大勢いるのだろう。
せめてこの国でもネロリア草を栽培できるようになればいいのだが、それは難しそうだ。土が悪いのかそもそもサンティラージャとでは気候が違うためか、以前実家の薬草園に苗を植えたところ、成長する前に枯れてしまったのだから。
「まあ、うちはそんな商売はしないから安心して。また必要な物があったら、いらしてちょうだいね」
「はい、ありがとうございます」
女性に軽く会釈して店を出てすぐ、エリーゼは通りを行きかう人影が少なくなっていることに気づいた。
リンゴンと、重々しくも優美な鐘の音が鳴り響く。昼食時を告げる鐘だとわかったのは、そこかしこから肉や魚の焼ける良い匂いが漂ってきていたからだ。
「我々も、どこかレストランに入ろうか。近くに、レモンのメレンゲパイが絶品だと噂の店があるのだが……」
エリーゼの代わりに、腹の虫がグゥと返事をする。
そういえば今朝は、朝食があまり喉を通らなかったのだ。だからと言ってなにも、このタイミングで鳴ることはないではないか。
あまりの恥ずかしさに俯いて腹を押えていると、くっくっと喉を鳴らす音が聞こえてくる。ギデオンが、口元を押えたまま小刻みに肩を震わせていた。
「わ、笑うことないじゃないですか……!」
「すまない。あまりに正直な腹の虫だと思って」
むっとして唇を尖らせると、ギデオンはまるで拗ねた子供にそうするように、ぽんぽんとエリーゼの頭を撫でた。
広い手のひらの温かく優しい感触に、胸の奥が甘酸っぱいような、とろとろと淡い炎であぶられているような不思議な心地になる。
「子供扱いはやめてください」
ごまかすようにそっぽを向いたエリーゼに、ギデオンが軽やかな笑い声を上げる。こちらの気もしらず、呑気なものだ。エリーゼは心臓の鼓動が彼に聞こえていないか心配で、こんなにも落ち着かない心地でいるというのに。
「――好きなんだな」
「はい!?」
思わず声が裏返ったのは、咄嗟のことで主語を取り違えたからだ。
「レモンメレンゲパイ」
付け加えられた一言に、エリーゼは拍子抜けしたような思いで、無言のまま頷いた。