09.掏摸の少年
その後、もう一軒の雑貨屋でレターセットを選んでいる間も、それどころか次の菓子店でクッキーを買い終えてからも、ギデオンの顔の赤みはなかなか引かなかった。
「やっぱり、熱があるんじゃないですか? 冷たい風に当たったせいかも」
買い物の包みを片手に持ち替え、家族にそうしていたようにぴとりと額に手を当てる。すると温度を測る間もなく、「うわっ」と言いながら後ずさりされた。
(何よ、蛙に飛びかかられたみたいな声を出して。失礼ね)
少しむっとしたが、それでも、様子のおかしな彼が心配な気持ちに変わりはない。
「具合が悪いならそろそろ帰りましょうか。レターセットとペンも買えましたし」
「いや――」
左脇のあたりに何かがぶつかるような鈍い衝撃を感じたのは、ギデオンが何事か言いかけた時だった。驚いて視線をそちらに目をやれば、薄汚れた身なりの少年が傍らをすり抜けていくのが見える。
まだ、十歳くらいだろうか。この町にも、こんな服装の子供がいるのか――と驚いていると、ギデオンがすかさず右手を伸ばし、むんずと少年の襟首を掴んだ。
「うわぁぁ! 離せおっさん! はーなーせーよー!!」
少年はじたばたと暴れながら拘束を逃れようとするが、かつて軍で鍛えたというギデオンにとっては、抵抗の内にも入らなかっただろう。
「まずは盗った物を返してもらおうか」
「えっ!?」
驚いて少年を見れば、彼はしぶしぶとつなぎのポケットに手を入れ、財布を取り出す。上質ななめし革で作られた紋章つきのそれは、間違いなくギデオンのものだ。
(掏摸……。こんな子供が!)
王都に掏摸が多いと言う話は父から聞いたことがあったが、まさかこれほど幼い子供まで犯罪に手を染めているなんて思いもしなかった。
それに彼の慣れた手並みを見るに、これが初めてというわけでもなさそうだ。
「返したからいいだろ! もう離してくれよ!」
「言っておくが、返したら離すとは言っていない」
「そんな! 困るよ! おいら、病気の母ちゃんがいるんだ。おいらが憲兵に突き出されたら、母ちゃん死んじまうよ!」
「犯罪者は皆、そういうことを言うんだ。どうせ放したら、同じことを繰り返す気だろう」
冷たく突き放され、少年がうぐっと口ごもる。否定しない辺り、案外素直なのだろう。
「でも、本当なんだ……。母ちゃん、ずっと空咳が治らなくって。喉と胸も痛いって言ってるし……。薬代が必要で、それでおいら……」
話している内に、段々と悲しくなってきたのだろう。少年の目が涙で潤み始める。
エリーゼにはとても、彼が作り話をしているようには思えなかった。
「お医者さまには診せたの?」
「――エリーゼ」
横から口を挟むなと言わんばかりにギデオンが固い声を上げるが、エリーゼは気にせず、少年の側に近づいた。
視線を合わせるように膝を曲げて覗き込むと、土埃で汚れた顔が不愉快そうに歪む。
「医者なんて、アウトサイドにはいないよ!」
「外?」
「いわゆる貧民街のことだ。かつての城壁の外に広がる住宅地が、そう呼ばれている」
ギデオンの視線の先を追うと、なるほど遠くに灰色の壁がそびえ立っている。かつては異国の軍隊から人々を守ったであろう城壁も、今はすっかり昔の威容を失い、砂埃でまだらに汚れていた。
「喉と胸が痛いって言ってたわね。他に何か症状は? 手足が浮腫むとか、胸焼けがするとか」
「……なんで分かったの?」
先ほどまでエリーゼに敵意を剥き出しにしていた少年が、呆気にとられたように目を丸くする。
分からないはずがない。その症状は、エリーゼの母が日頃から訴えていたものと全く同じだったのだから。
「ちょっと待っててね」
「待て、エリーゼ……!」
呼び止められるのも構わず踵を返したエリーゼは、先ほどガラスペンを買った雑貨屋まで一目散に走る。
会計台の向こうでは、店番の女性がすりこぎで何らかの薬草をすりつぶしているところだった。
「――すみません!」
息を切らしながら声を掛けると、女性が驚いたように顔を上げる。
「あら。どうしたのお嬢さん。やっぱりさっきの薬、欲しくなった?」
「いえ、そうじゃなくて。ここって、ネロリア草とアジューカの肝の取り扱いはありますか?」
「ええと……、確かあったはずよ。この棚だったかしら」
女性は一瞬困惑の表情を浮かべたものの、すぐに側の戸棚を開け、中から小さく折りたたまれた薬包紙をふたつ取り出した。
「どちらも粉末にしているけれど大丈夫?」
「十分です、ありがとうございます!」
薬包紙を受け取るなりエリーゼは店を飛び出し、ギデオンたちのいる場所へ戻った。そして少年に向かって、ふたつの薬包紙を差し出す。
「この粉末を朝と晩の二回ずつ、お母さまに飲ませてあげて。大量に飲むと逆に身体に悪いから、どちらも、小指の爪の先くらいでいいわ。少しは楽になるはずよ」
「でもおいら、金持ってない……」
「もちろん、タダというわけじゃないわ。今度の休日に、ノースフォード公爵邸を訪ねていらっしゃい。そこでお仕事を手伝うって約束するなら、このお薬をあげる」
少年は顔をぱっと輝かせると、何度も何度も首を縦に振る。
「ありがとう、お姉ちゃん! おいら、約束する! 今度の休日、絶対に公爵邸に行くよ」
受け取った薬包紙をポケットに大事にしまいこんだ少年は、弾む足取りで通りの向こうへ消えていった。
「……私には、あの少年が約束を守るとは思えない」
少年の背中を見送った後、ギデオンが腕組みをしながら難しい顔で呟いた。
「それに、全員を助けられるわけではない」
「わかっています」
ギデオンの言っていることは、きっと正しい。エリーゼが手を差し伸べられる人数はほんの僅かで、少年ひとりを救ったところで、それは自己満足に過ぎないのだろう。それでも。
「自分の手の届く範囲の人だけでも助けなさいと、両親から教わりましたから」
「……そうか」
ギデオンの返事は素っ気なかったが、先ほどまでと比べてその声音は随分柔らかく聞こえる。
少年の消えたほうを見つめながら、エリーゼは小さく微笑んだ。