08.ソーンヴィル通りの喧騒
物心ついてからずっと、グレイフィールドから出たことのなかったエリーゼにとって、ソーンヴィル通りの光景は驚きの連続だった。
道は信じられないほど綺麗に舗装されており、何台もの馬車が行き来している。ずらりと立ち並ぶ店のどれもが華やかで小洒落ており、道行く人も身なりがよかった。
改めて、王都の豊かさに圧倒される。
馬車を降りた途端、どこからか聞こえてきた音楽に視線をさまよわせれば、通りに面した壁の前で異国の民が楽器を奏でていた。
チャリンチャリンと、奏者の目の前に置かれた箱にコインを投げ入れる小気味良い音が響く。
「お祭りでもやっているんですか?」
「ソーンヴィル通りはいつもこんな感じだ。今日はむしろ、空いているほうだな」
平時でそうならば、建国祭や女神の降臨祭の時はどうなってしまうのか。想像するだけでくらくらしてしまう。
だけど、来たことのない場所というのはそれだけで胸がときめくものだ。ガラス製のショーウィンドウも、華やかなドレスを着せられたトルソーも、山と積まれた色とりどりの帽子も、目に映るもの何もかもが珍しい。
きょろきょろと周囲に視線を巡らせていると、急にギデオンが手を伸ばし、肩を抱き寄せた。
「――こちらへ」
ふたりの距離が急激に近づき、ふわりと、百合の香りが立ち上る。それがギデオンの香水だと気づくのに、数秒の時を要した。
肩を抱く手のひらの力強さや、密着している部分の温かさを殊更に意識してしまい、妙な汗が止まらない。
石像のように固まるエリーゼのすぐ側を、前方からやってきた紳士の集団が通り過ぎたことによって、ギデオンが自分を抱き寄せた理由にようやく気づいた。
そうしていなければ、エリーゼはきっと彼らにぶつかっていたことだろう。
「君は危なっかしいな。ほら、はぐれないように私の腕に手を回すといい」
呆れたような微苦笑に、やけに落ち着かない心地にさせられるのはなぜだろう。
差し出された腕に手を回すのに、数秒間が開いてしまったことに気づかれていないといいと思った。
「まずは雑貨屋に寄ろうか。そこの角の店は、女性の好きそうな品がたくさん揃っているし、向かいのライム色の看板の店は、主に珍しい輸入品を取り扱っている。店主は腕の良い薬師で、異国の薬も取り扱っているそうだ」
興味をそそられる説明に、エリーゼは少しばかり冷静さを取り戻した。実家では近場に雑貨屋は一店舗しかなく、それも腰の曲がった老婆がひとりで切り盛りしているような、小さな店だったのだ。
「両方見てもいいですか?」
「もちろんだ」
少しだけ我が儘を言えば、ギデオンは嫌がる様子も見せず快諾してくれる。
まず先に、ライム色の看板を掲げている店に入った。扉を開けるなり涼やかな鈴の音が響き、嗅いだことのない甘くスパイシー香りが鼻をついた。
(異国の薬の匂いかしら……)
店内にはいくつもの棚があり、中に薬の材料が納められているようだった。天井には、乾燥させた草花や乾物、香辛料が吊り下げられている。
店の中央に置かれたテーブルの上は、不思議な動物の置物や、変わった紋様が織り込まれたコースター、奇抜なデザインのアクセサリーなどでごった返しており、まるで子供の宝箱をひっくり返したような様相である。
(素敵なお店……。こういう感じ、お父さまが喜ぶかも)
父はかつて、薬草学を学ぶため海外留学を志したことがあったらしい。結局は実家の財政状況を鑑みて諦めたらしいが、父の書斎の本棚には、今でも外国語の本がたくさん並んでいる。エリーゼも辞書で勉強しながらいくつかは読んでみたものの、父の知識量には遠く及ばない。
(この小瓶は、薬入れに丁度よさそう。それにあっちのスプーン、目盛りが刻んであるからきっと計量用ね)
ほくほくしながら店内のあちらこちらを見て回り、父の仕事に役立ちそうな道具や、見たことのないを薬草をいくつか見繕う。
その際、一目見て気に入ったガラスのペンと、深い森のような色をしたインクをふたつ自分用に購入することにした。
会計をするために、店番をしている褐色の肌をした女性の元まで行くと、彼女は包みと一緒に何かを差し出した。
「お嬢さん、これ、オマケしましょうか」
「これ、なんですか? お薬?」
差し出された赤い小瓶をじっと見つめれば、女性が意味深な笑みを浮かべる。
「夜に使うためのお薬よ。これを塗ると、体が熱くなるの。サンティラージャ王国では王族も使っているわ」
なるほど、つまり冷え性のための薬ということか。
このところめっきり寒くなってきたし、これはありがたいオマケである。
「ありが――」
「せっかくだが、我々には必要ない」
エリーゼの礼を遮るように、ギデオンが食いぎみに断った。彼は購入品の包みだけを受け取ると、エリーゼの手を強引に引っぱりながらずんずんと大股で店を出て行った。
その後も止まることなく大股で通りを突き進むため、エリーゼはややよろめきながら彼についていく形となる。
「ちょ、ちょっとギデオンさま!?」
転びそうになり、慌てて名前を呼ぶと、彼はようやく足を止めた。
「なんで断っちゃうんですか! せっかくくれるって言うんだから、貰えばよかったのに」
「――君は!」
突然の大声に驚き、エリーゼは目を大きく見開いたまま固まった。
近くを歩いていた人々も、すわ痴話喧嘩かと興味津々の視線を送っている。ギデオンは気まずそうな顔をした後、声のトーンを落として言った。
「あの薬を、誰のために使うつもりだったんだ」
「誰にって……。自分のためですけど」
尋問するような口調で問い詰められれば、いい気はしない。エリーゼは若干憤然としながら答えた。
しかし、ギデオンも負けてはいない。エリーゼを睨めつけるような強い視線で射貫き、低い声で問いかける。
「そういう相手がいるのか」
相手? なんの相手かはよくわからないけれど。
「……冷え性の薬って、相手がいないと使えないんですか?」
「冷え性」
「え、だって、夜に塗ると体が熱くなるって……」
困惑しながら答えれば、たちまちギデオンの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「えっ、えっ。どうしたんですか? 熱でも出ました?」
「――なんでもない」
彼は両手で顔を覆い、しばらくの間、壁に背を預けたまま動かなかった。




